人の子が御国と共に来る?
「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」 (マタイ16:28)
これが先ず、分からない。もう使徒たちの時代から2000年が経っているが、イエスの再臨は、まだ無いのだ。それで、イエスは間違っていた、偽預言者だと主張する者もいる。
我々の持っている聖書の読み方で気をつけなければならないのは、オリジナルの聖書には章、節が無いということ。すなわち、章の終わりと次の章の初めに本来は区切りが無いということだ。鍵は、最後と最初を繋げてみることだ。流れ的には16:28の文脈で、「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(17:1)となっていることだ。高い山はおそらくヘルモン山だろう。そこでイエスの栄光の輝きが現れる。神の栄光の輝きをシャカイナ・グローリーと言う。そして「キリストが現れるとき」(Iペテロ1:7)「来臨の輝き」(IIテサロニケ2:8)など、新約聖書では、「主の栄光が現れる時」=「再臨」という理解になっている。そして、さらに連結して解釈すれば、「主の栄光の現れの時」=「再臨」=「御国(千年王国)の到来」となる。そうすると、ヘルモン山でのイエスの変貌は「再臨のイエス」、「王なるイエス、栄光のイエス」、そして「御国の到来」の前兆的イベントとなる。だからマタイ16:28の成就と言うことができる。
つまり、先の聖句は「ここにいる弟子の何人かは、人の子が神の国の栄光を持って現れるのを、生きている間に目撃することになるだろう。」と言う意味だ。この体験はやがて訪れるメシア王国の約束であり、保障であるとも言える。現に、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人(ここに立っている人たち)は死ぬ前に、イエスの「ご威光の目撃者」となったのである。(IIペテロ1:16)
イエスの神性の証明
私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではあ りません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです 。(IIペテロ1:16)
威光の目撃とは間違いなくヘルモン山でのイエスの変貌のことだ。たった一度、神のご栄光がイエスの衣から漏れ出てしまったモーメントなのだ。神の子、イエスは人の姿を取り、赤子としてこの地上に来られた、大工の息子として育った。公生涯に入ってからたくさんの奇跡を行なったが、神の輝きを表したことはない。従って、大多数の人々の評価はまだ「優れた預言者=人間」の一人という理解だった。
さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」 (マタイ16:14)
群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。 (マタイ12;23)
ダビデの子=メシアなのか?と疑問を持った者もいたが、理解は揺れていた。ペテロだけが、「あなたは生ける神の子、キリストです。」(マタイ16:16)と父からの「啓示」によって宣言する事が出来た。(しかし、ペテロは十分なメシア理解には至っていなかったことは16:23でイエスに叱られていることを見てもわかる。)
それで筆頭弟子ペテロとリーダーグループのヨハネ、ヤコブだけを連れて山に登り、シャカイナ・グローリーをお示しになる必要があった。つまり、単なる旧約の預言者の一人ではなく、全く別レベルの神ご自身の威光を放つ方=メシアであることをお示しになったのだ。「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)の立証でもある。しかし、「御国の王」としての再臨の前に、罪の贖いのための「受難のメシア」が成就されなければならなかったので、「ご威光」は、公には示されず、「弟子訓練」のために、3名の弟子だけに示されたのだ。
モーセとエリヤ出現の意味
そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった 。(ルカ9:31)
モーセ(律法の象徴的人物)とエリヤ(預言者の象徴的人物)が出現した。旧約聖書は時に、「律法と預言者」と言い換えられることがある。(マタイ22:40)つまり、この二人は、旧約聖書の成就としての「十字架での贖い」のことを話し合っていたのだ。興味深いのはルカ9:31の「最後について」は、言語ではエクソダス=出エジプトである。この意味するところは、十字架により、罪から解放されて、古い肉体を抜け出して、新しい体を頂く「復活」であり、出エジプトが目指す約束の地=メシア王国=千年王国の約束でもある。
事実、エリヤは生きたまま天に上げられた「携挙」の型であり、モーセは死んで復活して、ヘルモン山に現れた「復活」の型といえる。そして、信仰者は「死」を克服していることの証拠でもある。エリヤとモーセはAlive=生きているのだ!そしてイエスと語り合ったのだ!
ペテロが3つの仮庵を提案した意味
イエスのご臨在(パロージア)の現れとは「再臨」、そして、再臨は「御国の成就」の時。仮庵の祭りは「約束の地」カナン(旧約)=「メシア王国」(新約)を祝う祭りである。「メシア王国」とは黙示録では「千年王国」。我々はそこに至る途上にいる。したがって地上では「寄留者」(ヘブル11:13)と呼ばれる。ヘルモン山でのイエスの変貌は「御国到来」の前兆だとすれば、それに直結する「仮庵の祭り」の「仮庵」を3つ建てましょうと提案したペテロの気持ちも分からなくはない。(幕屋より「小屋」=「仮庵」の方がいい訳だろう。)千年王国で諸国が「仮庵の祭り」を祝うためにエルサレムに登ってくるという預言もある。(ゼカリヤ14:16)
山の上の体験(霊的祝福のピーク)と山麓の体験
ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人はヘルモン山上でまさに、天的な体験をした。それは恐ろしくもあったが、霊的至福の時でもあったろう。何しろ、イエスの神としてのご威光を目撃したのだから。しかし、麓に降りてくると問題に満ちた地上の現実に引き戻された。てんかんで苦しんでいる息子とその父と出会う。しかも、その父がイエスの弟子たちにお願いしたのに、治すことができないという屈辱的な場面だった。イエスご自身「不信仰な曲った時代だ」(マタイ17:17)と嘆いておられる。私たちはこのような「山の上」の霊的至福体験と麓の問題に満ちた「麓」の現実を行ったり来たりしている。山の上に居続ければ、地上で証ができない。地上の問題にばかり取り囲まれていれば、霊が枯渇する。「麓」では「山上」を思い、「山上」では「麓」を思うバランスが必要だ。
今回のネタ元
ハーベストタイム メシアの生涯(94回) イエスの変貌
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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