2021年3月5日金曜日

教会はいつから、どう変質したのか?(2)


 前回、「キリスト道」が公認化、国教化で「キリスト教」に変化してしまったことを見てきました。つまり、「生き方」が「儀式的宗教」に変えられていったということです。迫害の中で純粋な信仰を保っていたキリスト教会は世俗化、権力化、さらには異教化していったのです。

 

今回は、その過程をロバート・ハイドラ〜著「契約のルーツ」(英題はMessianic Church Arising!)から見てみます。





 この大変化をもたらした張本人はローマ皇帝コンスタンティヌス。13人目の使徒と祭り上げられたローマのコンスタンティヌス帝が劇的な変化を教会にもたらしました。コンスタンティヌス自身、新生したクリスチャンなのかも疑問なのですが、皇帝の権威によって次々と変革が行われたのです。


 

1)家の教会の消滅

まずは、クリスチャンたちが家で集会を持つことを禁止しました。それに変わり、バシリカという礼拝堂で礼拝するよう強要しました。

 

 「インフォーマルな家の教会から、格式ばったバシリカ(礼拝堂)への変化

  は、教会というものに関する全概念を変えた。コンスタンティヌス帝以前、

  教会とは信じるもの達の家族を指していた。しかし、コンスタンティヌス

  帝以降、建物を指すようになってしまったのである。」(58)

 

ユダヤでは家長である父が祭祀役をして宗教教育を行っていました。そのスタイルを引き継いだ初代教会は、家々で集まっていたので、それだけの数のリーダーがいたことになります。バシリカでの儀式的礼拝になることにより専門家としての教職、お客さんとしての信徒という階層ができあがってしまいました。これ以降、聖書は一般信徒から遠ざけられ専門家の手に独占されてしまいます。


 

2)礼拝の変化

 「聖霊に導かれた親密なものから厳格な儀式へ。異教の皇帝崇拝から発達し

  たそれらの儀式が、教会に持ち込まれた。礼拝は厳粛な公の儀式と化して

  しまった。」(59)

 

ここから、礼拝の儀式化が始まったのです。本来、ユダヤ的な明るく楽しく、踊りを入れた礼拝が、笑ってはいけない厳粛な儀式に変えられました。今日でも、儀式的要素が継続してはいないでしょうか?祝典というよりお葬式のような悲壮感漂う?礼拝をやっているところもありますね。また、日曜、午前10時の礼拝が正式なものとの刷り込みが無いでしょうか?儀式ならばそうなりますね。週日にやっているのは「集会」で、日曜午前中やるのが正式な「礼拝」?それをやるのが正式な「教会」? 信者が集まって主をほめたたえていても、日曜礼拝をやってないと一人前の教会ではない?また、礼拝に参加することを「教会に行く」という意識?コンスタンティヌス以来のズレを踏襲していないでしょうか?


 

3)教会のユダヤ的ルーツの拒否。

パウロは宣教旅行の際、まずシナゴーグへ入り、ユダヤ人に向かってイエスがキリストであることを証明しました。違和感なく、そこに入り、奨励することが許されたのも、自他共にユダヤ教の一派という意識があったからです。

 

「1世紀のクリスチャン達にとって、安息日や、例祭や、ユダヤ人的諸儀式

 に参加したり、神殿やシナゴーグで礼拝したりすることは当たり前のことで

 あった。」(35)

 

コンスタンティヌスが組織した「教会会議」はユダヤ的相続物との関わりを意図的に禁止し、削除するようにしました。脱ユダヤは人為的に行われたのです。これにより教会は「根」を失い、たくさんの良き相続物を失ってしまいました。これに関しては次回、さらに詳しく取り上げることにします。


 

4)異教の混入

  「コンスタンティヌス帝は、教会をユダヤ的ルーツから切り離しただけで

   はなく、異教と結びつけてしまった。」(63)

 

これはシリアスな問題ですね。

 

  「ローマやアレキサンドリアなど、大都市の教会は、異教やギリシア哲学

   の影響にさらされていた。それらの教会は、ユダヤ的相続物の大部分を

   拒否し、異教的概念や行為を聖書の教えに混ぜ合わせていた。」(60)

 

これに関しては、前回ご紹介したフランク・バイオラ、ジョージ・バナー共著の「ペイガン・クリスチャニティ?」(残念ながら日本語訳がありません。)に詳しく説明されています。この本によると、今日、日曜日に教会でクリスチャンがやっている事の大部分は新約聖書に基づいたものではなく、異教に基づいているというショッキングなことが書かれています。

 

コンスタンティヌス以前の教会では「主の生誕を祝う=クリスマス」をしていた記録はありません。

 

  「異教徒であるローマ人には、12月25日に、ミトラ神の生誕を祝う風

   習があった。274年、アウレリアヌス帝は、ミトラ神の誕生日をロー

   マ帝国の祝日と定めた。・・イエスが太陽神の顕現と考えられていたこと

   により、サーツゥルナーリア祭(ミトラ神の誕生日)が、キリスト教の

   祭日とされてしまった。つまり『クリスマス』キリストの誕生日とされ

   たのである。」(64)

 

イースターの語源はローマ人の崇める豊穣の女神、イシュタル(あるいはエアストレ)であり、そのシンボルは卵でした。

 

  「古代、異教の民は卵に模様を描き、祭の贈り物として贈るのが習わしだ

   った。ニケア公会議の結果、キリストの復活は、聖書的背景から切り離

   され、異教の祭りとの関連の中で祝われるようになってしまった。そし

   て、最もおかしな点は、英語圏においては、その名前すらも変えられな

   かったということだろう。」(64)

 

キリストの復活の祝いに、「ハッピー・イースター(エアストレ)!」と、異教の女神の名を使っているのです!

 

  「321年、コンスタンティヌス帝は、キリスト教の礼拝日をローマ帝国

   の休日としたが、それを『キリストの日』と呼ばず、『尊崇すべき太陽の

   日』とした。(日曜日=Sunday)という名前の由来である。(63)

 

4世紀の終わりまでにはローマ帝国はキリスト教化されていきました。名目上のクリスチャンが増え、異教の神殿がキリスト教の教会になっていったのです。

 

  「異教の祭司達がキリスト教の祭司となるケースもあった。」(65)

 

  「異教の民は、自分達の神々の名を『キリスト教』的な名前に変え、異教

   の礼拝をそのまま続けたのである。このようにして、古い異教が、キリ

   スト教に混入していった。」(66)

 

  「教会は巨大権力を持ち、裕福な政治組織と化していった。真の霊的な命

   などほとんど見られなかった。」(66)

 

6世紀に入る頃には、初代教会の特徴はほとんど見られなくなってしまいました。つまり、「別物」に変質してしまったのです。


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参考本


ロバート・ハイドラ〜著「契約のルーツ」




デイビッド・ベルソー 「初代教会は語る」


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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

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