8対2の戦い?
そもそも「クリスチャン=キリスト教徒」と言われる括りの中にどんな人々がいるのだろうか? 世界的キリスト教ネットワークに大きく2つある。1つがWCC (World Council of Churches) , もう1つがWEA (World Evangelical Alliance)。前者はリベラル系で、後者は福音派となる。WCC(リベラル)には世界の349の教会と教団が加盟しており、5億6千万人の会員が存在する。正式メンバーではないが、事実上WCCの中心にいると言われるカトリックを入れるとWCC系は、約76%。(全キリスト教人口の52%がカトリック)統計上は圧倒的にWCCが多い。それに対して、クリスチャン全体の24%程度がWEA(福音派)に属していると言われている。
雑に言えば、聖書を字義通りには信じないリベラル派が8割、「聖書を誤りなき神のことば」と信じる福音派が2割となる。あるいは、世界のキリスト教徒の4分の3は、リベラル系とも言える。艱難時代前に携挙があるなら、大部分の「キリスト教徒」と呼ばれる人々は地上に残るのではないだろうか。(ローマ10:9)
WCCの神学路線
WCCの基本的神学路線は、千年王国後再臨主義の終末思想に基づき、この世を「天国化」しようとする流れだ。伝道よりは社会的福音を重視する。トリニティ福音主義神学大学院で博士号を取得したThomas Hwang氏著の「クリスチャンリーダー論」によると、その特徴の幾つかは、以下のようにリストアップされる。
社会的福音 (Social Gospel movement)
宗教多元主義 ( Religious Pluralism)
宗教間対話主義 (Interfaith dialogue)
人本主義(Humanism)
エキュメニカル主義 (Ecumenicalism)
改宗反対主義 (Anti-conversionism)
世界平和主義(World Peace Movement)
人権主義(Human Rights Movement)
容共主義(Accommodation toward communism)
同性愛容認主義(Accommodation toward homosexuals)
後千年王国主義(Post-millennium)
緑の運動主義(green peace movement)
地上の楽園主義(Pro-earthly paradise)
中絶容認主義(Accommodation toward abortion)
万人救済説(Universalism)
もちろん、人類にとって良いことはやったらいいだろう。しかし、上のリストには、福音的信仰を脅かす危険な思想が入っている。特に赤字のものは福音派にとって要注意だろう。
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資料1「宗教間対話主義」に関して、WCCの提案
この文書(下記の欄外サイト参照)が目指していることですが、さまざまな考えを受け入れる、包括的な対話の場を作りましょう。連帯に対する取り組み、動機、原則、提案を、他の宗教を信じる人々から学びましょう。そうすることで、わたしたちは理解と協力をより深めることができます。疎外された人々の声を聞き、尊重される場を確保し、帰属する場所を提供しましょう。異なるグループが愛と理解のうちに成長できるよう、ともにいることができるプラットフォームを作りましょう。
他の共同体・組織・機関との協力によって改善できるところを明確にするために、進行中の取り組みと既存の強みを検証し、諸宗教連帯の取り組みとその過程を再構築しましょう。わたしたちは多様性をもつものとして創造されたのですから、その多様性を認めるかたちで取り組みを再構築してください。わたしたちの働きは、「自分たちの中にだけ」とどまりたいという誘惑に抵抗してこそ、人間性の成熟を反映することができます。傷ついた世界にともに奉仕することで、わたしたちは皆、隣人となるのです。
「諸宗教の連帯による傷ついた世界への奉仕」世界教会協議会(WCC)
https://ncc-j.org/wp-content/uploads/2020/11/80f5003896f8fc1891a2437af75445c3.pdf
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パンデミックや気候変動問題に直面する現代は、地球規模での取り組みが急務となる。それは必要なことでもある。しかし、それはキリスト抜きの「人は皆、兄弟」「地球家族」的な思想を加速させる。聖書の主張は、十字架無しには和解はないのだ。イエスの権威の下にひれ伏さない限り、真の世界平和も無い。
地球規模の大きな政府が面倒を見るという「デジタル管理社会」への移行も不可避なのかも知れない。そして、それは聖書が語る「世界統一政府」への動きを加速する。世界経済フォーラム(ダボス会議)の「グレート・リセット」の計画の中には、すでに生体認証によるデジタル管理社会が盛り込まれている。今後、食料問題解決のための世界食料バンクや世界の軍備を管理するシステムが生まれるかも知れない。より良い統治システムができたとしても権威者、為政者の罪の問題がキリストにあって解決されていなければ、結局は、サタンの手足となってしまう。結局は「誰が」人類のために決断し、「誰が」世界を統治するかだ。
宗教界では対話路線が進み、キリスト教の「唯一性=キリストのみの救い」は独善的として非難されるだろう。ヒューマニズムをベースとした「世界統一宗教」へ向かっていく流れの中で、ポリコレ(男女の区別?撤廃)、LGBTや妊娠中絶への圧力が教会にかかってくるだろう。万人救済説に向かっては、聖書の「地獄」の教義が邪魔になる。キリスト教内でも「地獄」の再解釈が進むだろう。人権を無視することは「罪」になっても、キリストを無視することは「罪」にならなくなる。「罪」は人権や土着文化を奪う程度のものとなる。そして、罪が、その程度のものなら社会政策、経済政策で解決できるものとなる。キリストは必要なくなる。
私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。 (IIコリント2:11)
神は天上にはいなくなり、神とは将来の理想的社会環境という「希望」に置き換わる。「神は愛である」から「愛は神である」に変更されてゆく。神の愚かしさより、人間の知恵が先走る。そして「宣教」の概念が変わってくる。
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資料2「ハーバード大学に無神論者のチャプレン?」中川健一氏
https://www.youtube.com/watch?v=FX0JXZf2ZDI
この番組によると、ハーバード大学の創立理念は、「キリストと教会のための真理を」であった。最初の寄付者は牧師のJohn Harvard。その名から大学名が付けられた。しかし、最近ハーバード大学のチャプレンとして選ばれたグレッグ・エブスタイン氏は、”Good without God” (神なしでの善)と言う本を書いたヒューマニスト・無神論者だという。米国のハーバードを含む8つの主要大学(アイビー・リーグと呼ばれる)の卒業生は、アメリカの将来のリーダーとなり、国の方向性を決めることとなる。アメリカの大学は、すでにリベラル志向だが、ますます無神論的となってきている。霊的戦いの戦場は教育機関にあるという。
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「宣教」の意味の違い
Thomas Hwang氏は今や、キリスト教界を分断するものは、カルビン主義、アルミニアン主義ではなく「多元主義なのか、非多元主義なのかに2分され、この2つのグループの対立する時代に私たちは生きている。」と言っている。
Hwang氏の説明によると、WCC的には、キリスト教宣教の目的は、福音を伝えて改宗させるためではなく、人々の身体的必要を満たすものとなっているという。すでに「宣教」の中身が違うと言うのだ。神の御心は、人々をケアすることで、キリストを伝えることではないとなる。だからNPO活動などを積極的に支援する。しかし、そうすると「キリスト」の「キ」の字も出せなくなる。
「他宗教の人々を改宗させてはいけない。彼らも『救われた人々だから』」と言う声が大きくなる。他の宗教の人を改宗させることは、現地の文化を重んじない「無礼なこと」、「失礼なこと」となる。つまりは、「改宗反対主義」である。もし、それが事実だとすると、福音派にとっては無視できないシリアスな問題となる。
「イエス以外に救いはない!」と言うと、仲間のクリスチャンからも迫害を受ける時代になるとも言っている。そのように「福音的クリスチャン」は「リベラル派キリスト教徒」から迫害されるようになるのだ。ラオデキア教会(実質、キリストを追い出している教会)は、最終的には世界統一教会(黙示録17章に描かれている「淫婦」)に門戸を開いていく。宗教多元主義(どの宗教でも救われる)に対して、聖書は明確に語っている。
「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられて いないからです。」(使徒4:12)
「キリストばか」のススメ
イエスご自身こう言われた。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません
(ヨハネ14:6)
真理はどの道を通ってもいずれ辿り着く「場所」ではない。諸宗教の信徒が共有できる「教え」でもない。真理は「イエス・キリスト」という「お方」なのだ。特定な「お方」。この「お方」を通してでないと創造主には至らない。この「お方」なしでは「真理」には到達しない。「屠られた子羊」を通してしか、人は救われない。
真理は単純だ。子供のようにならないと「神の国」には入れないとイエスは言われた。皆、賢くなり、「キリストばか」が減っていく。キリストを捨てて、人の知恵に走っていく。今日の流れは、そういう事だろう。しかし、パウロは完全に「キリストばか」だった。パウロにはキリストしかなかったのだ。彼の告白を聞いてみよう。
「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。 」
(ピリピ1:20−21)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
(ガラテヤ2:19—20)
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。
(ピリピ3:7−8)
「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。」 (IIコリント11:23)
パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている。」
(使徒26:24)
私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。 (IIコリント5:13−14)
「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」
(Iコリント1:18)
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
(Iコリント2:2)
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
(Iコリント1:21−25)
そもそも罪(神を不必要とする性質)は、アダムとエバが「知恵の木」から食べたことによるのであり、人間が神を退け、万物の尺度になったことによる。
しっかり聖書を学んで、そして「キリストばか」になりましょう。
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執筆者:栗原一芳