人々は魔法にハマる
「魔法使いサリー」は、私が小さい頃、流行っていたアニメでした。また、「奥様は魔女」なんていう番組もありました。それ以来、今日の「ハリーポッター」に至るまで、時、「魔法もの」は常に継続されてきました。それは自分の「願望」が叶うという「魔法」の力に人々が魅力を感じてきたからでしょう。
ヘブル11:1を読んでみましょう。
「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
(ヘブル11:1)
そのまま読むと、望んでいることが実現するのだと思うでしょう。よく誤解される箇所ですね。1億円の宝くじが当たるように、ベンツが与えられるように・・とか。しかし、聖書的な信仰とは自分の願望が実現することではありません。さて、ここでの「望んでいること」とは何なのでしょうか。
聖書は文脈が大事
実はオリジナルな聖書には章や句の区切りがありません。注意して、文脈を見ることが大切です。10章終わりと11章のはじめは繋がっています。10章の終わりは「終末的希望」について書かれています。
約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。」(10:37)
「来るべき方」すなわちキリストが必ず、もう一度来られると約束されているわけです。だから、迫害下にあっても「忍耐」して待ち望みましょうと勧めているのです。その流れで11章1節です。つまり、「望んでいること」とは、ここでは「キリストの来臨」です。また11章全体の文脈から言うと、神が約束、あるいは啓示された内容ということになります。
2種類の「信仰」
信仰といっても2種類あります。1つは自分が信じたいものを信じ、自分の願望が叶うように願うこと。「信念」と言ってもいいでしょう。願うものを思い描きなさい、毎日それを念じなさい。そうすれば手に入ります。みたいな・・・もう1つは正しい信仰の対象に信頼を置くことです。正しい信仰の対象とは「神」と「神のことば=聖書」です。言い換えれば、正しい信仰とは「神がすでに啓示した、あるいは約束した内容に対する正しい応答のこと」と言えるでしょう。
ヘブル11:2には「昔の人は、この信仰によって称賛された」とあります。「この」信仰とはどの信仰でしょう?先ほどの2種類の2つ目の信仰のことです。称賛されたとは「神に喜ばれる信仰」と言い換えてもいいでしょう。つまり、「神が啓示した内容に正しく応答したので、そのような信仰の態度を神は喜ばれる」・・という意味です。
神に喜ばれる信仰の具体例
具体例(1)世界の創造
「この世界が神のことばで造られたことを悟り・・」 (ヘブル11:3)
世界の創造に立ち会った人はいません。私たちは創世記1:1「はじめに神が天と地を創造した。」という聖書の言葉を信じているのです。神が啓示された内容だからです。それをその通り信じる信仰は神に評価されます。
具体例2:カインとアベル
「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。」 (ヘブル11:4)
「この」信仰の具体例2番目がカインとアベルの話です。これは少し難しいですね。なぜカインの捧げ物は拒否され、アベルの捧げ物は喜ばれたのでしょうか?弟アベルは動物の捧げ物、すなわち血を流した捧げ物です。兄の農作物は宗教儀式ではあっても、神が定めた罪の贖いの捧げ物ではなかったのです。「血」が無いからです。アダムとエバが罪を犯した後、神が獣の皮で覆いを作り着せてあげました。獣の皮をとるには獣の血が流される必要がありますね。罪の贖いには血が必要だったのです。(旧約では「血は命」であるという思想があります。)アダムとエバは人生でのこの大事件を忘れるわけもなく、この大事な真理を子供達、すなわち、カインとアベルに伝えたことは確実でしょう。しかし、カインは神が啓示した事柄ではなく、自分の方法で自分の選んだものを捧げたのです。一方、すでに示された啓示に応答したアベルは神に喜ばれました。
具体例3:エノク
「信仰によってエノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証されていたのです。」
(ヘブル11:5)
次はエノクです。この人は大変ユニークです。エノクの話は創世記5:21−24に出てきます。
365年生きて、生きたまま天に上げられました。地上にいた時、その信仰の生き方は神に喜ばれており、人々に証されていました。恐らく、神はエノクに生きたまま天に上げられることを伝えてあったと推測されます。これは特別な体験であり、旧約時代の信仰深い人が全て上がられたわけではなく、エノクは特別だったのです。神からのその特別なメッセージを頂いて、それを「信じて」歩んでいたものと思われます。そして、信じたごとくに天に上げられたのです。
しかし、これはある意味、新約の信徒たち=私達に起こることの型でもあったのです。Iテサロニケ4:16—17を見てみましょう。
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 (I テサロニケ4:16−17)
キリスト来臨時に信者は空中に引き上げられると書いてあります。これを「携挙」と言います。また、Iコリント15:52には、その時には一瞬にして「朽ちない体に変えられる」ともあります。新しい復活の体をもらうのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 (Iコリント15:52)
さあ、あなたはどうこれを受け取りますか?「そんなバカな」「そんなことはあり得ない」と拒否することもできるし、「啓示されたことですから、信じます」と言うこともできます。忘れないでください、歴史上、すでにエノクは生きたまま天に上げられました。実例があるのです。また、キリストは私たちの「初穂」として蘇り、その蘇りの体で、40日間、150人以上の信者に現れ、そして天に昇って行かれました。前例があるのです。
神に喜ばれる「信仰」の条件
11:6を読みましょう。
信仰がなければ神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
(ヘブル11:6)
信仰に関しての大前提は「信仰がなければ神を喜ばすことはできない」と言うことです。小さい子供は椅子の上から手を広げたお父さんの胸にジャンプして降りてくるでしょう。お父さんに全幅的な信頼を置いているからです。そして、それがお父さんを喜ばすのです。神様は神様が私たちに語った希望、約束を私たちが文字通り、単純に信じる時、お喜びになるのです。
そして、11:6の後半には、正しい信仰の2つの要素、「信じなければならないこと」が書かれています。
● 1つは「神がおられること」神がいると言う世界観、歴史観を持つことです。
無神論者は無神論者の世界観があります。死んだら終わり、だから、この地上で出来る限り快楽を追求する。しかし、神を信じるものは天国の存在を信じます。復活を信じます。再臨を信じます。この世を生きる、視点が違うのです。クリスチャンは、地上では「旅人」です。天国人としての価値観を持って、この世を生きます。
●2つ目は「報いてくださる方」つまり、神は、この世界に、また、私の人生に介入される方だということを信じることです。ただ、神の存在を信じるだけでは十分ではありません。ヤコブ書には、「悪霊どもも、まことの神はお一人だと信じて震えおののいています。」と書いてあります。悪霊も神の存在は信じています。17世紀の英国で「理神論」(Deism)という思想が流行りました。「理神論」は神の存在は信じます。しかし、神の介入を信じません。神は世界を創造し、ゼンマイを巻き終わったら、あとは放っておくという考えです。インテリ層に流行った教え。しかし、これは聖書が語る神ではありません。旧約聖書は神がイスラエルの民とともに歩み、歴史に介入されたことの証の書です。そして、この神はあなたの人生にも介入し、あなたの人生を変革し、あなたを具体的に導くことができる神です。祈りを聞かれる神です。
さてまとめてみましょう。2種類の信仰の話をしました。そして、正しい信仰とは「神がすでに啓示されたことへの正しい応答」であると学びました。神がすでに啓示されたことを知るために、どうしても必要なのは聖書を読んで学ぶことです。一人で学んでいても難しいので是非、バイブルスタディグループに参加することをお勧めします。
終末に生きるクリスチャンの信仰の方向性
さて、最後に終末に生きる私たちクリスチャンはどういう信仰の「方向性」を持って生きるべきでしょうか?始めに「来るべき方が来られる。遅くなることはない。」との御言葉を読みました。新約聖書には至る所で「キリストの再臨」が書かれています。そうイエス様はもう一度来られます。今度は王として。今はこの世界で色々な問題、事件、戦争があり、悲しい出来事が毎日起こっています。しかし、いつまでこうなのではありません。イエスは来られます。そして、悪を滅ぼします。世界を回復します。そして、自らが王として、「愛」と「義」と「平和」が支配する「メシア王国」をこの地上にもたらします。
望んでいる事は保障されています。見てはいませんが、信仰はこれを確信させるものです。
私たちの希望は、このお方にかかっています。「来るべきお方」に目を留めて、この地上生活を送っていきましょう。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」
(ヘブル12:2)
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執筆者:栗原一芳