2021年2月25日木曜日

教会はいつから、どう変質したの?

 

オーガニックチャーチ ムーブメントとは?

私達Tokyo Metro Community(TMC)も、他のオーガニックチャーチも本来の教会の姿、すなわち初代教会に戻ろうとするムーブメントであるとも言えます。

つまりオーガニックチャーチとは新しい教会の形態ではなく、オリジナルな教会の形態に戻ることを意味するのです。

 

教会(エクレシア)はペンテコステの日に生まれました。(使徒2章)こんな流れですね。

 

1.      五旬節、皆が同じ場所に集まっていた。(使徒2:1)

 

2.      その後、約束の聖霊が下った。(2:33)

 

3.      ペテロは聖霊に満たされイエスがキリスト(メシア)であることを宣言した。(2:14—37)最初の伝道メッセージとも言える。(2:38−40)

 

4.      それにより信じた人たちはバプテスマを受けた。その日、3000名が弟子に加わった。(2:41)

 

  後日も伝道メッセージは語られただろうから信者はあっという間に

1万人近くになったと思われる。

 

5.      教会堂というものが無かったので、おそらく使徒たちの指示に従って家々で集まりを持つようになっただろう。

 

6.      集まって何をしていたかと言えば、

 

           「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、

    祈りをしていた。」(2:42)   

 

「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと

  真心をもって食事をともにし・・」(2:46)

 

  *宮に集まったのは、各自、聖書を持っている時代では無かったので、旧

   約聖書を聴く場所は会堂だった。また、まだキリスト教がユダヤ教から

   はっきり分離していなかったので自他共にユダヤ教の一派という意識

   が強かったからだろう。

 

7.      そのような集まり(エクレシア)を持った結果は・・

  「神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々

   を加えて一つにしてくださった。」  (2:47)

 

私たちTMCエクレシアでは定期的に、一緒に集まり、食事を共にし、人生の中で主がどう働かれているか分かち合いをすることで主を賛美し、使徒たちの教え(み言葉)を分かち合い、お互いの祈り課題を聞いて、祈り合っています。シンプルで本質的なものに戻る必要があるのではないでしょうか?

 

 

教会はいつ、どう変質したのか?

今日的「ラオデキア教会」とはキリストを追い出してしまっているリベラル教会と言えるでしょう。これはもっての外ですが、今日、正統派、福音派と言われている教会でも、初代教会からだいぶズレてしまっているところもあるのです。

 

大雑把に説明すると、AD313、キリスト教はローマ皇帝コンスタンティンにより「公認」され、さらにAD392に「国教化」されるに従って、国家権力と繋がり、世俗化、形骸化してゆく、そして、中世のカトリック時代を経て16Cマルチン・ルターやカルビンによる宗教改革で軌道修正して今日に至っている・・・ということになっています。しかし、宗教改革時の軌道修正が十分では無かったので、ズレたままのところも多々あるのです。これについては以前にフランク・バイオラの”Pagan Christianity?”また、”Reimaging church”を紹介した中で解説してますので、そちらをご参照ください。

 

* 2011年3月6日「ペイガン・クリスチャニティ?」

* 2011年3月13日 「教会を再イメージする」(1)〜(3)

                           

 ここでは、初代教会が公認化、国教化されどう変質したのかに注目してみます。

 

デイヴィッド・ベルソー「初代キリスト教徒は語る初代教会に照らして見た今日の福音主義教会」によると初代教会は以下の4つの壁で純粋性が守られていたといいます。


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1.「使徒以後に新しい特別啓示はない」という確固たる信念と、「変化イコー

  ル誤り」と考える超保守的な精神。

 

2.教会の《世からの分離》。それにより、世的な態度や行ないといった流れか

  ら、キリスト教が影響されるのを防ごうとした。

 

3.使徒たちが指導していた教会の長老たちに、問題を打ち明け、委ねるとい

  う自発的な慣行。

 

4.各集会の独立。それゆえに、間違った教えはすぐには広がりにくかった。  


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しかし、キリスト教が「公認」「国教化」されるにつれ、これらの壁が崩されてしまったという訳です。迫害は止みましたが、急速に世俗化が進み、教会は国家権力と結びついていきます。「教職」という特権階級が誕生し、教会の指導者たちも特別な権威を主張するようになりました。ついには、「煉獄」や「免罪符」といった聖書が言っていないような「教理」が加わっていきます。そして形骸化、宗教化が進みました。

 

「信者は次第に、指導者たちを、教師や説教者としてより、聖礼典を行う祭司としてみるようになっていった。また、ローマの監督は、他の教会の上に君臨する、特別な権威を主張するようになっていった。」  (ベルソー)

 

 

本来は「キリスト道」という生き方だった

また「世俗化」に関しては、ベルソーは今日の福音主義教会にも見られると指摘します。

 

「現に、多くの信者は、毎週定期的に教会に通っていることを除いては、穏健でまじめな未信者と何ら変わりのない生活をしている。ノン・クリスチャンと同じ娯楽を鑑賞し、この世の問題に関しても同じように心配をしている。そして、しばし、世の商業的、物質主義的な追求騒ぎに自らものめり込んでしまっている。自分たちは『この世のものでない』という時、往々にしてそれは、実際の行ないというより、ただ理論上のことであるにすぎない。しかし、教会は、元来そういう風ではなかった。初代のキリスト教徒は、世間とは全く違う原理原則、そして価値観の下に生きていたのだ。」  

 

本来、キリスト教は「生き方」だったのです。使徒の働きの中ではキリスト教は「この道」と言われていたのです。(使徒9:2)そもそも「キリスト教」とは誤訳で、「キリスト道」の方が近いでしょう。以下の描写に初代クリスチャンたちの行き方が垣間見られます。

 

「紀元3世紀に破壊的な疫病が、古代世界を席巻した時、病人を看護したのはキリスト信者のみであった。彼らは自らも感染するかもしれない危険を冒して介護に当たったのであった。それとは対照的に、異教徒たちの多くは、家族の中に感染者がでた場合、わが身を疫病から守ろうと、まだ息のある感染者を道端に捨てていたのである。」(ベルソー)

 

彼らの生き方、そして殉教をも厭わないキリストへの献身、それらが一番の証であり、伝道であったとベルソーは指摘しています。「キリスト道」の公認化、国教化、それに伴う世俗化により、「キリスト道」は「キリスト教」になってしまいました。つまり、「生き方」が「教理的正しさ」を保持することへと移行していったのです。正しい「教理」を唱えることは、そのように「生きる」ことより楽ですからね。

 

「キリスト教においては、神学が、霊的に弱い教会の最後の逃げ場である。神学には、信仰も、愛も、犠牲も要求されない。霊的にもっとも強靭な信者と同じように、神と真の関係を持っておらず信仰のない『キリスト教徒』も、教義の一覧に知的同意をすることができる。だから、教会が弱体化するにつれて、教義にますます強調点が置かれるようになっていった。」 (ベルソー)

 

これは大変、痛い指摘ですね。

 

 

行いの伴う信仰


「だからどこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」

                         (黙示2:5)

 

主ご自身、初めの「行いをしなさい」と語っておられます。初代教会は「行いの伴う信仰」を強調していました。しかし、このテーマで書かれたヤコブ書をルターは「藁の書」として軽視したのです。「信仰のみ」を引き継いだ今日の福音派はともすると「行い」を軽視してしまいます。「信じているから・・・もう救われているから大丈夫。」「クリスチャンは救われた罪びと。罪を犯すのは仕方ない。」と罪への妥協や、主への服従を軽視してしまう傾向がないでしょうか?

 

しかし、新約聖書を含め、聖書全体は「良きことを行う」ことや、「主に従順であるよう」との命令で満ちています。行によっては救われないが、行いによって救いが全うされるという考えでしょう。ベルソーは以下のみ言葉をリストしています。

 

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、

 ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」

                          (マタイ7:21)。

 

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 (マタイ24:13)。

 

「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命

 を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるために

 よみがえって、それぞれ出てくる時が 来るであろう。」(ヨハネ5:28,29)。  

 

「自分のことと教えのこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれ

 ば、あなたは、自分自身とあなたの教えを聞く者たちとを、救うことになる。」

                        (1テモテ4:16)。  

 

「これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だ

 けによるのではない。」(ヤコブ2:24)。  

 

「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて

 報いよう。」     (黙22:12





 「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて

 報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないの

 です。」                IIコリント5:10)

 

私たち信者は皆、「キリストの御座の裁き」を受けます。これは救いに関することではなく、地上生涯をクリスチャンとしてどう過ごしたかが評価され、報酬が与えられる時です。黙示録20:11の未信者に対する「白い御座の裁き」とは違います。

 

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束され

 た、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

 

「いのち」ではありません、「いのちの冠」という報酬です。ただ、主の御前に出ることは事実です。その時、恥ずかしい思いをしたくないですね。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2021年2月18日木曜日

地球外知的生命体はある!?


人間以外の知的創造物

ついにキワモノテーマか!?と訝る人もいるかも知れませんが・・・、いつものように真面目な聖書の話です。

 

聖書を信じる人なら天使や堕天使(サタン、悪霊)の存在を信じているでしょう。イエスは公のミニストリーに入る前に荒野でサタンの誘惑に会ったことは周知の通りです。この時、イエスはサタンと会話しています。(マタイ4:1−11)また、ゲラサの地で墓場にいた悪霊に憑かれた人たちの「悪霊追い出し」をしました。ここでも悪霊たちと会話しています。(マタイ8:28−32)このようにイエスご自身、サタンや悪霊に対峙したのです。それらはリアルな存在として描かれています。

 

また、処女マリアは受胎告知をした天使ガブリエルと会話をしています(ルカ1:34)。また、夜番をしていた羊飼いたちも御使とおびただしい数の天の軍勢を見ています。(ルカ2:13)これで分かるように天使、堕天使(サタン、悪霊)は「存在」します。そして彼らは「知的生命体」です。人間と会話したり賛美したりできるからです。彼らはこの地上で誕生したのでしょうか?いいえ、御使たちは天で創造主によって創造され、基本的に天を住まいとしています。したがって、彼らは「地球外知的生命体」です。

 

 

天使はキューピットではない

御使は旧約で108回、新約で165回記されています。先ほどの羊飼いに現れた天の軍勢は「おびただしい数」とあります。また、ヘブル12:22では「無数の御使」とあります。相当な数の御使が存在するということです。もし、地球上の一人一人に「守護天使」が付いているとすれば、少なくも80億近い天使がいるわけです。死んだ人の魂を運ぶのも天使の仕事のようです。(ルカ16:22)毎日、何千万人という人が死んでいるでしょうから、天使も忙しいでしょうね。

 

さて、天使=御使と聞くと多分、多くの方はキューピットのような可愛いイメージを抱かれるかも知れません。受胎告知をしたガブリエルは人間の姿で来られたようです。「入ってくると」(ルカ1:28)という表現を見る限り、ドアから入ってきたのでしょう。また、マリアが驚いて戸惑ったのはガブリエルのメッセージであり、ガブリエルの姿に驚いた訳ではないようです。アブラハムを訪れた3人(2人の御使と受肉前のイエス)は旅人として来られたので、別段その姿に驚いた様子はありません。地上ではこのように全く「人間」の姿で現れることがあります。


しかし、天にいる御使は違います。最上位の御使と言われる「ケルビム」(単数形はケルブ
はどんな姿をしているのでしょうか? 以下はエゼキエルが見たケルビムの姿です。

 

その中に生きもののようなものが四つ現れ、その姿は次のようであった。彼らは人間のような姿をしていたが、それぞれ四つの顔と四つの翼を持っていた。その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、磨かれた青銅のようにきらめいていた。 その翼の下から人間の手が四方に出ていた。また、その四つの生きものの顔と翼は次のようであった。彼らの翼は互いに触れ合っていて、進むときには向きを変えず、それぞれ正面に向かってまっすぐに進んだ。彼らの顔かたちは人間の顔で、四つとも右側には獅子の顔、四つとも左側には牛の顔、さらに四つとも鷲の顔を持っていた。これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに触れ合っていて、もう二つはそれぞれのからだをおおっていた。(エゼキエル1:5−11)




 とても可愛いとは言えません。むしろ、ちょっとグロテスクですね。動き方もユニークです。

 

彼らはそれぞれ前を向いてまっすぐに進んだ。霊が進ませるところに彼らは進み、進むときには向きを変えなかった。それらの生きものの姿は燃える炭火のようであり、たいまつのように見えた。火がそれらの生きものの間を行き来していた。火には輝きがあり、その火から稲妻が出ていた。それらの生きものは、閃光のように出たり入ったりしていた。

                (エゼキエル1:12—13)

 

出たり入ったりとは天と地を行き来するとういことでしょうか。さらには、UFOじゃないかと思わせる不思議なリングが同行しています。

 

私がその生きものを見ていると、それら四つの顔の生きもののそばには、地の上にそれぞれ輪が一つずつあった。それらの輪の形と作りは、輝く緑柱石のようで、四つともよく似ていた。それらの形と作りは、ちょうど、輪の中に輪があるようであった。  それらは四方のどの方向にも進み、進むときには向きを変えなかった。その輪の周りの縁は高さがあって恐ろしく、四つの輪の周りの縁は一面、目で満ちていた。生きものが進むときには輪もそのそばを進み、生きものが地上から上がるときには輪も上がった。これらは霊が進もうとするところに進み、輪もまたそれらとともに上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。生きものが進むときには輪も進み、生きものが止まるときには輪も止まり、生きものが地上から上がるときには輪も上がった。生きものの霊が輪の中にあったからである。(エゼキエル1:15—21)

 

これらのリングは生き物の「霊」によって運転されています。たまたまパイロットが目撃するUFOとはこれのことでしょうかね?将来的には人間社会でも「意識」でモノを動かすようになるでしょう。

 

エゼキエル10:20で、この生き物がケルビムであることが分かります。ここでケルビムが主の神殿のいと近くにいて仕えている存在であることが分かります。

 

ケルビムは神殿の南側に立っていて、雲がその内庭を満たしていた。主の栄光がケルビムの上から上り、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、また、庭は主の栄光の輝きで満たされた。                                                                                                   (エゼキエル10:3−4)

 

似たような生き物が黙示録にも登場します。

 

御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のよう であり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」  

                               (黙示録4:6−8)

 

4つの生き物という点では同じですが、詳細が違います。ケルビムは4つの翼ですが、こちらでは6つの翼となっています。またケルビムは1体につき顔が4つ付いてますが、(エゼキエル1:6、10)黙示録では、4つの生き物の4体が別個の顔のようです。(黙示録4:7)この4つの生き物も御座に近くで賛美礼拝しています。(黙示4:8)

 

一般には御使の位は上から 1)ケルビム 2)セラフィム 3)天使長ミカエル、ガブリエル、そして無数の御使と理解されています。

 

 

堕天使サタンはケルビムだった?!

もともと御使であったサタンは高ぶり、堕落し、神に反抗する者となりました。

 

明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、  北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』だが、おまえはよみに落とされ、穴の底に落とされる。  (イザヤ14:12−15)

 

エゼキエル28章の記述は、直接的にはツロへの裁きですが、サタンの描写として読むことができます。「明けの明星」この「輝き」という言葉がルシファーの語源です。サタンは元々「美の極み」(12)、「神の園、エデンにいて宝石に取り囲まれていた。」(13)、「不正が見出されるまで完全であった。」(15)そして、なんと「わたしは、油注がれた守護者ケルビムとしてあなたを任命した。」(14)とあり、サタンは元々最上位御使のケルビムだったことが分かります。

 

しかし、彼は御使の3分の1を味方につけ反乱軍を形成しました。

 

その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落  とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。(黙示録12:4−5)

 

以来、女(イスラエル)とその子(キリスト、およびクリスチャン)を攻撃するようになったのです。

 

それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。しかし、地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。 (黙示12:12)

 

ここは、ペテロの手紙第一に繋がってきますね。サタンは地獄への道ずれに人間を仲間に引っ張り込みたいのです。人を悪へと誘惑し、クリスチャンを攻撃します。クリスチャンはこの悪魔に信仰に立って対抗します。

 

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。( I ペテロ5:8−9)

 

サタン、悪霊はあらゆる手を使うでしょう。ある場合は直接、人にとり憑きます。ゲラサ地方の人に取り付いた悪霊レギオンは、1レギオン(軍団)=6000人ですから相当数いたことになります。あるいは、この世の権力、富を持って誘惑し神から引き離そうとします。(マタイ4:8)快楽を用いることもあるでしょう。サタンの結末は決まっています。火と硫黄の池で永遠に苦しむことになります。(黙示20:10)

 

 

正体を現す悪霊

黙示録のトンデモ話の1つが9章に出てくる「イナゴ」です。しかし、この描写を見ると普通のイナゴではありません。相当グロテスクですね。

 

その煙の中からいなごが地上に出て来た。それらには、地のサソリが持っているような力が与えられた。  ・・・いなごたちの姿は、出陣の用意が整った馬に似ていた。頭には金の冠のようなものをかぶり、顔は人間の顔のようであった。また、女の髪のような毛があり、歯は獅子の歯のようであった。また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その羽の音は、馬に引かれた多くの戦車が戦いに急ぐときの音のようであった。彼らはサソリのような尾と針を持っていて、その尾には、五か月間、人々に害を加える力があった。いなごたちは、底知れぬ所の使いを王としている。その名はヘブル語でアバドン、ギリシア語でアポリュオンという。  (黙示録9:3、7−11)

 

ハーベストタイムミニストリーの中川健一氏、東住吉キリスト集会の高原剛一郎氏はこのイナゴを「悪霊」と解釈しています。初め、聞いた時、度肝を抜かれましたが、それもアリだなと思うようになりました。

 

まず、このイナゴは「底知れぬところの使い」を王としている。つまりサタンに仕えているのです。また、悪霊たちはもともと天使だったことを考えると、人間に見える形で出てきてもおかしくないのです。また、人間でも不道徳な無慈悲な生き方を長年していると人相が悪くなりますね。同じように「悪」まっしぐらの悪霊たちも「よき御使」の顔を失い、醜い姿となっていてもおかしくありません。彼らの腐った心を表す姿になっていくのです。もともとケルビムでさえ、グロテスクなのですから堕落したら、もっと怖い、醜い姿になるでしょう。ただ、興味ふかいのはこの悪霊たちは、神の許しの範囲でのみ活動できているということです。(黙示9:4−5)

 

同じように2億の騎兵、騎馬も悪霊である可能性が高いです。馬はあまりにもグロテスクです。

 

あった。騎兵の数は二億で、私はその数を耳にした。私が幻の中で見た馬と、それに乗っている者たちの様子はこうであった。彼らは、燃えるような赤と紫と硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄が出ていた。これら三つの災害、すなわち、彼らの口から出る火と煙と硫黄によって、人間の三分の一が殺された。馬の力は口と尾にあって、その尾は蛇に似て頭を持ち、その頭で害を加えるのである。

                       (黙示録9:16−19)

 

「底知れぬところ」とは実際に、この地球の地下にある物理的な場所というより違う「次元」と考えた方が良さそうです。パウロが「第3の天」(IIコリント12:2)と言った時、文字通り空の「上」というより違う「次元」のことでしょう。科学の最先端では我々の現実世界に隣接する形で「異次元」が存在することになっています。ハーバード大物理学教授宇宙学専門のリサ・ランドール氏は「異次元は存在する」(NHK出版)の中でそのことを話しています。

 

かつてサタンは地を巡ったり、天に出入りしたりし、神の御前に出て神と直接会話することができていました。(ヨブ1:7−12)復活したイエスが姿を突然現したり、消えたりしたのも天と地(次元間)を行き来したのかも知れません。創世記6:2の「神の子ら」を堕天使と解釈すれば、悪霊たちは「人」となり、人間の女性と性的関係さえ持てるということになります。(中川氏はそう解釈しています。)ただ、続けて悪さをしないように、それらの悪霊たちは「暗闇の下=底知れぬところ」に閉じ込められているようです。そのような悪霊どもが終末には解放され出てくるという訳です。時が短いのを知って悪あがきする悪霊どもが正体を現すことは十分にあり得るのではないでしょうか?

 

 

欠如した中間層

ところで、西洋のキリスト教に影響を受けた日本人クリスチャンは「中間層」の理解が欠如しているのではないかと宣教学者の福田充男氏はその著書「野生のキリスト教」の中で述べています。

 

「上層」とは目に見えない、経験を超えた超自然の領域、

「中間層」この世にある超自然的領域(天使や悪霊)

「下層」とは目に見え体験できる現実の領域(常識、自然科学)

 

聖書を信じるクリスチャンはこの中間層を見直すべきでしょう。聖書ははっきりと天使、堕天使の存在を語っています。今も働いています。(エペソ2:2)

堕天使(悪霊)たちは人に取り憑いたり、自分たちの計画を行うため、人の思いに入り込み、人をコントロールすることが可能です。(ルカ22:3)サタンに動かされている人々がいても不思議ではないでしょう。反キリストの世界統一政府に向かって「不法の秘密」が働いているとしても不思議ではありません。(IIテサロニケ2:7)あなたのその「常識」がすでに騙されていませんか?全てを「陰謀論」で片ずけてしまっていいのでしょうか?

 


地上生命体としての人間

人間はあくまで地上生命体です。土でできた体に神の息が入って生きるものとなりました。(創世記2:7)そして、この地上にあったエデンの園に置かれました。「地」を支配するよう命じられました。(創世記1:28)私たちは「霊体」として創造されたのではありません。今、死ぬと体を地上に置いて「霊体」としてパラダイスに行きますが、それは人間としては不自然な形(いわば、中間的、移行体)なのです。ですからパウロがIコリント15章で口酸っぱく語っているように、やがて「朽ちない体」を頂くのです。「霊体」のまま存在するのではありません!やがてくる千年王国では新しい復活の「体」を持って生活するのです。その後、やってくるのも新天「新地」です。そう天的な「地」であって「新天」だけではありません。そこで、朽ちない「体」を持って永遠に生きます。

 

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東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2021年2月11日木曜日

終末預言の注意点

 

「期待」は「預言」ではない!

今回、米国の大統領選でトランプ再選を願うあまり、神からの声として、それを「預言」した牧師達がいました。そんなアメリカ人牧師が悔い改めの告白をしているYouTubeを見ました。その真摯な姿は好感が持てました。私もトランプ氏の再選を願っていたので、どうしても、そう言う主張をしているYouTubeばかりを見ていました。ただ、「願い」は「預言」ではありません。「願う」ように事が運ばないことはあるのです。香港のために祈っていますが、アグネス・チョーさんをはじめ50人以上の民主活動家は逮捕され、投獄されています。「主よ、どうしてですか?こんなことが許されていいんですか?」と叫びたいのです。ドンデン返しを願いますが、そうならないことも多いのです。

 

聖書の歴史観は「悲観的楽観論」です。つまり、この社会は進化しバラ色の世界が来ると言う「楽観論」ではなく、人類はこのまま破滅に向かうと言う「悲観論」でもありません。確かに人類は7年間のかつてない苦しみの時、「大患難時代」に突入します。反キリスト(獣)という暴君が世界を支配する時が来ます。またその前には「背教」が起こると聖書は言っています。(IIテサロニケ2:3)イエスご自身も「だが人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)と言われました。そう言う意味では「悲観論」です。

 

この世は暗い時代に向かっています。しかし、人類歴史の暗闇のクライマックスにイエスが再臨されます。そして反キリストと偽預言者をさばき処置します。(黙示19:20)そして地上に「メシア王国=千年王国」を樹立します。その後、もう一度サタンが解き放たれますが、最終的にはサタンも裁かれます。(黙示20:10)そして新天新地が来ます。そう言う意味では「楽観論」です。クリスチャンはこのキリストにあって常に希望があるのです。キリストの再臨までは地上天国は来ません。

 

 

誤解される「ハルマゲドン」

一般の人も「ハルマゲドン」と言う言葉を使います。元、ウクライナ大使の馬渕睦夫氏は「2021年世界の真実」の中で、ディープステイツが引き起こそうとしている世界戦争のことを「ハルマゲドン」(P。103)と呼んでいます。このようにハルマゲドンを第三次世界対戦、あるいは世界最終戦争の意味で使うことが一般的です。しかし、聖書的に言うとそれは間違いです。

 

まず、「ハルマゲドン」という名称ですが、これは「メギドの丘」という意味です。イスラエル北方のイズレエルの平原を見渡せる小高い丘です。患難期の終わりに反キリストの軍勢がイズレエル平原に集結します。(黙示16:16)実際、集結する場所はメギドの丘ではなく、この丘から見下ろせるイズレエルの平原となります。反キリスト軍はユダヤ人抹殺のためにエルサレムに攻め込んできます。したがって戦場はメギドの丘でも、イズレエル平原でもありません。

 

この戦争でユダヤ人は「山」へ逃げます。現在のヨルダンのペトラに当たる場所です。反キリストによる征服を免れるのがエドム、モアブ、アモンだからです。(ダニエル11:41)反キリスト軍はペトラまで攻め入ってきます。しかし、そこでキリストが再臨され、反キリスト軍を滅ぼします。(イザヤ34:6、63:1)

 

つまり、「ハルマゲドンの戦い」といわれるものは、第一に「反キリスト」  「ユダヤ人」(マタイ24:15−16)であり、世界大戦ではありません。次に、「再臨のキリスト」  「反キリスト」の対戦(黙示19:19−21)であり、人類同士の第三次世界大戦ではありません。そして、これは7年間の大患難時代の最終段階で起こります。世界不安があるから、すぐに「ハルマゲドンだ!」と思わないでください。

 

 

ニュースにすぐ飛びつかない

1986年4月26日、ソ連のチェルノブイリでレベル7の深刻な原発事故が起きました。北半球広範囲で放射性物質を含む雨が降りました。「これは黙示録の預言だ。」(黙示8:10−11)と言っていたクリスチャン達がいます。水源を汚した星の名は「苦よもぎ」とあり、「チェルノブイリ」は「苦よもぎ」という意味だからです。しかし、黙示録の出来事は大患難時代のことであり、現在はまだその時代ではありません。すぐにニュースを文脈無しに聖書預言に結びつけるのは問題です。

 

最近はトランプ大統領がイスラエルとアラブ諸国の和解を仲介したので、これはダニエル9:27の「反キリスト」ではないかというクリスチャンがアメリカにいたようです。トランプ大統領の支持者の多くは福音派のクリスチャンです。御霊を持ったクリスチャンが「反キリスト」を支持するのはおかしな話です。それに、ダニエル9:27の契約が交わされるのは「エゼキエル戦争」や「携挙」があった後です。

 

あるいは、今回のコロナパンデミックで、もう大患難時代に入ったのだと勘違いする人がいるかもしれません。(黙示6:8)。もう一度言いますが、まだ大患難時代には入っていません。大患難時代に入ってから起こる出来事と現在、起こっていることを混同してはなりません。

 

 

比喩的解釈の問題点

聖書預言には確かに象徴的な言葉が多いし、エゼキエル1章のように現実離れした描写が多いです。しかし、だからと言って、「ああ、それは比喩でしょ」で全てを済ませてしまってはなりません。神が火をもってネゲブを裁くと言った時に、ネゲブの人々は「例えを言ってるに過ぎない」とバカにして本気にしなかったのです。

 

「ああ、神、主よ。彼らは、私について、『彼は、たとえを言っているだけではないか』と言っています。」(エゼキエル20:49)

 

それをエゼキエルは神に嘆いています。その当時の人にとってトンデモ話でも、実現することは多々あるのです。ノアの洪水は文字通り起こりました。ソドムの破滅は天からの硫黄と火で文字通り起こりました。イエスの弟子達は立派なエルサレムの神殿を見て、まさか、神殿が粉々に崩れ去ってしまうとは夢にも思っていなかったのです。しかし、イエスご自身、文字通りそのようになると預言されました。(マタイ24:2)1900年間流浪の民だったイスラエル人がシオンに帰還して国を再建するなど、神学者でさえ信じられなくなっていたのですが、その預言は実現しました。

 

そうなると、やはり「大患難時代」は来るし、「反キリスト」は現れるし、「反キリストの世界統一政府」はあるのです。そしてキリストの地上再臨もあるのです。





 黙示録に出てくる災害はトンデモ話のように思われます。想像を超えた記述が詳細に書かれています。死者の数まで具体的に書いてあります。黙示録の5章から18章の詳細な記述は単に、「迫害下にあっても再臨のキリストに希望を置きなさい。」というメッセージを伝えるためだけなら必要ないのではないでしょうか?神はその詳細な記述を伝えたいがためにそのように書いておられるのでしょう。素直にそれを受け取るのが正しいと思われます。

 

その中には明確に比喩もあります。「燭台」「星」などは、象徴です。ちゃんと説明されています。(黙示1:20)説明されていない象徴もあります。説明されてなくても黙示録12章の「女」「へび」「竜」「子羊」は象徴であることが分かります。13章の「獣」は反キリスト的「人物」の象徴です。サタンそのものではないことが文脈上分かります。(黙示13:3−4)

 

「10本の角」「42ヶ月」や「666」など数字も出てきます。神は意図して、そのような具体的な数字を用いられたのです。文字通りの意味があるのでしょう。黙示録20:2−7には「千年王国」の関連で千年が6回も繰り返されています。そこまで強調されているということは、文字通り「千年」と考えるのが正しいのではないでしょうか。黙示録9章の「いなご」は、かなりディテールまで描写されています。単なる象徴とは思えません。

 

明らかに象徴と思われるもの以外は文字通りにとるのが正しいと思われます。



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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

 

2021年2月4日木曜日

失われない民族アイデンティティ

 

人類、皆兄弟?

「人類、皆兄弟。1つの地球家族!」よく聞くスローガンです。共感する人も多いかと思います。確かに人類はアダム、エバから出ていますし、洪水後、ノアの子供のセム、ハム、ヤペテから民族が別れ出ています。そういうことから言えば、確かに同じ先祖を持つ家族でしょう。しかも、バベルの塔事件までは全地は1つの話しことば、1つの共通のことばでした。(創世記11:1)。その後、多言語となり、人々は全地に散っていったのです。

 

「それゆえ、その町の名は、バベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことば 

 を混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである。」

                        (創世記11:9)

 

もろもろの国民

それからヤペテはインド・ヨーロッパ語族(インド語派、イラン語派、ギリシア語派、イタリア語派、ケルト語派、ゲルマン語派など)、ハムはハム語族(古代エジプト語派、クシュ諸語、チャド諸語)、そしてセムはセム語派(ヘブライ語、アラム語、アラビア語、エチオピア語)という語派を生み出していきました。

 

「以上が、それぞれの家系による、国民ごとの、ノアの子孫の 諸氏族である。  

 大洪水の後、彼らからもろもろの国民が地上に分かれ出たのである。」

                        (創世記10:32)

 

興味深いのは「もろもろの国民」が地上に分かれ出たという事実です。1つの国民、1つの文化の押し付けではありません。「もろもろ」すなわち多様性。それが神のご計画であったようです。

 

「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞ

 れに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。」  

                          (使徒17:26)

 

「住まいの境」つまり国境のことですね。国があることは神の定めです。それぞれの国が、それぞれの言語、文化を持ち、個性を持って住まうことが神のご計画であることが分かります。





天においても失われないアイデンティティ

やがて神の民は天に集められますが、「諸国」から集められます。

 

「あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血

 によって人々を神のために贖い・・」 (黙示録5:9)

 

「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だ

 れも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を

 身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。 (黙示録7:9)

 

天においてもそのアイデンティティを失っていないということです。神は国民、民族、言語を大事にしておられます。それぞれの「個性」が活かされます。さらに興味深いのは新天新地においてさえ、「諸国」が存在することです。

 

諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて 

 来る。都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。

 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。」

                      (黙示録21:24−26)

 

神はこの世界をグレー一色には造られませんでした。機能重視だけならそれでも良かったのです。しかし、花や木々の葉は実に多彩な色のグラディエーションが見られます。海の魚、や陸の動物、空を飛ぶ鳥の色や形の多様性は圧倒的です。神は1つの色に塗りつぶさないお方です。クリスチャンになるのに、日本人であることを止める必要はないのです。神の祝福には「生んで、増えること」(創世記1:28)、「生かし、多様化すること」(エゼキエル47:10)が含まれます。

 

そして、新天新地においてもイスラエルのアイデンティティは失われていないのです。イスラエルが匿名の「教会」に置き換わってしまうのではありません。

 

「都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御

 使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二

 部族の名前であった。」(黙示録21:12)

 

 

奥義としての福音

国々や、民族が仲良く暮らせればいいのですが、実際は「戦争や戦争の噂・・民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり・・」(マタイ24:6−7)という状況が現実です。神と人、人と人、民族と民族の間に罪による隔ての壁があるのです。キリストはその敵意を十字架の上で打ちこわし、和解を成就したのです。

 

「そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の

 契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでし

 た。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエ

 スにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリスト

 こそ、私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分

 の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの

 律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新

 しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、

 十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」

                      (エペソ2:12−16)

 

選民であるイスラエルにとって神を知らぬ異邦人は「犬」と呼ばれ、穢れた存在でした。しかし、夢にも思わぬ事が起こったのです。その異邦人にもイエスを信じると聖霊が降り、神は分け隔てなく、イエスを信じる者を同じ神の家族とされることが確認されたのです。(使徒10:34−36)これは福音により啓示されましたが、旧約時代には、知らされていない「奥義」だったのです。

 

「この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでし

 たが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示さ

 れています。それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も

 共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる

 者になるということです。」(エペソ3:5−6)

 

「すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒

 たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。この奥義

 が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせ

 たいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、

 栄光の望みのことです。        (コロサイ1:26−27)

 

私達は自動的に「人類皆兄弟、1つの地球家族」ではない!のです。生まれながらにして「神の子」でもありません。キリストによってのみ、壁が打ち壊され、1つとなれるのです。真の世界平和は全ての民がキリストの下にへりくだり、跪く時まで、あり得ないのです。それにはキリストの十字架の犠牲が伴います。罪の問題が処置される必要があるのです。神の子供となることは、当たり前のことではなく、「特権」です。(ヨハネ1:12)

 

終末には、「人は生まれながらにして神の子、皆、天国に行ける。」というリベラルな神学が流行るでしょう。しかし、異邦人は、キリストによって救われ、神の家族の一員として加えられるのであり、このことは世々隠されていた「奥義」なのです。そして、神の家族に加わったからといって、民族アイデンディディを失う訳ではありません。

 

 

世界統一政府の間違い

神抜きの「地球家族形成」は失敗に終わります。なぜかと言うと誘惑者(サタン)が存在し、誘惑される要素(人の罪)が存在するからです。それでもサタンにそそのかされた人々は世界統一政府を試みるでしょう。この世のやり方で「地球家族」を達成しようとします。それは「権力」を使った「支配」です。(マタイ20:25)終末には反キリスト(獣)が君臨し世界を統治します。初めの3年半は「いい顔」をして人々を騙すでしょうが、後半3年半は正体を現します。いかにも偽りの父、サタンのすることです。(IIコリント11:14)この獣は神を冒涜し(つまり神の属性:聖、義、愛の否定)、聖徒たちを攻撃します。さらに国々の民を生かすのではなく、「支配」するのです。「支配」とは1つの色に塗り潰す事です。神の御心とは正反対です。

 

「天に住む者たちを冒瀆した。獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つこと

 が許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与え

 られた。」  (黙示録13:7)

 

おそらく、「獣」は国々から言語、文化を取り上げ、1つの言語、1つの価値システムを強要するでしょう。国境さえ取り払うでしょう。彼にとっては「支配」と「監視」が目的であり、それぞれの個性など、どうでもいいことです。彼は言論の自由、信仰の自由を取り上げるでしょう。反対する者は容赦無く逮捕し、投獄し、抹殺するでしょう。彼の言う事を聞き、「家畜」となって飼いならされた者だけが存在を許されるようになるのでしょう。(黙示13:17) 少数のエリートが「愚民」をデジタル管理する社会です。今もありますね、そのように「獣化」した国が・・全体主義国家は個人の自由と個性を奪います。ものが自由に言えなくなります。やがて来る「獣の国」の予表です。

 

しかし、人類歴史の暗闇のクライマックスにキリストは再臨されます。ハレルヤ! やがて成就する「御国」は神の愛と義が満ちるところです。これがやがて来る国の特徴です。

 

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、

 自制です。このようなものに反対する律法はありません。」

                    (ガラテヤ5:22−23)   

 

そして、君臨する王は、サーバントキングです。かつて弟子たちの足を洗った同じイエス様です。(マタイ20:25−28)

 

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執筆者:栗原一芳

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