「給食」の奇跡は1回、それとも2回?
聖書を読んでいると「5千人の給食」の話が出てきます。さらに読んでいくと、今度は「4千人の給食が出てきます。」「あれ、同じような奇跡が出てきた。これどういう事?」ある人はこの2つは実は1つの奇跡だったと考えます。しかし、イエスご自身こう語っています。
わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集め て、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」 (マルコ8:19−20)
つまり、パンの奇跡は2回あったのです。1回は5千人、もう1回は4千人の給食です。よく読むと色々違いがあります。
五千人の奇跡では・・・
● 群衆はイエスと1日、一緒にいた。
● パン5つと魚2匹から増え広がった。
● 余ったものは12のカゴに保管された。
4千人の奇跡では・・・
● 群衆はイエスと共に3日いた。
● パン7つと魚少しが増え広がった。
● 余ったものは7つのカゴに保管された。
鍵は奇跡が行われた「場所」なんです。
実はこの2つの出来事の鍵はこの奇跡が行われた「場所」です。
● 五千人の奇跡はベッサイダ(ルカ9:10)で、ユダヤ人住居地であり、基本的にはユダヤ人に対して行われた奇跡。
● 4千人の奇跡はガリラヤ湖の東側、異邦人の地、デカポリスで行われた。
(マルコ7:31)したがって、これは異邦人を対象に行われた奇跡であることが分かります。
しかも、このデカポリスでは、すでにイエスの宣教の歴史があります。そう、墓場に住んでいたゲラサ人からレギオン(悪霊ども)を追い出した奇跡が起こった、そのゲラサはデカポリス内にあるのです。異邦人の地です。あのゲラサ人はイエスにお供したいと願い出ましたが、断られ、自分の家族の元に帰って証するよう勧められます。つまり、イエスの事は、この男によって証され、デカポリス内で、すでに評判が広まっていたと考えられます。それで多くの群衆がイエスに付き従っていたのです。イエスはあのサマリアの女に伝道したことでピリポのサマリア伝道(使徒8:5)の土台を作られました。イエスは非常に緻密に計画性を持って宣教活動をなさっていたことが分かります。
イスラエルの宗教指導者はイエスの奇跡は「ベルゼブル=悪魔」の力によるものだと非難し、イエスのメシア性を受け入れませんでした。反対に異邦人はこのお方に希望をかけ、従っていたのです。これは将来的にメシアがイスラエルによって否定され(十字架)、福音がまず異邦人に伝えられるようになるとの「しるし」とも言えます。今の時代は異邦人への神の愛の妬みを通して選民を覚醒させようと考えておられます。(ローマ11:11、マタイ12:21)
基本的にイエスは「イスラエルの滅びた羊」のところに遣わされていました。(マタイ15:24)しかし、祝福は異邦人にも及ぶことを、シリア・フェニキアの女との対話でも垣間見ることができます。(マルコ7:26−30)この女はイエスのへの信仰から、テーブルから落ちた「パン」を頂いたのです。この話の後、異邦人の地での「4千人の給食」の話となるのです。ここに「4千人の給食」に至るまでの布石が打たれています。イエスは「生けるパンです。」このパンの祝福は異邦人の地であるデカポリスで行われ、異邦人たちは食べて満足したのです。その後、時到って、世界宣教の時代が訪れます。福音による霊の祝福はエルサレム、ユダヤ、サマリアの全土、そして地の果てにまで伝えられます。(使徒1:8)
祝福は有り余る
異邦人への祝福は有り余りました。実は五千人の給食で使用したカゴは原語では「小さなカゴ」を意味します。4千人のカゴは「大きなカゴ」を意味します。あのパウロが城壁からカゴで降ろされ逃げた時のあの「カゴ」です。ですから、12カゴに対して、7カゴと少なく聞こえますが、実は12カゴの総量より、余ったものは多かったと推測されます。実際、今、有り余る恵が、異邦人に注がれています。
異邦人にとって、
「今は恵みの時、救いの日」(IIコリント6:2)なのです。
神の救いのご計画には、イエスの十字架により壁が取り除かれ、選民も異邦人もキリストにあって1つとなる、一人の「新しい人」(エペソ2:18)になるという「奥義」(エペソ3:6)です。これは旧約時代にははっきり知らされてなかったので、ユダヤ人たちには理解しづらい考えだったのです。しかし、この「5千人」と「4千人」と2つのパンの奇跡を通して、「選民」も「異邦人」も共に祝福に預かること、命のパンであるキリストを食することで新しい「命」に生き始める事を「型」として示したとも言えるのです。
そして、この神の御心は、ペテロの夢を通して明らかになるのです。
ペテロは祈るために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。 私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、もう一度、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」このようなことが三回あってから、すぐにその入れ物は天に引き上げられた。 (使徒10:10−16)
この時点ではペテロは旧約的な思考をしています。汚れた異邦人とは付き合えないと思っていたのです。しかし、この直後に起こる異邦人百人隊長、コルネリオの回心を通して、目が開かれるのです。そして、ついに以下の告白となるのです。
そこで、ペテロは口を開いてこう言った。「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。 (使徒10:34−35)
このように後の展開を念頭に福音書を読むと興味深いですね。
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今回のネタ元はハーベストタイムミニストリーズ
「メシアの生涯(90)」〜4千人のパンの奇跡
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執筆者:栗原一芳
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