天と地の全ての「権威」を持つ王なるイエス
「舟の右側」3月号に掲載されたフェイスバイブルチャーチの武田考平牧師の「福音による教会形成」第15回「福音と大宣教命令(3)は大変、興味ふかい記事だった。初頭で、アメリカでも日本でも「大宣教命令」の強調が薄れてきていることを指摘する。それは福音がストレートに語られなくなっている事を意味する。また、新しい視点として、ダニエル7:14との比較で、マタイ28:18−20共々、主権、権威(エクソーシア)が使われ、力(デュナミス)ではないことを指摘している。そして、こう結論付ける。
「このように両箇所の言語とテーマが類似するだけではなく、」論理も類するとすれば、マタイの大宣教命令における権威と派遣のロジックは、次のようになる。『イエス・キリストは天と地のすべてに及ぶ権威を有するため、すべての国と人々はイエスに従わなくてはならない。それゆえ、すべての国と人々のところへ出て行って、イエスに従う弟子をつくりなさい。』これに基づくならば、マタイの大宣教命令は、まさに神の御国の拡大を命じるものである。
「天においても、地においても一切の権威を持つ」とは、宇宙の主 (The Lord of the universe) ということだ。もっと正確に言うと、天界においては天的存在物(エロヒーム)のトップに立つお方。地上界においては「王の王」。全ての権威の源であり(ローマ13:1)、全ての権威を持つ方なのだ。創造主が全ての権威を所有するのは当然だろう。全宇宙に階級秩序があるとすれば、キリストは、その頂点に座すお方。天においても地においても一切の生き物は、このお方の前にひれ伏すべきなのだ。(黙示録5:13)
伝道にも「御国」成就の視野が必要
今まで自分も伝道に出て行く時、神の「力」が背後にあるのだから「大丈夫」と思って出て行くのだと解釈していた。つまり伝道の「力」として理解していたのだ。しかし、「力」より「権威=地位や所有」を表すエクソーシアが使われている。これは当時、使われていた「福音=ユーアンゲリオン」の意味、「王の即位の喜ばしきニュース」とも合致する。千年王国では100%これが成就するが、(黙示録11:15)今から「新しい真の王」への忠誠を誓う人々を呼び起こすため出て行くという事だ。誰かが救われて、個人的に幸せになり、天国に行くのは嬉しいが、伝道には、この御国のパースペクティブ(視点)が必要なのだ。バプテスマのヨハネもイエスも「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣教した。(マタイ3:2、4:17)
戦争を終わらせるメシア
主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
(イザヤ2章4節)
この聖句は、ニューヨークの国連本部の壁に刻まれている。戦争を終わらせるのは神ご自身。最後に裁きを下すのは神ご自身。その裁きは絶対に公平で正しい。イエスは「地の王たちの支配者」なのだ。全ての民が最終的権威である王なるイエスの下にひれ伏すしか、最終的な解決は無い。それまでは地の王たちの力の支配闘争は終わらない。
また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。
(黙示録1:5)
主がすべての戦争を終わらせた後、この光景が、千年王国にて見られるだろう。
エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。
(ゼカリア14:16)
すべての人は罪を犯した
今日のロシアによるウクライナ侵攻を見る時、人の罪を思わざるを得ない。第二次世界大戦が終わった時、学んだのではなかったか?ベトナム戦争の泥沼化の中で、学んだのではなかったか?沢山の反戦歌が歌われ、若者の間に平和運動が起こった。二度と戦争はしないと。残念ながら人類は歴史から学んでいない。21世紀になってもミャンマーで、香港で、他の国々で、力による弾圧や侵攻が起こっている。今はロシアが「悪者」、欧米が「善人」となっているが、歴史を見るとそう簡単では無い。英国も、インドを植民地化し、アヘンで中国を支配した。アメリカも、日本に原発を2発投下し、東京大空襲で無差別攻撃を行ない民間人10万人が犠牲となった。また、ありもしない大量破壊兵器を大義名分にイラク戦争を起こした。ドイツはユダヤ人大虐殺を行った。時代によっては今の「善人」は「悪人」でもあった。つまり、人は皆、罪人なのだ。一貫して正しい国も、正しい人もいない。
「全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず・・」
(ローマ3:23)
福音には「神の義」が啓示されている
福音には「神の義」が啓示されている。(ローマ1:17)そこから始めないと福音の本当の意味が分からない。罪に対して神の怒りが燃え上がる。神に従わないイスラエルに対しての神の態度はこうだった。
それで主の怒りがこの地に向かって燃え上がり、この書に記されたすべてののろいが、この地にもたらされたのだ。主は怒りと憤りと激怒をもって彼らをこの地から根こそぎにし、ほかの地に彼らを投げ捨てられた。今日のとおりに。
(申命記29:26−28)
今日、誰も「神の義=神のスタンダード」の前に義とはされない。(ローマ3:10)そこには達しない。皆、脱線している。軌道を逸脱している。それが罪(的外れ)の意味だ。「人の義」は「神の義」を達成しない。イエスを信じることによってのみ、「神の義」が人に付与される。(ローマ3:22)人類は神の怒りの下にある旧人類(罪人)か、福音を信じて神の義が付与された新人類(聖徒)かに2分される。民族、文化、人種により分割され、抗争するのでは無い。ロシアにもウクライナにも、主イエスを信じるクリスチャンたちがいる。彼らは1つ神の家族であり、兄弟姉妹なのだ
なぜ、神は悪を止めない?
なぜ、神は悪を止めない? なぜ今、裁きを行わない? そう質問する人がいるだろう。今、裁きを行えば、質問している「あなた」も裁かれるからだ。義人はいない、一人もいないのだ。神の義に達する人はいない。あなたも罪の結果である滅びを受け取ることになる。(ローマ6:23)人類歴史が始まって以来、妬み、殺人、盗み、賄賂、不倫、姦淫、戦争、虐待・・・が後を断たない。人類は歴史から学ばない。私が小学校の時に、政治家の賄賂がニュースになっていた。今日も目の当たりにしている。小学校の時、ベトナム戦争があった。今日も戦争を目の当たりにしている。そして、将来も続くのだろう。人が神を離れ、自分の悟り、自分の知恵に頼る限り。人に傲慢と自己中心という罪がある限り悲惨な出来事は続く。神はむしろ、一人でも悔い改めることを願い、裁きの日を延ばしておられるのだ。
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
(第二ペテロ3:9)
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。
(IIペテロ3:15)
福音は、単なる道徳や知識ではなく、救いを得させる神の「力」。人生を変革する「力」。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる。(ローマ1:17)「人の義」=宗教・哲学・修行では到達できない「神の義」が信仰によって、付与される。(ローマ3:24、3:28)
そして、福音のスコープは個人の救い(義認=霊の救い・聖化=魂の救い・栄化=体の救い)に留まらず、被造世界全体の「癒し」と「回復」である。人類は産みの苦しみの時期を通るが(ローマ8:22)、最終的には王なるキリストが再臨し、悪を滅ぼし、地を回復し、自らが王として、この地を治める千年王国が実現する。(黙示録20:4)さらに白い御座の裁きを経て、新天新地を創出される。(黙示録21:1)それゆえ、福音を恥とせず、宣べ伝え続けるのだ。
私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。 (ローマ1:16)
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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