2021年10月28日木曜日

「キリストばか」のススメ

 

8対2の戦い?

そもそも「クリスチャン=キリスト教徒」と言われる括りの中にどんな人々がいるのだろうか? 世界的キリスト教ネットワークに大きく2つある。1つがWCC (World Council of Churches) , もう1つがWEA (World Evangelical Alliance)。前者はリベラル系で、後者は福音派となる。WCC(リベラル)には世界の349の教会と教団が加盟しており、5億6千万人の会員が存在する。正式メンバーではないが、事実上WCCの中心にいると言われるカトリックを入れるとWCC系は、約76%。(全キリスト教人口の52%がカトリック)統計上は圧倒的にWCCが多い。それに対して、クリスチャン全体の24%程度がWEA(福音派)に属していると言われている。

 

雑に言えば、聖書を字義通りには信じないリベラル派が8割、「聖書を誤りなき神のことば」と信じる福音派が2割となる。あるいは、世界のキリスト教徒の4分の3は、リベラル系とも言える。艱難時代前に携挙があるなら、大部分の「キリスト教徒」と呼ばれる人々は地上に残るのではないだろうか。(ローマ10:9)

 

WCCの神学路線

WCCの基本的神学路線は、千年王国後再臨主義の終末思想に基づき、この世を「天国化」しようとする流れだ。伝道よりは社会的福音を重視する。トリニティ福音主義神学大学院で博士号を取得したThomas Hwang氏著の「クリスチャンリーダー論」によると、その特徴の幾つかは、以下のようにリストアップされる。

 

社会的福音 (Social Gospel movement)

宗教多元主義 ( Religious Pluralism)

宗教間対話主義 (Interfaith dialogue)

人本主義(Humanism)

エキュメニカル主義 (Ecumenicalism)

改宗反対主義 (Anti-conversionism)

世界平和主義(World Peace Movement)

人権主義(Human Rights Movement)

容共主義(Accommodation toward communism)

同性愛容認主義(Accommodation toward homosexuals)

後千年王国主義(Post-millennium)

緑の運動主義(green peace movement)

地上の楽園主義(Pro-earthly paradise)

中絶容認主義(Accommodation toward abortion)

万人救済説(Universalism)

 

もちろん、人類にとって良いことはやったらいいだろう。しかし、上のリストには、福音的信仰を脅かす危険な思想が入っている。特に赤字のものは福音派にとって要注意だろう。

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資料1「宗教間対話主義」に関して、WCCの提案

この文書(下記の欄外サイト参照)が目指していることですが、さまざまな考えを受け入れる、包括的な対話の場を作りましょう。連帯に対する取り組み、動機、原則、提案を、他の宗教を信じる人々から学びましょう。そうすることで、わたしたちは理解と協力をより深めることができます。疎外された人々の声を聞き、尊重される場を確保し、帰属する場所を提供しましょう。異なるグループが愛と理解のうちに成長できるよう、ともにいることができるプラットフォームを作りましょう。

他の共同体・組織・機関との協力によって改善できるところを明確にするために、進行中の取り組みと既存の強みを検証し、諸宗教連帯の取り組みとその過程を再構築しましょう。わたしたちは多様性をもつものとして創造されたのですから、その多様性を認めるかたちで取り組みを再構築してください。わたしたちの働きは、「自分たちの中にだけ」とどまりたいという誘惑に抵抗してこそ、人間性の成熟を反映することができます。傷ついた世界にともに奉仕することで、わたしたちは皆、隣人となるのです。

「諸宗教の連帯による傷ついた世界への奉仕」世界教会協議会(WCC

https://ncc-j.org/wp-content/uploads/2020/11/80f5003896f8fc1891a2437af75445c3.pdf

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パンデミックや気候変動問題に直面する現代は、地球規模での取り組みが急務となる。それは必要なことでもある。しかし、それはキリスト抜きの「人は皆、兄弟」「地球家族」的な思想を加速させる。聖書の主張は、十字架無しには和解はないのだ。イエスの権威の下にひれ伏さない限り、真の世界平和も無い。

 

地球規模の大きな政府が面倒を見るという「デジタル管理社会」への移行も不可避なのかも知れない。そして、それは聖書が語る「世界統一政府」への動きを加速する。世界経済フォーラム(ダボス会議)の「グレート・リセット」の計画の中には、すでに生体認証によるデジタル管理社会が盛り込まれている。今後、食料問題解決のための世界食料バンクや世界の軍備を管理するシステムが生まれるかも知れない。より良い統治システムができたとしても権威者、為政者の罪の問題がキリストにあって解決されていなければ、結局は、サタンの手足となってしまう。結局は「誰が」人類のために決断し、「誰が」世界を統治するかだ。

 

宗教界では対話路線が進み、キリスト教の「唯一性=キリストのみの救い」は独善的として非難されるだろう。ヒューマニズムをベースとした「世界統一宗教」へ向かっていく流れの中で、ポリコレ(男女の区別?撤廃)、LGBTや妊娠中絶への圧力が教会にかかってくるだろう。万人救済説に向かっては、聖書の「地獄」の教義が邪魔になる。キリスト教内でも「地獄」の再解釈が進むだろう。人権を無視することは「罪」になっても、キリストを無視することは「罪」にならなくなる。「罪」は人権や土着文化を奪う程度のものとなる。そして、罪が、その程度のものなら社会政策、経済政策で解決できるものとなる。キリストは必要なくなる。

 

私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。 IIコリント2:11)

 

神は天上にはいなくなり、神とは将来の理想的社会環境という「希望」に置き換わる。「神は愛である」から「愛は神である」に変更されてゆく。神の愚かしさより、人間の知恵が先走る。そして「宣教」の概念が変わってくる。

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資料2「ハーバード大学に無神論者のチャプレン?」中川健一氏

https://www.youtube.com/watch?v=FX0JXZf2ZDI

 

この番組によると、ハーバード大学の創立理念は、「キリストと教会のための真理を」であった。最初の寄付者は牧師のJohn Harvard。その名から大学名が付けられた。しかし、最近ハーバード大学のチャプレンとして選ばれたグレッグ・エブスタイン氏は、”Good without God” (神なしでの善)と言う本を書いたヒューマニスト・無神論者だという。米国のハーバードを含む8つの主要大学(アイビー・リーグと呼ばれる)の卒業生は、アメリカの将来のリーダーとなり、国の方向性を決めることとなる。アメリカの大学は、すでにリベラル志向だが、ますます無神論的となってきている。霊的戦いの戦場は教育機関にあるという。

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「宣教」の意味の違い

Thomas Hwang氏は今や、キリスト教界を分断するものは、カルビン主義、アルミニアン主義ではなく「多元主義なのか、非多元主義なのかに2分され、この2つのグループの対立する時代に私たちは生きている。」と言っている。

 

Hwang氏の説明によると、WCC的には、キリスト教宣教の目的は、福音を伝えて改宗させるためではなく、人々の身体的必要を満たすものとなっているという。すでに「宣教」の中身が違うと言うのだ。神の御心は、人々をケアすることで、キリストを伝えることではないとなる。だからNPO活動などを積極的に支援する。しかし、そうすると「キリスト」の「キ」の字も出せなくなる。

 

「他宗教の人々を改宗させてはいけない。彼らも『救われた人々だから』」と言う声が大きくなる。他の宗教の人を改宗させることは、現地の文化を重んじない「無礼なこと」、「失礼なこと」となる。つまりは、「改宗反対主義」である。もし、それが事実だとすると、福音派にとっては無視できないシリアスな問題となる。

 

「イエス以外に救いはない!」と言うと、仲間のクリスチャンからも迫害を受ける時代になるとも言っている。そのように「福音的クリスチャン」は「リベラル派キリスト教徒」から迫害されるようになるのだ。ラオデキア教会(実質、キリストを追い出している教会)は、最終的には世界統一教会(黙示録17章に描かれている「淫婦」)に門戸を開いていく。宗教多元主義(どの宗教でも救われる)に対して、聖書は明確に語っている。

 

この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられて いないからです。」(使徒4:12)

 

 

「キリストばか」のススメ

イエスご自身こう言われた。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません  

                          (ヨハネ14:6)

真理はどの道を通ってもいずれ辿り着く「場所」ではない。諸宗教の信徒が共有できる「教え」でもない。真理は「イエス・キリスト」という「お方」なのだ。特定な「お方」。この「お方」を通してでないと創造主には至らない。この「お方」なしでは「真理」には到達しない。「屠られた子羊」を通してしか、人は救われない。

 

真理は単純だ。子供のようにならないと「神の国」には入れないとイエスは言われた。皆、賢くなり、「キリストばか」が減っていく。キリストを捨てて、人の知恵に走っていく。今日の流れは、そういう事だろう。しかし、パウロは完全に「キリストばか」だった。パウロにはキリストしかなかったのだ。彼の告白を聞いてみよう。

 

「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。 

                  (ピリピ1:20−21)

 

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです   

                (ガラテヤ2:19—20)

 

しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。

                (ピリピ3:7−8)

 

「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。」                     (IIコリント11:23

 

パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている

                  (使徒26:24)

 

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。                          (IIコリント5:13−14)

 

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」                      

                                                                           (Iコリント1:18)

 

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。

                                                                               (Iコリント2:2)

 

神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

                  Iコリント1:21−25)

 

そもそも罪(神を不必要とする性質)は、アダムとエバが「知恵の木」から食べたことによるのであり、人間が神を退け、万物の尺度になったことによる。

 

しっかり聖書を学んで、そして「キリストばか」になりましょう。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2021年10月21日木曜日

当たり前が当たり前でなくなる日


当たり前が当たり前でない日が来た

2019年の写真を見返してみると誰もマスクをつけていません。あの時、日本中の人がマスクをして外出する姿を想像できたでしょうか?日曜日には、当たり前のように会堂に集い、皆で賛美し、礼拝し、コーヒーを飲み会話をし、交わりをしていました。会堂で礼拝することができなくなる日が来るなんて考えも及びませんでした。



先日、政府分科会の尾身会長が「落ち着くまでにあと2〜3年」と言う発言をしていました。これを聞いてガックリしたのは私だけではないでしょう。人と会えない、会食できない、会議はzoom。ライフスタイル自体が変わりました。もう2019年の生活には完全には戻れないのかなと心配しています。

 

当たり前が当たり前でない日が来たのです!

 

 

80年前の非日常

そう言えば、太平洋戦争に突入していった日本は同じような体験をしました。当たり前に聞いていた洋楽は敵国音楽として禁止され、ジャズも聞けなくなりました。野球でさえ、「バッター」という英語は敵国語として禁止され、「打者」と日本語に言い換えて言わなければならなくなったのです。会堂での自由な礼拝は監視されるようになり、王なるキリストの「再臨」を語ることができなくなりました。当然、伝道活動もできません。戦前の当たり前の日々は、当たり前でなくなったのです。

 

 

目の前にある危機

今後、二人に一人が死ぬエボラ熱のような死亡率の高いウイルスが蔓延したら、きっと外出禁止となるでしょう。ビルゲイツは、次期パンデミックは10倍酷いと予言(?)しているそうです。どうして彼が分かるのか不思議ですが・・。震度7の首都圏直下地震や富士山の大噴火があれば、日常生活はいきなり非常事態となります。また、香港やミャンマー、アフガンで起こっていることを見ると、あっという間に政権がひっくり返り、自由が奪われることも見ています。北朝鮮のミサイル?中国の台湾侵攻?日本でも今後どうなるか分かりません。アメリカの弱体化で世界のパワーバランスも変わってくるでしょう。

 

その時、「ああ、あの頃は路上でトラクト配れたよね。」「路傍伝道で演説しても、逮捕されなかったよね」と言う時代が来ないとも限りません。

 

 

この夏のオリンピック

この夏、私はオリンピック伝道に携わりましたが、本来なら、海外から多くの宣教チームが来日し、世界から集まる人々を対象に「東京にいて世界宣教」ができる大チャンスだったのです。それがコロナにより、海外観客の入国は禁止、国内でも無観客となり、大変な制限下での伝道を迫られました。それでも路上でオリンピック伝道小冊子を仲間たちと配ることができました。最低限でも「種まき」ができたこと感謝です。しかし、近い将来、トラクト配布さえできない日々が来るのかも知れません。

 

「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。誰も働くことができない夜が来ます。」(ヨハネ9:4)

 

時代は反キリストの「闇の力」がこの世を覆う、大艱難時代に向かっています。聖書の価値観や倫理観に固執するクリスチャンは批判の対象になっていくでしょう。人間の知恵によるGood without God (神なしの善)が好まれていきます。伝道活動は、ますます困難になっていくでしょう。

 

当たり前が当たり前でない日を、すでに体験しています。将来、さらに制限のある日々が来ることが予測されます。そう考えると、「今」できることをしっかりやること。「あの時はできたのに・・」と後悔しないよう、「やれることをやる」必要性を痛感しています。

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年10月14日木曜日

聖書が分かるようになる7つの視点(4)

  

今回、最後の2つのポイントを取り上げます。

 

6. 聖書の背景・文脈を大切にして読む

当たり前の事ですが、聖書の各書は、どの時代に、誰が誰に対して何の目的で書かれたのかをわきまえて読む事です。例えば、マタイ24:16は、「ユダヤにいる人」に対して「山へ」逃げなさいと言っているのであって、山の無い地域の人々には適応できないのは明瞭です。AD70年のローマ軍のエルサレム侵攻の時と終末時の反キリスト軍がエルサレムに攻め入る時のことであり、日本には適応できません。またイエス様が12弟子を宣教に遣わした時の指示(マタイ10:5−10)も、当時のユダヤの特別な状況下であって、いつの時代にも「宣教に出る時は、金を持って行くな」という普遍的な指示としては適応できません。

 

マタイではメシア王国としての「神の国」が大きなテーマです。マタイは基本的にユダヤ人向けに書かれています。ユダヤ人は「神」という言葉を恐れ多くて使いたくないので、「神の国」のことを「天の御国」と言い換えています。そういう背景があるのです。

 

またマタイ23:23でパリサイ人が香料の10分の1を捧げる話が出てきます。イエス様ご自身が、10分の1をおろそかにしないようにと言っていますが、これは十字架前の話でパラダイム的には、まだ旧約です。モーセ律法が生きています。これをもって、十字架以降の私たちの教会の十一献金の根拠にすることはできません。新約の献金基準はIIコリント9:7「心で決めた通りにしなさい。」です。旧約と新約ではパラダイムが変わっていますので、十字架以降の私達が、旧約時代にユダヤ人に対して書かれた律法をそのまま適応することはできません。

 

また聖書の章や句は便宜上、あとで付け加えられたものでオリジナルの聖書にはありません。前章からの流れを大事にして読む必要があります。前後の文脈から読み解くことが大事です。「おみくじ的」読み方はいけません。文脈、文脈、文脈です!

 

そのようなことに注意を払いながら読むことで聖書がその箇所で本当に伝えたかったメッセージを受け取ることができます。

 

 

ヘブル的背景を理解する

イエスも12弟子もユダヤ人。ユダヤ文化の中で育ち、生活していました。旧約時代のユダヤ人の例祭は新約的意味があります。子羊イエスが贖いの犠牲として十字架にかかるのは「過越の祭り」の最中でなければならなかったのです。イエスは朝の9時に十字架にかけられましたが、その時間、神殿では羊の血が流され、犠牲が捧げられていたのです。「五旬節」(ペンテコステ)は、もともとシナイ山でモーセが神から律法を頂いたことを記念するものですが、新約的には聖霊によって書かれた内なる律法を表しており、その聖霊が注がれるのは「五旬節」だった訳です。「仮庵の祭り」は出エジプトと荒野での放浪、そして約束の地であるカナンへの希望を祝うのですが、それはメシア王国=千年王国の約束につながります。イエスが「仮庵の祭り」の最中に「生ける水の川」の話をしたのは、エゼキエル書47章の「メシア王国」でエルサレムが世界の祝福の中心となり、生ける水が神殿から流れ出て、世界を豊かに潤す姿が重なっている訳です。




         今日、私たちも「聖餐式」をしますが、これは最後の晩餐の「過越の食事」を踏襲してい
         ます。ユダの裏切りに関して主は「わたしと一緒に手を鉢に浸したものがわたしを裏切り
         ます」(マタイ26:23)と言いましたが、これは過越の食事の前菜として、パセリを
         塩水に浸して食べる儀式があって、数名に1つの鉢が置かれていたことを理解していると
         光景が目に浮かびますね。つまりユダはイエスの隣にいたということになります。過越の
         「種無しパン」を食べる儀式は「アフィコーメン」と言われ、食卓に布にくるまった3枚
        のパンが用意されます。3枚のパンは三位一体を表しますが、その真ん中のパン(子なる
        神=イエス)だけが取り出され、2つに裂かれ(十字架の死)、まず半分だけが食されま
        す。そして、メインコースが終わると、後の半分が出され食されるそうです。まるでイエ
       スの初臨(受難のメシア)とイエスの再臨(終末時)を表しているようですね。「種なし
       パン」は、もちろん罪なきイエスを象徴しています。このパンには筋や小さな穴があり、
       それらは、イエスのむち打ちの跡、イエスを刺した槍や釘の跡を象徴しています。こうし
       てユダヤ文化の背景を知ると、聖書の理解が深まります。

 

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参考資料

ハーベストタイム・ミニストリーズ出版

クレイ聖書解説コレクション「マタイの福音書」

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執筆者:栗原一芳

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2021年10月7日木曜日

聖書が分かるようになる7つの視点(3)


前回までで、「聖書は世界観、歴史観を提供する」「聖書66巻は救いのストーリー」「聖書を解く鍵〜神の国を理解する」を取り上げてきました。今回はその続きです。旧約、新約をベタに読むのではなく、キリストの十字架で大きなパラダイム変換があったことを理解することの重要性です。時代は変わったのです。

 

4.  「新しい契約」の理解

神は契約の神です。モーセの律法にみる「古い契約」=「旧約」と、キリストの律法である「新しい契約」=「新約」の違いを理解する必要があります。人類の歴史はBC (Before Christ)ADAnno Domini)、キリスト以前とキリスト以降で分かれています。十字架と復活により、旧約時代から新約時代へとパラダイムシフトしたのです。分かり易く言えば、旧約は「メシア到来預言編」、新約は「メシア到来成就編」といってもいいでしょう。時、至ってキリストが来られました。罪なき子羊、キリストの十字架により「完全」、かつ「永遠」の贖いが成就されました。旧約の動物犠牲では達成できませんでした。(使徒13:38−39)ヘブル書全体はこのテーマで詳細に書いています。それはモーセ律法からキリストの律法(愛の律法)への転換でもありました。旧約の律法は陰であり、本体であるキリストが来られたのです。(コロサイ2:16−17、ルカ16:16)十字架以降は、律法を持たない異邦人に対しての扱いも変化しました。「今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30)

 

今日、キリストにある者は613の規定からなるモーセの律法の下にはいません。旧約の律法をそのまま現代のクリスチャンに適応することはできません。(使徒15:28−29)律法による外からの規定ではなく、内なる聖霊による神と人への愛を動機とする新しい歩みが可能となったのです。旧約では全ての信者に聖霊が宿っていた訳ではありません。ペンテコステ以降は信じる全ての者に聖霊が注がれます。十字架の死で、至聖所への幕は裂け、クリスチャンは「アバ父」」と呼んで父なる神に近づけるようになりました。全ての信者が祭司です。特権階級はいません。また、十字架により、サタンの敗北は決定され、現在、戦いはあっても勝利を確信して前進できる希望が与えられています。このように十字架以降、大変化が起こっています。

 

ちなみに、十字架前の地上でのキリストの生涯は、まだ旧約の律法が生きている時代であることを認識しておく必要があります。その期間は、キリストご自身、モーセ律法を守っておられました。(安息日やユダヤ例祭の遵守など)

 

5.  福音書の分水嶺:ベルゼブル論争

「ベルゼブル論争」を理解することがイエスの生涯、その後のイスラエルの方向性を知る上で大変重要です。マタイ12:22から始まる悪霊に憑かれ目が見えず、口もきけない人の癒しの場面です。当時、口のきけない人の癒しはメシアのみが成せる奇跡と考えられていました。これを為したイエスを見て、驚嘆した人々は「この方はダビデの子(メシア)ではないだろうか」とパリサイ人に問うています。それに対しての彼らの答えは「悪霊どもベルゼブルによることだ。」(マタイ12:24)だったのです。イエスは、神の力で悪霊を追い出したのです。(マタイ12:28)しかし、この奇跡を目撃し、この奇跡を為したメシアを目の前にしながら、このお方を「悪霊」呼ばわりした宗教指導者の罪は実に重いと言わざるを得ません。「神」を「悪魔」呼ばわりしたのです。これはイスラエルが国家として正式にメシアを拒否したことになります。その後も一貫して宗教指導者の態度は変わらず、最後はイエスの死刑を決定してしまうのです。それは御霊に対する冒涜であり、赦されない罪です。(マタイ12:31−32)ただし、これはその時代の、その世代のイスラエルに対して言われたことであり、今の私たちには適応されませんのでご心配なく。この罪のためにAD70年、ローマ軍の侵攻により、エルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人は世界に散らされてしまうのです。裁きは下りました。(マタイ27:25)




さて、ベルゼブル論争以来、イエスのミニストリーも方向転換します。公のミニストリーから弟子の訓練にフォーカスが移るのです。癒しは信仰を持っている「個人」への癒しとなり、説教は、「喩え話」を用いるようになり、信仰持って聞く人しかわからないメッセージになっていきます。また国家としてメシアを否定したので、イスラエルへの「御国」の到来は延期され、福音は、異邦人にも伝えられ「奥義としての御国=教会」は、異邦人世界を中心に展開してゆくことになります。(使徒13:46)最終的に艱難時代の伝道を通してイスラエルの霊的覚醒が起こり、キリストの地上再臨直前にイスラエルの国家的回心が起こります。イスラエルの復興(使徒1:6)としての「神の国」は、キリスト来臨後の「千年王国」で成就します。

 

(続く)

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おすすめ動画

「十一献金は必要?」「礼拝は日曜でないといけない?」など痒いとことに手が届くテーマを「律法の時代」と「恵の時代」の違いを説明しつつ分かりやすく解説しています。シンガポール日本語教会の松本章宏牧師によるYoutubeメッセージ

 

https://www.youtube.com/watch?v=pogcnKrRXaM

 

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