2020年9月3日木曜日

患難期前携挙説の問題?

携挙に関する考察(4) 

世捨て人になる?
患難期前携挙説は様々な問題も引き起こしたことも事実だ。テサロニケにも「携挙」がもうすぐあるなら働く必要もなかろうと、怠惰な者達がいたようだ。それでパウロが戒めている。(Iテサロニケ5:6−12)ホーリネスの中田重治も「キリストに来て頂きさえすれば、一切の問題も解決されて、個人も、社会も、国家も神の御支配のもとに平和を楽しむようになるのである。」と断言し、(*1)その影響を受けた神学生が勉強そっちのけで祈ってばかりいたなど偏った信仰生活となっていった。また、再臨で全て解決となれば「世捨て人」的になり、社会生活への関心を無くし、社会的責任を果たすのが疎くなる傾向もある。

まとめてみると・・・

1.      仕事や学業を軽んじる。
2.      社会問題に関わらない。政治的無干渉。無抵抗主義。
3.      所謂、「世捨て人」になる。逃げの姿勢。
4.      「携挙」を待ち望むことだけが信仰の熱心さのバロメーターになる。

「無千年王国」「千年王国後再臨説」の良い点は、現在の「この地上」にフォーカスし、逃げないで神と共に問題解決に向かおうとする態度だ。ただ、自分たちが王国を建て上げるプレッシャーから解放され、また逆に、ただ再臨を待つ受け身の姿勢からも解放されるために、NTライトが言うところの「神の国のために建設する」(*2) 視野が必要になる。自分たちが「神の国」を建設するではなく、「神の国のため」に建設する。神の国が来るのだから、神の国で完成されるのだから、今から神と共に始める。神の国の価値観を生きる。「御国」を証する。神がいる、愛があることを証しする。ただ、ライト氏は聖公会で、無千年王国の立場なので、神の国=新天新地(更新されたこの地上=天と地が完全に交わる時)という解釈になる。

「千年王国」支持者としては、この解決として「携挙」、「復活」「千年王国」を1つの括りとして考える必要がある。携挙の時に復活の体を頂く。体を頂いているのに、「天国」でふらふら遊んでいるのは似合わない。患難期後にこの地上に戻ってくる。そして王なるイエスと共に「この地上」に成就する千年王国を治める。従って、今は王と共に地を治める「修行=見習い期間」とも言える。正に「神の国のため」建設するのだ。千年王国は、この地上なので生活するために様々な仕事が必要になる。今、「この地上」でやっていることは全て意味を持つ。良きワザはやがて完成される。「この地上」なので、現在の地上生活との継続性がある。しかも、患難期直前に携挙がある場合、たった7年で地上に戻ってくることになる。その観点がないと、「携挙」で解決(この地上をおさらば)なので社会的責任の放棄となりかねない。地上の「千年王国」の強調が、ある意味バランスある患難期前携挙説を支えることになる。(今の仕事をどう考えるかについては、アーカイブで「この世界で働くということ」シリーズをご参照頂きたい。)



終末的試練を通らなくていいのか?
もう1つは「試練」の問題。岡山英雄著「子羊の王国」では、教会は終末的苦難を受けるよう定められており、苦難を通してきよめられていくことであり、世から脱出することではないという。(*2) これに関しては説明が必要だ。教会は確かに、試練を通る。苦難を通る。第1世紀のローマ皇帝下での迫害、日本のキリシタン迫害、今日でも北朝鮮や中国、イスラム諸国でクリスチャンは迫害を受けている。Iテサロニケ3:3でパウロは「私たちはこのような苦難に会うように定められている。」と言っているし、IIテモテ3:12では「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」と明言している。イエスご自身もマタイ5:11−12でクリスチャンが迫害を受けることを前提として語っている。それは信仰生活の大事な要素でもある。神は時として信者がある期間、迫害を通ることを許される。

その懲らしめの目的は「ご自分のきよさにあずからせるため」(ヘブル12:10)であり、教育的目的がある。

しかし、患難期の苦難は性質が違うのだ。人類最後のあまりにも特別な7年間だ。

1.      それは「神の怒り」であり、裁き。(黙示6:10、16−17、15:1)
2.      かつてない苦難。(マタイ24:21)信徒の訓練のレベルではない。脱出の道がない!耐えられない。(Iコリント10:13、黙示6:17)黙示6:11で「殺されるはずの人々の数が満ちるまで」とは信じて、殉教する人の数という意味で、患難期に信じることは即、死を意味する。だから患難期には「主にあって死ぬものは幸い」(黙示14:13)なのだ。「訓練」のためと言っている余裕は無い。訓練のために「かつて無い苦難」を通すのだろうか?強い体と精神力を鍛えるため、運動部で辛い訓練を受ける。(筆者も機体体操部だったので、その体験がある。)しかし、「訓練」と言って、戦場の最前線の弾丸の飛んでくる所に送り出すだろうか?それは、もはや「訓練」ではない。
3.      サタンの最後、3年半は特別な時期。今の日常のサタンの動きと違う。自分のいる時間が短くなったことを知って、さらに暴れまわる時期なのだ。(黙示12:12)また、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許されている。(黙示13:7)
4.      サタンは地上に落とされ、(黙示12:9)悪霊どもも姿を現す。「人間の顔のようなイナゴ」や、「蛇のような尾を持つ馬」(黙示9章)が現れる。しるしを行う悪霊どもの霊が「全世界の王たち」のところに出て行って王たちをハルマゲドンに集める。(黙示16:14)こんな顕著に悪霊が働く時代はなかった。「不法の秘密」は、もはや秘密ではなくなり、(IIテサロニケ2:7)公然と反キリスト勢力が全世界的に動く時期なのだ。今までの時代と違うのだ!

地上にあって守られるにしては、あまりにも辛い。全ての山や島がその場所から移され、島は全て逃げ去り、山々は見えなくなった。(プレートの大移動?)(黙示6:14、16:20)、地上の3分の1が焼ける(黙示8:7)、海の中のいのちあるものがみな死に(黙示15:3)、太陽が人々を火で焼き、(黙示16:8)、人間の歴史上かつてなかったほどの大地震(黙示16:18)、30kgほどの雹が人々の上に天から降る(黙示16:21)・・・。霊的成長のための試練として、こんな所を通らされるのだろうか?いや、これは神の未信者への怒りの時なのだ。「あなたがたを苦しめるものには、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。」Iテサロニケ1:7)また、ヘブル書12:18−20のシナイ山のおそるべき光景はキリスト無しに人々が神のみ前に出た時の姿なのだ。まさに、これが患難期の恐ろしい光景なのだ。キリストを拒み続ける人々にとって(神と和解しない人々にとって)、神は報復の神となり恐ろしい光景を見ることになる。

教会は神の怒りを通らない。しかし、患難期でも「御国の福音」はのべ伝えられる。(マタイ24;14、黙示14:6−7)患難期でさえ、救われる人は出る。だから、成長のための試練としてではなく、神の怒りを受けないように怒りのターゲットを限定される場合がある。(黙示9章のイナゴ。15:2の悪性の腫れ物など)しかし、こんな時代、神は、なるべく早く、信者を天に引き上げられるものと思われる。この時期、殉教は「救い」なのだ。(黙示14:13)もちろん、地上に生き残っていた信者は地上再臨の時、報いが与えられるために集められる。(マタイ4:31)


キリストは本当に空中に現れるのか?
NTライト氏は文字通りの「携挙」に懐疑的だ。「特に北米でよく見られるのだが、このフレーズ(再臨)が文字通りイエスが上から降りてきて、地から空に昇っていく贖われたものたちと空中で出会うという特殊な「来臨」を指すようになると、様々な問題が起こってくる。」(p.217)と述べている。ライト氏の説明では、まず、「人の子が雲に乗ってくる」とイエスが言った時、再臨の話ではなく、自分の神の子としての正当性を立証するためだ(p.218)とする。そしてIテサロニケ4章の携挙の記述は、パウロが3つのストーリー(隠喩)を意図的に1つにまとめようとしたのだという。1つは、トランペットが鳴り、大きな声が聞こえ、不在中のモーセがイスラエルの民の様子を見に山から下ってくるシーン。2つ目、「雲の上に引き上げられる」はダニエル7章の「迫害された神の民が雲の上に引き上げられ、栄光のうちに神と共に座すこと」、3つ目、「空中で出会う」は王が都から属州にやってきた時のように、主を出迎え、彼らが後にした地に主をうやうやしく迎え入れる(地上に戻る)こととする。このように何重にも込められたパウロ独特の高度な隠喩的修辞の典型例であると言う。ともあれ、そこでのメッセージは「イエス自身が直々に存在するようになり、死者はよみがえり、生存中のキリスト者は変容される。」と言うことだと言う。(228−229)

さて、皆さんはどう思うだろうか。そう説明されれば、そう思わないわけでもないが、迫害下のテサロニケのクリスチャン(まだベイビークリスチャン)に向かって、3つの隠喩を高度にミックスした修辞学を語るだろうか?しかも、テサロニケのクリスチャンの中核は「神を敬う異邦人」と貴婦人たちだった。私は文字通り、素直に読み、信じるべきだと思う。テサロニケのクリスチャンも文字通り、解釈し、信じたのだと思う。文字通りの事が起こるので、それを持って慰め合ったはずだ。(Iテサロニケ4:18)

ライト氏は「パロージア」、つまり不在に対しての「臨在」と言う概念を大事にする。現れ方はあまり問題にしていないようだ。再臨は「宇宙人のようにキリストが天から降ってくる」訳ではないとする。しかし、どうやって「直々に人として現れる」のだろうか。「臨在」が満ちるのだろうか?「天に昇って行かれるのを、あなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)は意味をなさないのだろうか?やはり、聖書は字義的解釈するのが一番、ストンと来る。希望がストレートに伝わる。神はご自分が来臨されるという大事な事を、どうとでも解釈できるような曖昧な表現で語るだろうか?大事だからこそ、ストレートに語り、読者もストレートに解釈すべきなのではないだろうか?

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  1)「中田重治とその時代」 中村敏 著 いのちのことば社 229頁
  2)「驚くべき希望」 NTライト 著  あめんどう 334頁
  3)「子羊の王国」岡山英雄 著 いのちのことば社 64頁
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
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Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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