2022年4月7日木曜日

クリスチャンの寿命?

主の命で死んだモーセ


最近、人生100年と言われ、またアンチエイジングがもてはやされ、確かに歳より若く見える人が増えてきました。

 

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。  (マタイ6:27)

 

イエス様はこのように言われました。もちろん、健康管理やセルフケアは大事です。神様に頂いた体をよく「管理する」ことは必要です。しかし、実は、私たちの地上の生涯(寿命)は神が決めることで、私たちが延ばせるものでもないのです。

 

興味深いですね。モーセは主の命令で死んだのです。

 

こうしてその場所で、主のしもべモーセは主の命によりモアブの地で死んだ 

                                                                              (申命記34:5)

 

主ご自身がモーセの埋葬をしたほど、主に特別扱いされたモーセですが、約束の地に入る手前で召されました。聖書ははっきり「主の命により・・・死んだ。」と書かれています。興味深いのは、モーセは病死ではなく、いたって健康だったという事です。

 

モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。          

                                                                              (申命記34:7)

 

病気で死んだのではなく、モーセは地上での役目が終わり、天に召されたということです。エノクやエリヤは地上の役目が終わったので、健康なまま、生きたまま天に上げられましたね。

 

また、霊的に言えば、律法(モーセ)では、約束の地には入れず、救い主イエス(ヘブル語ではヨシュアとイエスは共に、「イエシュア」で同じ発音)への信仰で約束の地の安息に入ることを意味するとも言えます。(ヘブル4:8)

 

 

主は与え、主は取られる

クリスチャンの寿命は、命の主が決めること。クリスチャンは全く異なった「生死観」を持っています。世界観は究極、2つしかないのです。神なしの「偶然」か、神による「摂理」か。神を中心とした世界観では、すべては神のご計画ということになります。

 

そして、神のご計画であれば、それは、良いことなのです。パウロは生きることはキリスト、死ぬことも益と告白しています。(ピリピ1:21)世の人にとって「死」は悪いことであり、死ぬことが「益」とは思わないでしょう。パウロは「世を去ってキリストと共にいる方が、はるかに望ましい。」とまで言っています。(ピリピ1:23)クリスチャンにとって、地上生活は、「旅人」、「寄留者」という意識です。(ヘブル11:13)死ぬことは天の都への帰還なのです。(ヘブル11:16)そして、死者は朽ちないものへよみがえるのです。(Iコリント15:52)ですから望みのない世の人々のように、悲しむ必要はないのです。(Iテサロニケ4:13)「死んだ人」ではなく「眠った人」という言い方もされています。(Iテサロニケ4:13)死んではいないからです。

 

もう一度言いましょう。クリスチャンにとっては「死」は、地上での使命が終わったことであり、次の段階への「移行」に過ぎないということです。あなたの地上での使命は何でしょう?13年カリエスで病床にあった三浦綾子さんは、クリスチャン小説家として使命を果たすまで生かされました。たとい、病気や障害があっても、使命がある限り、生きるのです。役目が終わると「天に戻って来なさい!」との声がかかり、天に戻されるのです。失うものは何もありません。

 

パウロは地上にいるのは、自分の存在が、皆にとって意味があり、祝福になるからだと言っています。(ピリピ1:24)逆に罪を犯して人々の迷惑になるくらいなら居なくなった方がいいという考えもあります。CCCの創立者のビル・ブライト博士は、「もし私が罪を犯して、周りに迷惑をかけるような事になるなら、その前に召してください。」と祈っていたそうです。

 

死んでいないモーセ

エノクやエリヤは、生きたまま天に挙げられたので、もちろん、生きています。

主の命で、地上の生涯を終えたモーセは、主ご自身により葬られました。(申命記34:6)ところが変貌山の事象が起こった時、モーセはエリヤと共に現れ、イエスと会話しているのです。(マタイ17:3)モーセは生きていました!聖徒にとっては、死とは地上での使命が終わり、天に移される(移動)ことであり、消滅ではありません。存在する場所が変わるだけです。神にあってアブラハム・イサク・ヤコブも生きています。(マタイ22:32)

 

変貌山での体験は興味深いです。ここには預言的な意味が含まれています。モーセ(旧約の代表)、エリヤ(携挙された教会)、ペテロとヨハネとヤコブ(患難時代、地上にいる聖徒たち)この3種類の聖徒たちが、千年王国で、栄光の王、イエスを拝するようになる予表でもあるのです。

 

再会する兄弟姉妹

よくクリスチャンが言うフレーズに「地上で会えなかったら、天国で会いましょう!」というのがありますね。私達は地上の使命が終わり、天に移される(死ぬ)か、空中再臨があれば、生きたまま天に上げられるか(携挙)です。患難時代にクリスチャンになり、生き残っている人々は、そのまま千年王国に入るでしょう。旧約時代の聖徒たちも蘇って千年王国に入ります。そして、そのあとの新天新地でも、聖徒達は一緒です。イエスにある兄弟姉妹は、永遠に、ずっと一緒です。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

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