救われているの?まだ救われてないの?
聖書は一見矛盾する2つの要素が調和して真理を表していることが多いのです。例えば、イエスは100%神であり、100%人。聖書は人が書いたけど、神の言葉。御国は来ているけど、まだ来ていない。などなど・・・そして、この救いも一見、混乱を与えます。例えば、エペソ2:8では、
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 (エペソ2:8)
英語では
For by grace, you have been saved through faith. となっており、もう救われて、その状態が続いているという意味ですね。
なのに、Iペテロ1:5には、
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
終わりの時に「救い」を頂くとあり、今は「まだ」救われていないのでは?と心配になります。パウロもピリピ2:12で、
こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
言っており、「あれ、救われたと思ったのに、救いを達成するよう努めないと救われないんだ。」と混乱します。
救われているの、救われてないの?と質問したくなりますね。
救いの3つの側面
救いには義認・聖化・栄化という3つの側面があります。救いには「瞬時的側面」と「プロセス的側面」があります。霊的には「義」と認められていても、体は病気になるし、老いるのです。まだ体の贖いが終わってないからです。この世界の回復もまだ途上にありますね。1つづ見ていきましょう。
義認
義認は法律的側面です。本来、有罪な人間をキリストの十字架での「贖い」により、神ご自身が「義」と「認めて」くださる行為です。
しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。 (ガラテヤ2:16)
これは神のワザです。だから不変です。
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 (ローマ8:1)
イエスを救い主として信じた時に、無罪判決となり、その保証に聖霊が与えられます。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です 。(エペソ1:14)
その内なる聖霊は御国を受け継ぐ保証ですので、御国に入ることはもう確かなのです。私たちが信じた時、神がキリストの十字架ゆえに、その罪を赦し、「義」と認めてくださり、その保証として「御霊」を下さいました。先ほど、見たように、イエスを救い主として信じた者は、恵と信仰ゆえに「救われて」います。(エペソ2:8)これは、「過去」に起こった事実と言ってもいいでしょう。また、その文脈で2:6には、驚くべき事実が書かれています。
神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
これは将来そうなるという未来形ではなく、もう「座っている」という事実です。しかし、体はまだ地上ですね。つまり、私たちの「霊」においては、義とされ、こういう状態なのだということです。
聖化
次が聖化です。これは地上で魂が清められていく過程です。現在進行中の「救い」といってもいいでしょう。主の似姿に変えられていくプロセスです。
神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、 ・・・(Iテサロニケ4:3)
救われたから、何をしてもいいのではありません。神の御心は私たちが神に似て、「聖」なる者となることです。
神はご自分のきよさに与らせようとして、試練を与えることがあります。
肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。 (ヘブル12:10)
実を結ぶため刈り込みもなさいます。
わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
(ヨハネ15:2)
ピリピ2:12の「救いの達成」は「従順」のコンテキストで語られているので、この「聖化」に関することでしょう。そして、ここに希望があります。「聖なる」者にしてくださるのは神ご自身なのです。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 (IIコリント3:18)
私たちの側の責任としては主と時間を過ごす事です。
栄化
字のごとく、栄光に変えられるということです。これは将来に起こる「救い」です。「体」の贖いです。
何とかして死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです 。(ピリピ3:11−12)
あのパウロでも「まだ」達成していないのが「復活」です。これについてはIコリント15章全体を費やしてパウロが詳細に説明していますので、ここでは詳しくは述べません。主の再臨の時に一瞬にして変えられます。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです
(Iコリント15:52)
これは素晴らしい希望です。
そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。 (ルカ21:27−28)
罪の「贖い」はもう終わっています。近づいている「贖い」とは、主の再臨時に起こる「体」の贖いです。終わりに用意されている「救い」です。
まとめ
信じた時に「義」と「認められ」救われます。位置的には「神の子供」(ヨハネ1:12)となり、キリストと共に天上に座っています。地上では主の似姿に変えられつつあります。(IIコリント3:18)そういう意味では「救われつつ」あります。そして将来的には体が贖われ、朽ちない体に復活します。終わりの日に用意されている「救い」を頂きます。やがて天にて、子羊の婚礼に「輝くきよい亜麻布」を着るとことが許され、子羊の花嫁となり、栄化は完成します。(黙示19:7−8)人の側としては神への従順が必要とされます。同時に聖めてくださるのは主ご自身でもあります。
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。
(Iテサロニケ5:23)
さらに広い「救い」の概念
神の目的は「人類の救い」?それとも、「被造世界の回復」?聖書全体からは人が救われて魂が天国に行けば終わりというものではないことは明らかです。ノアの洪水の時、箱舟に入ったのは8名の人間だけではなかったでしょう。動物たちも入れました。神は常に生態系そのものの救いを考えておられるのです。また、今も被造物全体が解放を望んで呻いているとあります。(ローマ8:21−22)
黙示録21−22章は「新しい天と新しい地」という、新しい「世界」について書かれており、人間の「魂の救い」だけがゴールではないことが分かります。アダムとエバによる人間の罪は被造世界にも呪いをもたらしました。(創世記3:18)だから「救い」は被造世界の贖い、回復をもって完成するのです。神はこの回復のみ業を、個人レベルで、宇宙レベルで確実に進めておられます。新天新地には、呪いの原因も結果も無いことが記されています。(黙示録22:3)
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執筆者:栗原一芳
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