今回、最後の2つのポイントを取り上げます。
6. 聖書の背景・文脈を大切にして読む
当たり前の事ですが、聖書の各書は、どの時代に、誰が誰に対して何の目的で書かれたのかをわきまえて読む事です。例えば、マタイ24:16は、「ユダヤにいる人」に対して「山へ」逃げなさいと言っているのであって、山の無い地域の人々には適応できないのは明瞭です。AD70年のローマ軍のエルサレム侵攻の時と終末時の反キリスト軍がエルサレムに攻め入る時のことであり、日本には適応できません。またイエス様が12弟子を宣教に遣わした時の指示(マタイ10:5−10)も、当時のユダヤの特別な状況下であって、いつの時代にも「宣教に出る時は、金を持って行くな」という普遍的な指示としては適応できません。
マタイではメシア王国としての「神の国」が大きなテーマです。マタイは基本的にユダヤ人向けに書かれています。ユダヤ人は「神」という言葉を恐れ多くて使いたくないので、「神の国」のことを「天の御国」と言い換えています。そういう背景があるのです。
またマタイ23:23でパリサイ人が香料の10分の1を捧げる話が出てきます。イエス様ご自身が、10分の1をおろそかにしないようにと言っていますが、これは十字架前の話でパラダイム的には、まだ旧約です。モーセ律法が生きています。これをもって、十字架以降の私たちの教会の十一献金の根拠にすることはできません。新約の献金基準はIIコリント9:7「心で決めた通りにしなさい。」です。旧約と新約ではパラダイムが変わっていますので、十字架以降の私達が、旧約時代にユダヤ人に対して書かれた律法をそのまま適応することはできません。
また聖書の章や句は便宜上、あとで付け加えられたものでオリジナルの聖書にはありません。前章からの流れを大事にして読む必要があります。前後の文脈から読み解くことが大事です。「おみくじ的」読み方はいけません。文脈、文脈、文脈です!
そのようなことに注意を払いながら読むことで聖書がその箇所で本当に伝えたかったメッセージを受け取ることができます。
ヘブル的背景を理解する
イエスも12弟子もユダヤ人。ユダヤ文化の中で育ち、生活していました。旧約時代のユダヤ人の例祭は新約的意味があります。子羊イエスが贖いの犠牲として十字架にかかるのは「過越の祭り」の最中でなければならなかったのです。イエスは朝の9時に十字架にかけられましたが、その時間、神殿では羊の血が流され、犠牲が捧げられていたのです。「五旬節」(ペンテコステ)は、もともとシナイ山でモーセが神から律法を頂いたことを記念するものですが、新約的には聖霊によって書かれた内なる律法を表しており、その聖霊が注がれるのは「五旬節」だった訳です。「仮庵の祭り」は出エジプトと荒野での放浪、そして約束の地であるカナンへの希望を祝うのですが、それはメシア王国=千年王国の約束につながります。イエスが「仮庵の祭り」の最中に「生ける水の川」の話をしたのは、エゼキエル書47章の「メシア王国」でエルサレムが世界の祝福の中心となり、生ける水が神殿から流れ出て、世界を豊かに潤す姿が重なっている訳です。
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参考資料
ハーベストタイム・ミニストリーズ出版
クレイ聖書解説コレクション「マタイの福音書」
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執筆者:栗原一芳
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