オーガニックチャーチ ムーブメントとは?
私達Tokyo Metro Community(TMC)も、他のオーガニックチャーチも本来の教会の姿、すなわち初代教会に戻ろうとするムーブメントであるとも言えます。
つまりオーガニックチャーチとは新しい教会の形態ではなく、オリジナルな教会の形態に戻ることを意味するのです。
教会(エクレシア)はペンテコステの日に生まれました。(使徒2章)こんな流れですね。
1. 五旬節、皆が同じ場所に集まっていた。(使徒2:1)
2. その後、約束の聖霊が下った。(2:33)
3. ペテロは聖霊に満たされイエスがキリスト(メシア)であることを宣言した。(2:14—37)最初の伝道メッセージとも言える。(2:38−40)
4. それにより信じた人たちはバプテスマを受けた。その日、3000名が弟子に加わった。(2:41)
* 後日も伝道メッセージは語られただろうから信者はあっという間に
1万人近くになったと思われる。
5. 教会堂というものが無かったので、おそらく使徒たちの指示に従って家々で集まりを持つようになっただろう。
6. 集まって何をしていたかと言えば、
「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、
祈りをしていた。」(2:42)
「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと
真心をもって食事をともにし・・」(2:46)
*宮に集まったのは、各自、聖書を持っている時代では無かったので、旧
約聖書を聴く場所は会堂だった。また、まだキリスト教がユダヤ教から
はっきり分離していなかったので自他共にユダヤ教の一派という意識
が強かったからだろう。
7. そのような集まり(エクレシア)を持った結果は・・
「神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々
を加えて一つにしてくださった。」 (2:47)
私たちTMCエクレシアでは定期的に、一緒に集まり、食事を共にし、人生の中で主がどう働かれているか分かち合いをすることで主を賛美し、使徒たちの教え(み言葉)を分かち合い、お互いの祈り課題を聞いて、祈り合っています。シンプルで本質的なものに戻る必要があるのではないでしょうか?
教会はいつ、どう変質したのか?
今日的「ラオデキア教会」とはキリストを追い出してしまっているリベラル教会と言えるでしょう。これはもっての外ですが、今日、正統派、福音派と言われている教会でも、初代教会からだいぶズレてしまっているところもあるのです。
大雑把に説明すると、AD313、キリスト教はローマ皇帝コンスタンティンにより「公認」され、さらにAD392に「国教化」されるに従って、国家権力と繋がり、世俗化、形骸化してゆく、そして、中世のカトリック時代を経て16Cマルチン・ルターやカルビンによる宗教改革で軌道修正して今日に至っている・・・ということになっています。しかし、宗教改革時の軌道修正が十分では無かったので、ズレたままのところも多々あるのです。これについては以前にフランク・バイオラの”Pagan Christianity?”また、”Reimaging church”を紹介した中で解説してますので、そちらをご参照ください。
* 2011年3月6日「ペイガン・クリスチャニティ?」
* 2011年3月13日 「教会を再イメージする」(1)〜(3)
ここでは、初代教会が公認化、国教化されどう変質したのかに注目してみます。
デイヴィッド・ベルソー. 「初代キリスト教徒は語る: 初代教会に照らして見た今日の福音主義教会」によると初代教会は以下の4つの壁で純粋性が守られていたといいます。
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1.「使徒以後に新しい特別啓示はない」という確固たる信念と、「変化イコー
ル誤り」と考える超保守的な精神。
2.教会の《世からの分離》。それにより、世的な態度や行ないといった流れか
ら、キリスト教が影響されるのを防ごうとした。
3.使徒たちが指導していた教会の長老たちに、問題を打ち明け、委ねるとい
う自発的な慣行。
4.各集会の独立。それゆえに、間違った教えはすぐには広がりにくかった。
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しかし、キリスト教が「公認」「国教化」されるにつれ、これらの壁が崩されてしまったという訳です。迫害は止みましたが、急速に世俗化が進み、教会は国家権力と結びついていきます。「教職」という特権階級が誕生し、教会の指導者たちも特別な権威を主張するようになりました。ついには、「煉獄」や「免罪符」といった聖書が言っていないような「教理」が加わっていきます。そして形骸化、宗教化が進みました。
「信者は次第に、指導者たちを、教師や説教者としてより、聖礼典を行う祭司としてみるようになっていった。また、ローマの監督は、他の教会の上に君臨する、特別な権威を主張するようになっていった。」 (ベルソー)
本来は「キリスト道」という生き方だった
また「世俗化」に関しては、ベルソーは今日の福音主義教会にも見られると指摘します。
「現に、多くの信者は、毎週定期的に教会に通っていることを除いては、穏健でまじめな未信者と何ら変わりのない生活をしている。ノン・クリスチャンと同じ娯楽を鑑賞し、この世の問題に関しても同じように心配をしている。そして、しばし、世の商業的、物質主義的な追求騒ぎに自らものめり込んでしまっている。自分たちは『この世のものでない』という時、往々にしてそれは、実際の行ないというより、ただ理論上のことであるにすぎない。しかし、教会は、元来そういう風ではなかった。初代のキリスト教徒は、世間とは全く違う原理原則、そして価値観の下に生きていたのだ。」
本来、キリスト教は「生き方」だったのです。使徒の働きの中ではキリスト教は「この道」と言われていたのです。(使徒9:2)そもそも「キリスト教」とは誤訳で、「キリスト道」の方が近いでしょう。以下の描写に初代クリスチャンたちの行き方が垣間見られます。
「紀元3世紀に破壊的な疫病が、古代世界を席巻した時、病人を看護したのはキリスト信者のみであった。彼らは自らも感染するかもしれない危険を冒して介護に当たったのであった。それとは対照的に、異教徒たちの多くは、家族の中に感染者がでた場合、わが身を疫病から守ろうと、まだ息のある感染者を道端に捨てていたのである。」(ベルソー)
彼らの生き方、そして殉教をも厭わないキリストへの献身、それらが一番の証であり、伝道であったとベルソーは指摘しています。「キリスト道」の公認化、国教化、それに伴う世俗化により、「キリスト道」は「キリスト教」になってしまいました。つまり、「生き方」が「教理的正しさ」を保持することへと移行していったのです。正しい「教理」を唱えることは、そのように「生きる」ことより楽ですからね。
「キリスト教においては、神学が、霊的に弱い教会の最後の逃げ場である。神学には、信仰も、愛も、犠牲も要求されない。霊的にもっとも強靭な信者と同じように、神と真の関係を持っておらず信仰のない『キリスト教徒』も、教義の一覧に知的同意をすることができる。だから、教会が弱体化するにつれて、教義にますます強調点が置かれるようになっていった。」 (ベルソー)
これは大変、痛い指摘ですね。
行いの伴う信仰
「だからどこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」
(黙示2:5)
主ご自身、初めの「行いをしなさい」と語っておられます。初代教会は「行いの伴う信仰」を強調していました。しかし、このテーマで書かれたヤコブ書をルターは「藁の書」として軽視したのです。「信仰のみ」を引き継いだ今日の福音派はともすると「行い」を軽視してしまいます。「信じているから・・・もう救われているから大丈夫。」「クリスチャンは救われた罪びと。罪を犯すのは仕方ない。」と罪への妥協や、主への服従を軽視してしまう傾向がないでしょうか?
しかし、新約聖書を含め、聖書全体は「良きことを行う」ことや、「主に従順であるよう」との命令で満ちています。行によっては救われないが、行いによって救いが全うされるという考えでしょう。ベルソーは以下のみ言葉をリストしています。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、
ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」
(マタイ7:21)。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 (マタイ24:13)。
「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命
を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるために
よみがえって、それぞれ出てくる時が 来るであろう。」(ヨハネ5:28,29)。
「自分のことと教えのこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれ
ば、あなたは、自分自身とあなたの教えを聞く者たちとを、救うことになる。」
(1テモテ4:16)。
「これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だ
けによるのではない。」(ヤコブ2:24)。
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて
報いよう。」 (黙22:12)
「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて
報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないの
です。」 (IIコリント5:10)
私たち信者は皆、「キリストの御座の裁き」を受けます。これは救いに関することではなく、地上生涯をクリスチャンとしてどう過ごしたかが評価され、報酬が与えられる時です。黙示録20:11の未信者に対する「白い御座の裁き」とは違います。
「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束され
た、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)
「いのち」ではありません、「いのちの冠」という報酬です。ただ、主の御前に出ることは事実です。その時、恥ずかしい思いをしたくないですね。
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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