2021年8月26日木曜日

神に賞賛される信仰

 

人々は魔法にハマる


「魔法使いサリー」は、私が小さい頃、流行っていたアニメでした。また、「奥様は魔女」なんていう番組もありました。それ以来、今日の「ハリーポッター」に至るまで、時、「魔法もの」は常に継続されてきました。それは自分の「願望」が叶うという「魔法」の力に人々が魅力を感じてきたからでしょう。

 

ヘブル11:1を読んでみましょう。

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

                              (ヘブル11:1)

 

そのまま読むと、望んでいることが実現するのだと思うでしょう。よく誤解される箇所ですね。1億円の宝くじが当たるように、ベンツが与えられるように・・とか。しかし、聖書的な信仰とは自分の願望が実現することではありません。さて、ここでの「望んでいること」とは何なのでしょうか。

 

聖書は文脈が大事

実はオリジナルな聖書には章や句の区切りがありません。注意して、文脈を見ることが大切です。10章終わりと11章のはじめは繋がっています。10章の終わりは「終末的希望」について書かれています。

 

約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。」(10:37)

 

「来るべき方」すなわちキリストが必ず、もう一度来られると約束されているわけです。だから、迫害下にあっても「忍耐」して待ち望みましょうと勧めているのです。その流れで11章1節です。つまり、「望んでいること」とは、ここでは「キリストの来臨」です。また11章全体の文脈から言うと、神が約束、あるいは啓示された内容ということになります。

 

2種類の「信仰」

信仰といっても2種類あります。1つは自分が信じたいものを信じ、自分の願望が叶うように願うこと。「信念」と言ってもいいでしょう。願うものを思い描きなさい、毎日それを念じなさい。そうすれば手に入ります。みたいな・・・もう1つは正しい信仰の対象に信頼を置くことです。正しい信仰の対象とは「神」と「神のことば=聖書」です。言い換えれば、正しい信仰とは「神がすでに啓示した、あるいは約束した内容に対する正しい応答のこと」と言えるでしょう。

 



ヘブル11:2には「昔の人は、この信仰によって称賛された」とあります。「この」信仰とはどの信仰でしょう?先ほどの2種類の2つ目の信仰のことです。称賛されたとは「神に喜ばれる信仰」と言い換えてもいいでしょう。つまり、「神が啓示した内容に正しく応答したので、そのような信仰の態度を神は喜ばれる」・・という意味です。


 

神に喜ばれる信仰の具体例

具体例(1)世界の創造

「この世界が神のことばで造られたことを悟り・・」       (ヘブル11:3)

 

世界の創造に立ち会った人はいません。私たちは創世記1:1「はじめに神が天と地を創造した。」という聖書の言葉を信じているのです。神が啓示された内容だからです。それをその通り信じる信仰は神に評価されます。

 

具体例2:カインとアベル

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。」    (ヘブル11:4)

 

「この」信仰の具体例2番目がカインとアベルの話です。これは少し難しいですね。なぜカインの捧げ物は拒否され、アベルの捧げ物は喜ばれたのでしょうか?弟アベルは動物の捧げ物、すなわち血を流した捧げ物です。兄の農作物は宗教儀式ではあっても、神が定めた罪の贖いの捧げ物ではなかったのです。「血」が無いからです。アダムとエバが罪を犯した後、神が獣の皮で覆いを作り着せてあげました。獣の皮をとるには獣の血が流される必要がありますね。罪の贖いには血が必要だったのです。(旧約では「血は命」であるという思想があります。)アダムとエバは人生でのこの大事件を忘れるわけもなく、この大事な真理を子供達、すなわち、カインとアベルに伝えたことは確実でしょう。しかし、カインは神が啓示した事柄ではなく、自分の方法で自分の選んだものを捧げたのです。一方、すでに示された啓示に応答したアベルは神に喜ばれました。

 

具体例3:エノク

「信仰によってエノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証されていたのです。」                 

                                (ヘブル11:5)

 

次はエノクです。この人は大変ユニークです。エノクの話は創世記5:2124に出てきます。 

365年生きて、生きたまま天に上げられました。地上にいた時、その信仰の生き方は神に喜ばれており、人々に証されていました。恐らく、神はエノクに生きたまま天に上げられることを伝えてあったと推測されます。これは特別な体験であり、旧約時代の信仰深い人が全て上がられたわけではなく、エノクは特別だったのです。神からのその特別なメッセージを頂いて、それを「信じて」歩んでいたものと思われます。そして、信じたごとくに天に上げられたのです。

 

しかし、これはある意味、新約の信徒たち=私達に起こることの型でもあったのです。Iテサロニケ4:16—17を見てみましょう。

 

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。      (テサロニケ4:1617)

 

 

キリスト来臨時に信者は空中に引き上げられると書いてあります。これを「携挙」と言います。また、Iコリント15:52には、その時には一瞬にして「朽ちない体に変えられる」ともあります。新しい復活の体をもらうのです。

 

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 Iコリント15:52)

 

さあ、あなたはどうこれを受け取りますか?「そんなバカな」「そんなことはあり得ない」と拒否することもできるし、「啓示されたことですから、信じます」と言うこともできます。忘れないでください、歴史上、すでにエノクは生きたまま天に上げられました。実例があるのです。また、キリストは私たちの「初穂」として蘇り、その蘇りの体で、40日間、150人以上の信者に現れ、そして天に昇って行かれました。前例があるのです。

 

 

神に喜ばれる「信仰」の条件

11:6を読みましょう。

信仰がなければ神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

                               (ヘブル11:6)

 

信仰に関しての大前提は「信仰がなければ神を喜ばすことはできない」と言うことです。小さい子供は椅子の上から手を広げたお父さんの胸にジャンプして降りてくるでしょう。お父さんに全幅的な信頼を置いているからです。そして、それがお父さんを喜ばすのです。神様は神様が私たちに語った希望、約束を私たちが文字通り、単純に信じる時、お喜びになるのです。

 

そして、11:6の後半には、正しい信仰の2つの要素、「信じなければならないこと」が書かれています。

 

 1つは「神がおられること」神がいると言う世界観、歴史観を持つことです。

無神論者は無神論者の世界観があります。死んだら終わり、だから、この地上で出来る限り快楽を追求する。しかし、神を信じるものは天国の存在を信じます。復活を信じます。再臨を信じます。この世を生きる、視点が違うのです。クリスチャンは、地上では「旅人」です。天国人としての価値観を持って、この世を生きます。

 

●2つ目は「報いてくださる方」つまり、神は、この世界に、また、私の人生に介入される方だということを信じることです。ただ、神の存在を信じるだけでは十分ではありません。ヤコブ書には、「悪霊どもも、まことの神はお一人だと信じて震えおののいています。」と書いてあります。悪霊も神の存在は信じています。17世紀の英国で「理神論」(Deism)という思想が流行りました。「理神論」は神の存在は信じます。しかし、神の介入を信じません。神は世界を創造し、ゼンマイを巻き終わったら、あとは放っておくという考えです。インテリ層に流行った教え。しかし、これは聖書が語る神ではありません。旧約聖書は神がイスラエルの民とともに歩み、歴史に介入されたことの証の書です。そして、この神はあなたの人生にも介入し、あなたの人生を変革し、あなたを具体的に導くことができる神です。祈りを聞かれる神です。

 

さてまとめてみましょう。2種類の信仰の話をしました。そして、正しい信仰とは「神がすでに啓示されたことへの正しい応答」であると学びました。神がすでに啓示されたことを知るために、どうしても必要なのは聖書を読んで学ぶことです。一人で学んでいても難しいので是非、バイブルスタディグループに参加することをお勧めします。

 

終末に生きるクリスチャンの信仰の方向性

さて、最後に終末に生きる私たちクリスチャンはどういう信仰の「方向性」を持って生きるべきでしょうか?始めに「来るべき方が来られる。遅くなることはない。」との御言葉を読みました。新約聖書には至る所で「キリストの再臨」が書かれています。そうイエス様はもう一度来られます。今度は王として。今はこの世界で色々な問題、事件、戦争があり、悲しい出来事が毎日起こっています。しかし、いつまでこうなのではありません。イエスは来られます。そして、悪を滅ぼします。世界を回復します。そして、自らが王として、「愛」と「義」と「平和」が支配する「メシア王国」をこの地上にもたらします。




 望んでいる事は保障されています。見てはいませんが、信仰はこれを確信させるものです。

私たちの希望は、このお方にかかっています。「来るべきお方」に目を留めて、この地上生活を送っていきましょう。

 

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」

                              (ヘブル12:2)

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2021年8月19日木曜日

そうだったのか!「救い」


救われているの?まだ救われてないの?

聖書は一見矛盾する2つの要素が調和して真理を表していることが多いのです。例えば、イエスは100%神であり、100%人。聖書は人が書いたけど、神の言葉。御国は来ているけど、まだ来ていない。などなど・・・そして、この救いも一見、混乱を与えます。例えば、エペソ2:8では、

 

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 (エペソ2:8)

 

英語では

For by grace, you have been saved through faith.  となっており、もう救われて、その状態が続いているという意味ですね。

 

なのに、Iペテロ1:5には、

 

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。

 

終わりの時に「救い」を頂くとあり、今は「まだ」救われていないのでは?と心配になります。パウロもピリピ2:12で、

 

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。

 

言っており、「あれ、救われたと思ったのに、救いを達成するよう努めないと救われないんだ。」と混乱します。

 

救われているの、救われてないの?と質問したくなりますね。

 

救いの3つの側面

救いには義認・聖化・栄化という3つの側面があります。救いには「瞬時的側面」と「プロセス的側面」があります。霊的には「義」と認められていても、体は病気になるし、老いるのです。まだ体の贖いが終わってないからです。この世界の回復もまだ途上にありますね。1つづ見ていきましょう。

 

義認

義認は法律的側面です。本来、有罪な人間をキリストの十字架での「贖い」により、神ご自身が「義」と「認めて」くださる行為です。

 

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。           (ガラテヤ2:16)

 

これは神のワザです。だから不変です。

 

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 (ローマ8:1)

 

イエスを救い主として信じた時に、無罪判決となり、その保証に聖霊が与えられます。

 

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です (エペソ1:14)

 

その内なる聖霊は御国を受け継ぐ保証ですので、御国に入ることはもう確かなのです。私たちが信じた時、神がキリストの十字架ゆえに、その罪を赦し、「義」と認めてくださり、その保証として「御霊」を下さいました。先ほど、見たように、イエスを救い主として信じた者は、恵と信仰ゆえに「救われて」います。(エペソ2:8)これは、「過去」に起こった事実と言ってもいいでしょう。また、その文脈で2:6には、驚くべき事実が書かれています。

 

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

 

これは将来そうなるという未来形ではなく、もう「座っている」という事実です。しかし、体はまだ地上ですね。つまり、私たちの「霊」においては、義とされ、こういう状態なのだということです。

 

 

聖化

次が聖化です。これは地上で魂が清められていく過程です。現在進行中の「救い」といってもいいでしょう。主の似姿に変えられていくプロセスです。

 

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、 ・・・(Iテサロニケ4:3)

 

救われたから、何をしてもいいのではありません。神の御心は私たちが神に似て、「聖」なる者となることです。

 

神はご自分のきよさに与らせようとして、試練を与えることがあります。

 

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。 (ヘブル12:10)

 

実を結ぶため刈り込みもなさいます。

 

わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。  

                      (ヨハネ15:2)

 

ピリピ2:12の「救いの達成」は「従順」のコンテキストで語られているので、この「聖化」に関することでしょう。そして、ここに希望があります。「聖なる」者にしてくださるのは神ご自身なのです。

 

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです  IIコリント3:18)

 

私たちの側の責任としては主と時間を過ごす事です。


 

 栄化

字のごとく、栄光に変えられるということです。これは将来に起こる「救い」です。「体」の贖いです。

 

何とかして死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです (ピリピ3:11−12)

 

あのパウロでも「まだ」達成していないのが「復活」です。これについてはIコリント15章全体を費やしてパウロが詳細に説明していますので、ここでは詳しくは述べません。主の再臨の時に一瞬にして変えられます。

 

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです

                       (Iコリント15:52)

これは素晴らしい希望です。

 

そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。  (ルカ21:27−28)

 

罪の「贖い」はもう終わっています。近づいている「贖い」とは、主の再臨時に起こる「体」の贖いです。終わりに用意されている「救い」です。

 

 

まとめ

信じた時に「義」と「認められ」救われます。位置的には「神の子供」(ヨハネ1:12)となり、キリストと共に天上に座っています。地上では主の似姿に変えられつつあります。(IIコリント3:18)そういう意味では「救われつつ」あります。そして将来的には体が贖われ、朽ちない体に復活します。終わりの日に用意されている「救い」を頂きます。やがて天にて、子羊の婚礼に「輝くきよい亜麻布」を着るとことが許され、子羊の花嫁となり、栄化は完成します。(黙示19:7−8)人の側としては神への従順が必要とされます。同時に聖めてくださるのは主ご自身でもあります。

 

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

                    (Iテサロニケ5:23)

 

 

さらに広い「救い」の概念

神の目的は「人類の救い」?それとも、「被造世界の回復」?聖書全体からは人が救われて魂が天国に行けば終わりというものではないことは明らかです。ノアの洪水の時、箱舟に入ったのは8名の人間だけではなかったでしょう。動物たちも入れました。神は常に生態系そのものの救いを考えておられるのです。また、今も被造物全体が解放を望んで呻いているとあります。(ローマ8:21−22)

 

黙示録21−22章は「新しいと新しい」という、新しい「世界」について書かれており、人間の「魂の救い」だけがゴールではないことが分かります。アダムとエバによる人間の罪は被造世界にも呪いをもたらしました。(創世記3:18)だから「救い」は被造世界の贖い、回復をもって完成するのです。神はこの回復のみ業を、個人レベルで、宇宙レベルで確実に進めておられます。新天新地には、呪いの原因も結果も無いことが記されています。(黙示録22:3)

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

 

 

 

2021年8月12日木曜日

そうだったのか!「イエスの変貌」

 

人の子が御国と共に来る?

「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」 (マタイ16:28)

 

これが先ず、分からない。もう使徒たちの時代から2000年が経っているが、イエスの再臨は、まだ無いのだ。それで、イエスは間違っていた、偽預言者だと主張する者もいる。

 

我々の持っている聖書の読み方で気をつけなければならないのは、オリジナルの聖書には章、節が無いということ。すなわち、章の終わりと次の章の初めに本来は区切りが無いということだ。鍵は、最後と最初を繋げてみることだ。流れ的には16:28の文脈で、「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(17:1)となっていることだ。高い山はおそらくヘルモン山だろう。そこでイエスの栄光の輝きが現れる。神の栄光の輝きをシャカイナ・グローリーと言う。そして「キリストが現れるとき」(Iペテロ1:7)「来臨の輝き」(IIテサロニケ2:8)など、新約聖書では、「主の栄光が現れる時」=「再臨」という理解になっている。そして、さらに連結して解釈すれば、「主の栄光の現れの時」=「再臨」=「御国(千年王国)の到来」となる。そうすると、ヘルモン山でのイエスの変貌は「再臨のイエス」、「王なるイエス、栄光のイエス」、そして「御国の到来」の前兆的イベントとなる。だからマタイ16:28の成就と言うことができる。

 

つまり、先の聖句は「ここにいる弟子の何人かは、人の子が神の国の栄光を持って現れるのを、生きている間に目撃することになるだろう。」と言う意味だ。この体験はやがて訪れるメシア王国の約束であり、保障であるとも言える。現に、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人(ここに立っている人たち)は死ぬ前に、イエスの「ご威光の目撃者」となったのである。IIペテロ1:16)

 

 

イエスの神性の証明

私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではあ りません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです IIペテロ1:16)



威光の目撃とは間違いなくヘルモン山でのイエスの変貌のことだ。たった一度、神のご栄光がイエスの衣から漏れ出てしまったモーメントなのだ。神の子、イエスは人の姿を取り、赤子としてこの地上に来られた、大工の息子として育った。公生涯に入ってからたくさんの奇跡を行なったが、神の輝きを表したことはない。従って、大多数の人々の評価はまだ「優れた預言者=人間」の一人という理解だった。

 

さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」 (マタイ16:14)

 

群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。  (マタイ12;23)

 

ダビデの子=メシアなのか?と疑問を持った者もいたが、理解は揺れていた。ペテロだけが、「あなたは生ける神の子、キリストです。」(マタイ16:16)と父からの「啓示」によって宣言する事が出来た。(しかし、ペテロは十分なメシア理解には至っていなかったことは16:23でイエスに叱られていることを見てもわかる。)

 

それで筆頭弟子ペテロとリーダーグループのヨハネ、ヤコブだけを連れて山に登り、シャカイナ・グローリーをお示しになる必要があった。つまり、単なる旧約の預言者の一人ではなく、全く別レベルの神ご自身の威光を放つ方=メシアであることをお示しになったのだ。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)の立証でもある。しかし、「御国の王」としての再臨の前に、罪の贖いのための「受難のメシア」が成就されなければならなかったので、「ご威光」は、公には示されず、「弟子訓練」のために、3名の弟子だけに示されたのだ。

 

 

モーセとエリヤ出現の意味 

そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった (ルカ9:31)

 

モーセ(律法の象徴的人物)とエリヤ(預言者の象徴的人物)が出現した。旧約聖書は時に、「律法と預言者」と言い換えられることがある。(マタイ22:40)つまり、この二人は、旧約聖書の成就としての「十字架での贖い」のことを話し合っていたのだ。興味深いのはルカ9:31の「最後について」は、言語ではエクソダス=出エジプトである。この意味するところは、十字架により、罪から解放されて、古い肉体を抜け出して、新しい体を頂く「復活」であり、出エジプトが目指す約束の地=メシア王国=千年王国の約束でもある。

 

事実、エリヤは生きたまま天に上げられた「携挙」の型であり、モーセは死んで復活して、ヘルモン山に現れた「復活」の型といえる。そして、信仰者は「死」を克服していることの証拠でもある。エリヤとモーセはAlive=生きているのだ!そしてイエスと語り合ったのだ!

 

 

ペテロが3つの仮庵を提案した意味

イエスのご臨在(パロージア)の現れとは「再臨」、そして、再臨は「御国の成就」の時。仮庵の祭りは「約束の地」カナン(旧約)=「メシア王国」(新約)を祝う祭りである。「メシア王国」とは黙示録では「千年王国」。我々はそこに至る途上にいる。したがって地上では「寄留者」(ヘブル11:13)と呼ばれる。ヘルモン山でのイエスの変貌は「御国到来」の前兆だとすれば、それに直結する「仮庵の祭り」の「仮庵」を3つ建てましょうと提案したペテロの気持ちも分からなくはない。(幕屋より「小屋」=「仮庵」の方がいい訳だろう。)千年王国で諸国が「仮庵の祭り」を祝うためにエルサレムに登ってくるという預言もある。(ゼカリヤ14:16)

 

 

山の上の体験(霊的祝福のピーク)と山麓の体験

ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人はヘルモン山上でまさに、天的な体験をした。それは恐ろしくもあったが、霊的至福の時でもあったろう。何しろ、イエスの神としてのご威光を目撃したのだから。しかし、麓に降りてくると問題に満ちた地上の現実に引き戻された。てんかんで苦しんでいる息子とその父と出会う。しかも、その父がイエスの弟子たちにお願いしたのに、治すことができないという屈辱的な場面だった。イエスご自身「不信仰な曲った時代だ」(マタイ17:17)と嘆いておられる。私たちはこのような「山の上」の霊的至福体験と麓の問題に満ちた「麓」の現実を行ったり来たりしている。山の上に居続ければ、地上で証ができない。地上の問題にばかり取り囲まれていれば、霊が枯渇する。「麓」では「山上」を思い、「山上」では「麓」を思うバランスが必要だ。

 

 

今回のネタ元

ハーベストタイム メシアの生涯(94回) イエスの変貌

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2021年8月5日木曜日

そうだったのか!「4千人の給食」

 

「給食」の奇跡は1回、それとも2回?


聖書を読んでいると「5千人の給食」の話が出てきます。さらに読んでいくと、今度は「4千人の給食が出てきます。」「あれ、同じような奇跡が出てきた。これどういう事?」ある人はこの2つは実は1つの奇跡だったと考えます。しかし、イエスご自身こう語っています。

 

わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集め て、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」 (マルコ8:19−20)

 

つまり、パンの奇跡は2回あったのです。1回は5千人、もう1回は4千人の給食です。よく読むと色々違いがあります。

 

五千人の奇跡では・・・

  群衆はイエスと1日、一緒にいた。

  パン5つと魚2匹から増え広がった。

  余ったものは12のカゴに保管された。

 

4千人の奇跡では・・・

  群衆はイエスと共に3日いた。

  パン7つと魚少しが増え広がった。

  余ったものは7つのカゴに保管された。

 

 

鍵は奇跡が行われた「場所」なんです。

実はこの2つの出来事の鍵はこの奇跡が行われた「場所」です。

  五千人の奇跡はベッサイダ(ルカ9:10)で、ユダヤ人住居地であり、基本的にはユダヤ人に対して行われた奇跡

  4千人の奇跡はガリラヤ湖の東側、異邦人の地、デカポリスで行われた。

(マルコ7:31)したがって、これは異邦人を対象に行われた奇跡であることが分かります。

 

しかも、このデカポリスでは、すでにイエスの宣教の歴史があります。そう、墓場に住んでいたゲラサ人からレギオン(悪霊ども)を追い出した奇跡が起こった、そのゲラサはデカポリス内にあるのです。異邦人の地です。あのゲラサ人はイエスにお供したいと願い出ましたが、断られ、自分の家族の元に帰って証するよう勧められます。つまり、イエスの事は、この男によって証され、デカポリス内で、すでに評判が広まっていたと考えられます。それで多くの群衆がイエスに付き従っていたのです。イエスはあのサマリアの女に伝道したことでピリポのサマリア伝道(使徒8:5)の土台を作られました。イエスは非常に緻密に計画性を持って宣教活動をなさっていたことが分かります。

 

イスラエルの宗教指導者はイエスの奇跡は「ベルゼブル=悪魔」の力によるものだと非難し、イエスのメシア性を受け入れませんでした。反対に異邦人はこのお方に希望をかけ、従っていたのです。これは将来的にメシアがイスラエルによって否定され(十字架)、福音がまず異邦人に伝えられるようになるとの「しるし」とも言えます。今の時代は異邦人への神の愛の妬みを通して選民を覚醒させようと考えておられます。(ローマ11:11、マタイ12:21)

 

基本的にイエスは「イスラエルの滅びた羊」のところに遣わされていました。(マタイ15:24)しかし、祝福は異邦人にも及ぶことを、シリア・フェニキアの女との対話でも垣間見ることができます。(マルコ7:26−30)この女はイエスのへの信仰から、テーブルから落ちた「パン」を頂いたのです。この話の後、異邦人の地での「4千人の給食」の話となるのです。ここに「4千人の給食」に至るまでの布石が打たれています。イエスは「生けるパンです。」このパンの祝福は異邦人の地であるデカポリスで行われ、異邦人たちは食べて満足したのです。その後、時到って、世界宣教の時代が訪れます。福音による霊の祝福はエルサレム、ユダヤ、サマリアの全土、そして地の果てにまで伝えられます。(使徒1:8)

 

祝福は有り余る

異邦人への祝福は有り余りました。実は五千人の給食で使用したカゴは原語では「小さなカゴ」を意味します。4千人のカゴは「大きなカゴ」を意味します。あのパウロが城壁からカゴで降ろされ逃げた時のあの「カゴ」です。ですから、12カゴに対して、7カゴと少なく聞こえますが、実は12カゴの総量より、余ったものは多かったと推測されます。実際、今、有り余る恵が、異邦人に注がれています。

 

異邦人にとって、

「今は恵みの時、救いの日」IIコリント6:2)なのです。

 

神の救いのご計画には、イエスの十字架により壁が取り除かれ、選民も異邦人もキリストにあって1つとなる、一人の「新しい人」(エペソ2:18)になるという「奥義」(エペソ3:6)です。これは旧約時代にははっきり知らされてなかったので、ユダヤ人たちには理解しづらい考えだったのです。しかし、この「5千人」と「4千人」と2つのパンの奇跡を通して、「選民」も「異邦人」も共に祝福に預かること、命のパンであるキリストを食することで新しい「命」に生き始める事を「型」として示したとも言えるのです。

 

そして、この神の御心は、ペテロの夢を通して明らかになるのです。

 

ペテロは祈るために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。  私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」このようなことが三回あってから、すぐにその入れ物は天に引き上げられた。 (使徒10:10−16)

 

この時点ではペテロは旧約的な思考をしています。汚れた異邦人とは付き合えないと思っていたのです。しかし、この直後に起こる異邦人百人隊長、コルネリオの回心を通して、目が開かれるのです。そして、ついに以下の告白となるのです。

 

そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。 (使徒10:34−35)

 

このように後の展開を念頭に福音書を読むと興味深いですね。

 

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今回のネタ元はハーベストタイムミニストリーズ

「メシアの生涯(90)」〜4千人のパンの奇跡

 

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執筆者:栗原一芳

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