2022年9月29日木曜日

神のかたちに造られた


人間は「神のかたち」

王は反抗するものを処罰し、軍隊を指揮し、国を拡大し、国民に対しての命令やルールを設定します。王の命令となれば、従うのです。王はかなりの「権限」を持っていることは確かです。エジプトの王はイスラエル人を奴隷に使って巨大建築物を建設しましたね。王は、自分の願うように町つくり、国つくりもするのです。

 

神は「王の王」です。天地を創造し、その中に生き物を創造されました。世界を創造し維持しておられます。そして、神は被造物の頂点として「人間」を創造しました。

 

ユニークなのは「神のかたちに」人を創造されたことです。(創世記1:27)

 

この地上で「神のかたち」に創造されたのは「人間」だけです。また「神の似姿」(創世記1:26)とも書かれています。神の「そっくりさん」です。

 

これは大変なことです。私達は、神のように無限では無いけれど、「神」のような存在だということです。神は「王」なのです。私達も「王」だということです。少しはセルフイメージ上がりましたか?そうです。聖書はそう言っているのです。あなたは神の「生き写し」なのです。あなたを見て、神を知るように造られているのです。私達は神の栄光なのです。あなたはどれくらい自覚しているでしょうか?

 

知恵の実を食べた結果

王の役割を覚えていますか?そう国を統治することです。私達、人間はこの地球を統治する「神の代理人」なのです。アダムとエバはその使命を頂き、畑を耕し、動物に名前を付け、仕事を始めていました。順調にいったかと思いきや、喋るヘビに誘惑されて、統治の方法を神との関係の中で進めるより、自分の知恵に頼ることを選びました。「知恵の実」(りんごではない!)を食べたとはそういう意味です。

 

その結果は惨憺たるものです。エデンを追われてすぐカインはアベルを殺してしまいます。世界を治めるどころか、兄弟関係さえ治めきれず、世界最初の殺人を犯してしまいます。ノアの時代には地には暴虐が満ちている状態でした。地を平和に治める事に失敗してしまいました。神はこの世界を一掃し、ノアの家族にもう一度、チャンスを与えますが、ハムの子孫、ニムロデは神に挑戦するようなバベルの塔を建て、バビロンで異教の神々を生み出していきます。こうして世界には偽りの神々がはびこり、殺戮、暴虐、不正がはびこっていきます。人類が2回の世界大戦をやらかし、核爆弾を含む、多くの犠牲者を出したことは記憶に新しいですね。そうして、今まさに、世界経済フォーラムでは、神を無視した「グレート・リセット」を自分たちの知恵で行おうとしています。命の実=キリストを食べずして、知恵の実でやろうとする限り、歴史が証明するように失敗するのです。愛と正義による統治ではなく、最後は独裁と監視と圧力による統治となるのです。

 

「神のかたち」を作るな

十戒には「神のかたち」を作るな、とあります。どうしてでしょうか、すでに「神のかたち」を持った存在がいるからです。つまり「人間」です。その他に

「神のかたち」を作ることは必要ないし、それは偶像となるのです。

 

本来、「神のかたち」であり、神の代理人である人間が、正しくこの地上を管理、統治すべきなのです。それには「神の知恵」が必要です。この世界の創造者に聞かなければなりません。故障した時、製造したメーカーに持っていかなければならないでしょう。同じことです。今は人間関係も、社会も、国の関係も故障しています。的外れ状態(罪)です。これを正すには、まず創造主との関係を正すことからです。

 

ダビデとサウロは統治の仕方が全く違いました。ダビデは神に尋ねたのですが、サウロは「主に尋ねることをしなかった」(I歴代誌10:14)ので、イスラエルの統治に失敗し、神に退けられてしまいました。これが「知恵の実」の結果です。

 

「新しい人間」の役割

クリスチャンは、単に教会のメンバーになったのではありません。キリストを通して再び、創造主と繋がった者たちです。創造者の意図したオリジナルなプランが知らされています。御霊が与えられており、神の御心を知ることができる者たちです。キリストのマインドを持っているのです。(Iコリント2:16)

 

「王の王」と繋がりながら「王」として、王の代理人として、この地を治める者たちです。御霊によって生まれ変わった者たち(新人類)は新しい価値観(御霊の実)によって生きます。間違った人生観を正します。人生の目標は「神と人を愛すること」だと知らせます。エデンの外に生きる人々に、もう一つの世界があることを知らせます。愛と希望があることを知らせます。エデンに戻る方法を教えます。やってくる千年王国は、エデンの園の回復とも言えるでしょう。

 

神の代理として、王なる祭司(Iペテロ2:9)として神のプランを、この地に実践します。天と地をつなぐ働きをします。これこそ「御心が天になるように、地にも成させ給え」の実践です。神は私達を使うのです。私達がこの祈りの答えでもあるのです。エデンでは天と地は融合していました。神が園を歩いていたからです。今は分離し、この地は、空中の権威を持つ支配者(サタン)に牛耳られています。しかし、やがてサタンは滅ぼされ、千年王国では、私達が、キリストと共に「王」として統治します。(黙示録20:6)新天新地では天と地が再び、完全に融合します。ともあれその希望を持ちながら「今」は、この地上で「王の見習い人」として地を治めていくのです。

 

あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。

                        (ホセア10:12)

 

最終的には主が再臨し、義を持って地を治めます。だからと言って、今、何もしないのではなく、神の代理人として地上で「義」と「誠実」を実行し、耕地を開拓するのです。「耕地を開拓」とは人が手を入れ、さらに良いものに、実りあるものにするということです。そして、主を求めながら(主の知恵を頂きながら)開拓するのです。このことは、私たちの生活全領域に当てはまります。

 

地を治めるって?

まず、マインドセットを確認してください。まだ「奴隷マインド」ですか?それとも「王様マインド」ですか? あなたはもう「罪人」ではありません。死と罪の奴隷から解放されて自由にされています。(ガラテヤ5:1、ヘブル2:15)あなたは、「神の子供」(ガラテヤ3:26)です。「聖徒」です。神は私たちの味方です。私たちは神の側(ハレルヤサイド)にいます。(ローマ8:31)それなら、誰が私たちに敵対できるでしょうか?「自分はどうせ・・」と卑屈にならないでください。あなたは「神の似姿さん」です。そして、私たちは御国の相続人であり、キリストと共に共同相続人なのです。(ローマ8:17)御国を相続することが約束されている者だからこそ、今のこの地を正しく治める権利と責任があるのです。

 

具体的には何ができるのでしょう。

 

とりなしの祈り

まずは「王なる祭司」(Iペテロ2:9)として執り成しの祈りをすることができます。あなたは、天と地を結ぶ役割ができるのです。「イエスの御名」によって創造主に、祈り課題を持っていく特権が与えられているのです。特権を使ってください。この日本で、あなたが祈らなければ、誰が祈るのでしょう。総理大臣のため、天皇のため、都知事のため、大学の先生や生徒のため、メディア、マスコミのため、社会問題や家族のため、そして、日本にある教会のため、人々の救いのため・・・あなたは特権階級なのです。「王の王」に話ができるのです。

 

「神と人を愛して」日常生活をする 

また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。  Iテサロニケ4:11−12)

 

パウロは一方で主の再臨を強調していながら、一方では落ち着いた「日常生活」をするように勧めています。これは大切なことです。神がこの地上で与えられた人生の時間の中で、仕事をし、結婚して子供を産み、育て・・家を建て、道路を作り、町を作り、人々に貢献していくこと。そのような日常生活を地道に生きることは神の栄光を表すことです。地を治めるとは大それたことではなく、「神と人とを愛して」日常生活をすることなのです。

 

仕事自体、神からの召しです。今は残念ながら職場は理想とは程遠い「的外れ」状態かも知れません。しかし、仕事や労働環境自体も将来、贖われるのです。その青写真を持って仕事をすると態度が変わってきませんか?

 

世界は「エデンの園」の回復に向かっています。日常生活をしながら、「もう1つの世界」があることを証ししていきます。

 

クリエイティブに生きる

「神のかたち」のユニークなところは「創造性」でしょう。人間はただ、衣服を着るのではなく、ファション性を重んじます。ただ食べればいいのではなく、さらに美味しく料理します。料理は立派な創造的活動です。素敵なデザインの建築、そして、街全体をデザインすることもできます。色々なスポーツを編み出し、能や踊りなどの身体的表現アートもあります。音楽、ストーリー、画像を見事に組み合わせた「映画」という創造的な総合芸術もあります。人々は常に新しいカルチャーを生み出してきました。クリエイティブに生きることは神の栄光を表すことです。創造主を反映させた生き方です。これも地を治める1つのあり方ですね。残念ながら多くの人は、肉に従って創作活動をしています。それによって承認欲求を得たり、自己誇示したりします。だからこそ、「今が主を求める時」なのです。本来の目的(神に栄光を帰す)に沿って才能を開花させていければ素晴らしいですね。

 

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参考資料

 

神の形 バイブルプロジェクト

https://www.youtube.com/watch?v=2MKGZd9myGI

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

2022年9月22日木曜日

聖書はキリスト教の経典ではない!?

 

「聖書はキリスト教の経典ではない」と言ったらびっくりされるでしょう。しかし、聖書はキリスト教という「宗教」のしきたりについて書いている本ではありません。また、イスラエル人のための書でもありません。どうしてでしょう? 聖書が創世記1:1から始まっているからです。

 

はじめに神が天と地を創造された。

 

この時点ではキリスト教も、仏教も、イスラム教もありません。創造主がこの世界を創造されたということです。そして・・・

 

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:27)

 

神はクリスチャンを造ったのでもなく、仏教徒を造ったのでもありません。この時点ではユダヤ人もいません。神は人を造ったのです。

 

聖書は神と人類との話なのです。

 

神がアブラハムを選ぶのは創世記11章に入ってからであり、「イスラエル」という言葉も創世記32:28でようやく出てきます。それまでは「人類」の歴史なのです。聖書は創造主なる神から人類へのメッセージなのです。

 

 

神は諸国の王

確かに「イスラエルの神」と表記されることもありますが、基本的にはそのスコープは世界的です。以下はダビデが啓示を受けて書いた詩篇です。3000年も前に書かれた書が現代へのメッセージとして強く響いてきますね。

 

しかし、主はとこしえに御座に着きさばきのために、王座を堅く立てられた。主は義によって世界をさばき、公正をもってもろもろの国民をさばかれる。

                           (詩篇9:7−8)

 

 

主よ立ち上がり人間が勝ち誇らないようにしてください。国々が御前でさばかれるようにしてください。主よ、彼らに恐れを起こさせ国々に思い知らせてください。自らが人間にすぎないことを。 (詩篇9:19−20)

 

このように神が諸国の王(裁き司)であることが明記されています。天に閉じ込められている方ではなく、人間の歴史に介入なさるのです。そして、この神は三位一体の神なのです。従って御子キリストも諸国の王です。

 

また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。

                          (黙示1:5)

 

普遍的な救いの提供

「聖書はユダヤ人が作り出したユダヤ人の救いのための書だろう。」と言う人がいるかも知れません。しかし、旧約聖書にはすでに世界の救いが啓示されています。神は恵みの手段としてイスラエル民族を選びました。それは事実です。しかし、それは国々を祝福するためなのです。福音には「ユダヤ性」と「普遍性」が共に表されているのです。古くはアブラハムへの約束に現れています。

 

地のすべての部族は、あなたによって祝福される。(創世記12:3)

 

また、イザヤ書の中でイスラエルを用いて「世界」に救いが及ぶことが、明確に語られています。

 

わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。 イザヤ42:6)

 

主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。(イザヤ49:6)

 

主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。 (イザヤ52:10)

 

実際、神は外国であるアッシリアのニネベにヨナを送り、救いのメッセージを語らせたのです。これは世界宣教の雛形です。

 

 

諸宗教との付き合い

そうすると諸宗教をどう考えればいいのでしょう。これは難しい問題です。どの宗教の「人」でも、それは神に造られた尊い存在であり、その人権を尊重しなければいけません。どの人も神から命を頂いています。しかし、その「教え」は、そのまま受け入れるわけにはいかないのです。一般には「比較宗教学」というのがあり、すべての宗教を並列にまな板の上に置いて、解剖して比較します。「キリスト教」という「宗教」は、そこに乗っけてもいいでしょうが、聖書の真理は、他の宗教の内容と同等には置けないのです。それは人の作品ではなく、神の「啓示」だからです。(IIテモテ3:16、ガラテヤ1:11−12)

 

創造主なる神が人を造ったのです。その時点ではキリスト教も仏教もありません。神は「人」を造ったのです。人が「知恵の実=自分をすべての判断基準にする」を選んだ結果、神を離れ、その知性は暗くなり、サタンの影響を受けやすくなったのです。ニムロデはサタンを真似て神のようになろうとバベルの塔を建て権力を誇示しようとしました。あの事件以来、人は世界に離散していきますが、それに伴い諸宗教を生み出していきます。聖書的には諸宗教は罪の結果なのです。(ローマ1:19−23)パウロは、偶像礼拝は悪霊との交わりであると言っています。(Iコリント10:20)

 

 

急転直下の福音派の神学

多様性を認める世界的動きの中で、諸宗教を同等に認める動きになっていきます。クリスチャンの間においてもそうなるでしょう。すでに以前の記事に書きましたが、WCC(世界キリスト教協議会)では「改心」を迫ることは他宗教に「失礼」なことであり、回心を迫らない選択をしているようです。この方向は、やがて諸宗教を統一していく方向となり、世界統一宗教へ向かうでしょう。福音的なクリスチャンは排他的だと非難されるようになるでしょう。しかし、それは聖書が言っている通りであり、(IIテサロニケ2:3)想定内です。ここの聖句が言っている「背教」とは、もともと信じていた信仰を捨てることです。

 

2022年9月19日のChristianity Todayの調査発表(によると、米国では、福音派と呼ばれる教会の中にも、1)聖書は字義通り正しい訳では無い。(26%)2)神はキリスト教以外の信仰を受け入れる。(56%)イエスは神の被造物である。(73%)3)イエスは神ではない。教師に過ぎない。(43%)4)聖霊は人格的な存在ではない。(60%)5)人は生まれつき罪深いのではない。(57%)というような異端的神学思想が広まっているというのです。(詳しくはこちらを)


https://www.christianitytoday.com/ct/2022/september-web-only/state-of-theology-evangelical-heresy-report-ligonier-survey.html?fbclid=IwAR0vS9Ok0PivFosKRVoK1EuYMpXr3o5e9Y7XB23krRSnd9911lD-6ZTA_Wg

 

聖書の3分の1は「預言的」な書物ですが、アメリカではたった3%の牧師しか「預言」を取り扱った説教をしていないそうです。「トンデモ話」をすると人が教会に来なくなる?そうやって聖書から「超自然」や「預言」的要素を取り除いていくと、結局、聖書は単なる道徳書となってしまいます。キリストの「復活」や「再臨」を除いてしまえば、他の宗教の道徳律と変わらなくなり、合併しやすくなるのです。ここにサタンのそそのかしがあります。現にアメリカやオーストラリアの有名な牧師達がイスラムの神と聖書の神は一緒だから認め合っていこう的な運動を起こしたと聞いています。しかし、聖書の神は三位一体であり、イエスは神なのです。しかし、イスラムではイエスは預言者の一人であり、人間なのです。同じ神でしょうか? 

 

 

聖書が語る諸宗教の行く末

聖書が語る方向は、諸宗教を一致させるのではなく、まことの神に立ち返ることです。「御前に来たれ」が方向性です。そもそも創造主を離れたところから諸宗教が発生したのです。(ローマ1:20−23)この創造主は三位一体の神なのです。(ヨハネ1:1−5)だからイエス・キリスト以外に救いはないのです。(使徒4:12、ヨハネ14:6)

 

まことに、どの民の神々もみな偽りだ。しかし主は天をお造りになった。威厳と威光は御前にあり、力と喜びは御住まいにある。もろもろの民の諸族よ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。ささげ物を携えて、御前に来たれ。聖なる装いをして、主にひれ伏せ。  全地よ、主の御前におののけ。まことに、世界は堅く据えられ揺るがない。天は喜び、地は小躍りせよ。国々の間で言え。「主は王である」と。 第一歴代誌16:21−31)

 

「諸国の神々は偽り」と明言しています。むしろ、「すべての国々の民がまことの神の御前にひれ伏すように」と語られているのです。それが聖書の方向性です。「主は王である」とは政治的なフレーズです。世界の王は一人です。イエスは「地の王たちの支配者」(黙示1:5)なのです。世界の王ならば、この方の前にひれ伏す方向性しかないのです。これはメシア王国(千年王国)で成就します。大淫婦に象徴される「霊的姦淫者=諸宗教、あるいは反キリスト的世界統一宗教」は裁かれるのです。(黙示録17章)

 

もう一度言いますが、他宗教の「人」を裁いているのではありません。「人」は

他宗教をやっていようと神の愛の対象です。聖書は神と人の話です。特定のグループの人のためではありません。誰でも憐れみを受けるのです。「今は恵みの時、今は、救いの日です。」IIコリント6:2)今、話題の統一協会だけではありません。多くの人がサタンの偽りの霊に騙され、イエス以外でも救われると信じ込まされているのです。人は憐れむべきですが、その間違った「教え」は受け入れる訳にはいかないのです。その教えは裁かれます。「偽り」だからです。聖書は、人がその造り主である神に戻ろうという話をしているのです。ただ、戻る道はイエス・キリストなのです。

 

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

                         (ヨハネ14:6)

 

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付録記事

パクリの浄土真宗?

先日、「関東大震災」のフィルム映像がyoutubeに上がっていたので、見てみました。震災後、築地本願寺の僧侶の奥さん達がだいぶ被災者支援に貢献したようです。被災した子供達に「我らは仏の子供達」という賛美歌ならぬ「賛仏歌」を教えている場面がありました。何とも言えぬ思いがしました。そもそも慈悲深い仏様や、救ってくれる「阿弥陀様」はどこから来たのでしょうか・

 

元々は、「無神」「無霊魂」の哲学としての仏教でした。これが小乗仏教(ヒナヤーナ)ですね。一人で座って悟りを開く。ただそれだと一般人には、ハードルが高いのです。それで、救い主としての阿弥陀や、天国としての「極楽浄土」の思想が、のちに入り込んできたのです。これが大乗仏教(マハヤーナ)ですね。より多くの衆生を「救い」に導く方法としての教えです。どうしてこんな方向転換ができたのでしょうか?

 

キリストの弟子のトマスがインドに伝道し、その教えが広まり、危機感を覚えた仏教側が、新約の教えをパクリ、「救い主」や「天国」の思想を盛り込んだという説があります。しかも、大乗仏教は紀元1世紀頃始まっているのです。タイミング的にも合いますね。確かに、そういうことでないと、180度の方向転換は説明がつきません。

 

日蓮聖人が広めた「南無妙法蓮華経」は「蓮の花のようなお経に心から帰依する」という意味で、創価学会では「南無妙法蓮華経は、宇宙と生命を貫く根源の法です。」と説明しています。ここでは帰依する対象は「宇宙の法則」であり、非人格です。しかし、「南無阿弥陀仏」となると、阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏さまに呼び掛けて、信じてお願いする、という意味になってきます。阿弥陀如来とは大乗仏教の仏さまであり、「阿弥陀さま」と呼ばれる「人格」を持つお方となっています。その名を唱えることで仏さまへの感謝の気持ちや死後に極楽浄土へ行きたいという願いを伝えられるらしいのです。おばあちゃんが唱える「ナンマイダ」は「南無阿弥陀仏」を略した念仏の仕方でしょう。

 

何れにしても、阿弥陀様は人格を持った「お方」ということになっています。また大乗仏教ではブッダ(悟り人、ガウタマ=シッダールタさん)が神格化され、永遠化されています。大乗は仏陀を俗界を解脱した存在であるとして,釈迦はその超絶した天上の存在が地上に現れた仮の姿であると解釈するというのです。突然、「超絶した天上の存在=神?」が出現します。もともとそういう「お方」はいなかったはずでは? ま、あったほうがやっぱり説明しやすいですよね。それで無神論の体系から、有神論的体系へ大飛躍してしまったのです。これって、何か外からの刺激なしに有り得ることでしょうか?

 

阿弥陀に戻りましょう。そもそも阿弥陀という言葉はアミターバ(無量の光=永遠の光)とアミターユス(永遠の命)という「概念」であり人格ではありません。このことは僧侶であり、小説家の玄侑宗久さんが証言しています。しかも、永遠の「光」と永遠の「命」、どっかで聞いたことのある用語ですね。ヨハネの福音書1章を彷彿させます。

 

キリスト教では

  「主の御名を呼ぶものは皆救われる」のであり、御国が約束されます。

  浄土真宗では

  「阿弥陀様」の名を呼ぶものは皆救われるのであり、極楽浄土が約束されま

す。

 

どちらも行いによらず、「信仰」による救いです。一方は賛美歌を歌い、一方は「賛仏歌」を歌い、一方は「イエスを信じて光の子供」であり、一方は「仏の子供」になるというのです。完全に平行的な構造になっています。どちらかがパクったのではと疑いたくなるのも仕方ないですね。日本人の多くにとっては、心情的にはどちらでもよく、日本人の心情に合う方でいいではないか?西洋ではイエス様、日本では阿弥陀様があるのだから、「これでいいのだ!」となる訳です。しかし、心情的には良くても、真理的にはそうはいきません。阿弥陀様の御名で救われるのでしょうか?そもそも阿弥陀様は歴史的人物ではないし、人格的存在でもないのです。そこを突っ込まないのが日本人の弱さというか、優しさというか・・「真理」より「心情」。そもそも「イワシの頭も信心から」の日本人には「真理」は関係ないのかも知れませんが・・・ここに「偽りの霊」の働きを見るのではないでしょうか?

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2022年9月15日木曜日

愛から解く「罪」という言葉

 

聖書が語る「罪」

ニュースで見る「犯罪」は窃盗、殺人、賄賂・・・など。聖書が言う「罪」とはどういう事だろう。「愛は律法の要求を満たすもの」とパウロは言っている。逆に言えば、「愛さない」ことが律法違反であり、罪なのだ。「愛」が基準となっていることが分かる。

 

姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(ローマ13:9−10)

 

旧約律法でも、イエスご自身が回答されたように、一番重要なのは「神と人への愛」であった。(マタイ22:36−40)新約での「キリストの律法」は、愛が基準になっている。(Iヨハネ3:23、ヨハネ13:34)愛し合うこと(特に主にある兄弟姉妹が)は、やってもやらなくてもいい事ではなく、神の「命令」であると明記されている。

 

実は聖書的「罪」という言葉は奥が深い。「罪」はヘブル語でハター、ギリシア語ではハマルティア。特に宗教的言葉ではなく、一般でも使われていた「失敗する」とか「的を外す」という意味。つまり、目標達成に失敗する事。人は神に造られ、愛され、エデンの園に置かれ、神と共に歩み、調和の中にあった。創造主であり、父である神を愛し、神がパートナーとして創造された隣人を愛する生き方が「あるべき」生き方だった。

 

しかし、サタンに騙され、神の信頼を裏切り、愛することに失敗してしまった。もはや、神との関係は以前のような無垢なものでは無くなった。「知恵の実」について神の問い正された時、アダムはエバにその罪をなすりつけた。夫婦関係が歪んでしまったのだ。その後、カインはアベルに嫉妬し殺人を犯してしまう。今度は兄弟同士で、愛する事に失敗してしまう。このように本来のあり方から「脱線」し、「神と人とを愛する生き方」という目標達成に失敗した人生を送るようになる。人を愛する事と、神を愛することは密接に関係しており、人への罪は、神への罪でもある。(創世記39:9、IIサムエル12:13) 

 

罪の欺瞞性

実は罪の恐ろしいところは自分をも騙してしまうことだ。バベルの塔を建てた世界最初の権力者ニムロデを見てみよう。この世での「成功」=「人生の目標」と思い込み、自分の力を証明する方向に向かっていく。うまくいく程にまんまとサタンの誘惑にハマり、その結果、実のところ「神と人を愛する」という目標から大きくズレてしまうのだ。世で成功していると、自分が「失敗者」だとは気がつかない。これが罪の欺瞞的なところなのだ。そして、金や権力や快楽を手に入れるために、本来、愛すべき人を道具のように「使って」しまうのだ。文字通り人を「奴隷」として理不尽に「使って」いた時代もある。ここに「罪=的外れ」がある。

 

神の代わりに究極的に追求するものが金、権力、快楽という偶像になってしまうと、時には家族も含めて多くの人が敵となってしまう。家庭は崩壊し、友人を失っていく。社会は殺伐としてくる。権力や金を追い求めるものはサタンの餌食になる。これこそ「的外れ」状態であり、それを喜ぶのはサタンだけなのだ。

 

サウル王は反抗者ダビデを追って殺すことは正しいことだと思っていた。世の成功者はこのように、自己基準で自分を正当化する。結局のところ自分の欲望と衝動に根ざしている「幻想」に翻弄されている。どんな言い訳をしても、最後は、他者を犠牲にしてしまう「自己中心」な態度なのだ。

 

ダビデがバテシェバとの関係を持った時もそうだろう。「俺は国のためにこれだけ貢献している。俺にはそれをする権利がある。俺は王なのだ。」と妄想してしまったのだろう。しかし、預言者ナタンに指摘され、素直に「わたしは主の前に罪あるものです。」と「的外れ」だったことを告白している。(IIサムエル12:13)ダビデはバテシェバを、またウリヤを愛する事に失敗した。自分の欲望を優先させた。そして何より神の信頼を裏切り、神を愛する事に失敗した。ダビデにとって本来、優先すべき目標は、国の拡大(成功)ではなく、「神と人を愛する」ことだったのだ。

 

「罪が無い」イエスによる解決

「イエスに罪がない」ということは、イエスは「神と人とを愛する」ことに失敗しなかったということだ。

 

そんな人はいないので唯一無二の存在とも言える。ただし、その生き方は騙された生き方が「正しい」とする多くの指導者や大衆からは弾かれ、無視され、踏みにじられる。事実、イエスは当時のユダヤ指導者から弾劾され、街の外に追い出され十字架に架けられた。イエスの生き方に倣った初代教会のクリスチャンたちは「迫害」された。サタンによって倒錯された価値観を植えつけられ欺瞞に満ちた社会に生きていると「神と人を愛する生き方」は無駄に思える。生産性が無いバカな生き方に思える。「的を外している」ように思える。ここに倒錯がある。しかし、「世」は「世」の声を聞き、従い、ますますその方向へ陥って行く。(第一ヨハネ4:5)

 

兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。 Iヨハネ3:13−14)

 

「神と人を愛する」という価値観は「世」の価値観に反する。倒錯した世界は「命」の無い、「死」の世界。神は愛なので、愛のない者に神は分からない。しかし、「世」は神を除外してしまった。神を排除するとは、愛や憐れみ、希望、信頼を排除することだ。愛や憐れみより利益が優先される人を生かさない世界。騙し、騙される偽りの世界。人を抑圧し、踏みにじり、破壊する世界。競争と超過労働と過労死。現代の労働環境を見れば、このような倒錯した死の世界であることが分かる。クリスチャンは「死から命」に移っている!「倒錯」した世界から贖い出された。もう違う次元にいる。愛において罪を犯さなかったイエスだけが我々をエデンの園に連れ戻すことができる。

 

クリスチャンになるとは本来の「人間」になること

クリスチャンとは神を知り、神に知られている存在。クリスチャンになるとは、イエスに出会い、本来の生き方(真理)に目覚め、今までの価値観をメタノイアする(思い直す)という事だ。本来の価値観を宿すことだ。神が創造された本来の人間に戻るということだ。新生し「新人類」となり、聖霊を頂き、「神と人とを愛する」ことを優先する生き方に進んでいく人々だ。その生き方に献身することが「礼拝」。全く新しい価値観で型作られていくことが「弟子訓練」。神と人を愛する人々が住むのが「御国」。

 

愛が満ちているところでは、もはや罪がない。ここに本来の目標の成就がある。神が今、なさっているのは「エデンの園」の回復。

 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

                       (ローマ12:1−2)

 

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。  愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。  それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 Iヨハネ4:7−11)

 

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参考資料

youtube   バイブルプロジェクト『罪』

https://www.youtube.com/watch?v=QhutlwA4CJE

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2022年9月8日木曜日

もう一度考えてみよう 聖餐式

現代の聖餐式

先日、バイブルスタディの中で司会者が「皆さんは聖餐を受ける時、どんなことを考えていますか?」と質問した。答えは「厳粛な気持ちになる」「罪を示され、告白する時」とか、「病気にならないように、聖餐に与る」という答まであった。

 

聖餐式の原型は「過越の祭りの食事」(マタイ26章)にあり、元々はフルコースの食事の中で、行われていた。どういう訳か「聖餐式」だけ切り取られ、礼拝の一部に組み入れられるようになった。オリジナルに忠実になるなら、せめて、愛餐会の一部としてやった方がいい。しかし、中世カトリック時代に礼拝の一部になってしまった結果、儀式化し、祝福を得る手段のようになってしまった。「罪を許して頂くため」聖餐に与るとか、「病気や悪いことが起こらないように」聖餐に与るとかであれば、本来の意味から逸脱していることになる。

 

ある教会では年一回、あるいは、毎月、と頻度も違う。ちなみに初代教会では、聖餐(「パン裂き」と表現されているが、この表現も現在は削除されている。)は毎日(あるいは、頻繁に)やっていたようだ。(使徒2:46)この箇所でも「食事を共にし」とあり、食事の一部として行なっていた印象が強い。(Iコリント11章もそれを裏付ける)そして、その雰囲気は「喜びと真心」であり、誠実さはあるものの、ムードは「喜び」だったことが分かる。どうも、現代の罪の告白を伴う「厳粛、陰鬱な儀式」とは程遠い。また、1年に一回、もったいぶって行う「特別」な儀式でもなかったのだ。「これを行いなさい」(ルカ22:19)という主の命令であり、罪の赦しの「血の契約」の確認作業であることを考えると(マタイ26:28)、日常の中で頻繁に行って「主」を覚えることは良いことだと言える。

 

ちなみに、「食べて」、「飲む」という五感を使って霊的真理を体現するのはヘブル的だ。プラトン主義やグノーシスの霊肉二元論とは異なる。現在のキリスト教は、この影響を受けてしまっているが、霊的=非肉体的と考えることは間違いだ。ダビデは喜び踊って(体をもって)神を賛美したが、神はそれを喜ばれただろう。

 

第1世紀には教会堂がなかったので、信者は家々で集まっていた。家々で、食事の一部として「パン裂き」をやっていたのであって、それは「共同体=エクレシア」としての行いだった。その当時、教職がいないので、おそらく家長が行なっていたのだろう。それが中世カトリック時代に司祭のみが執行できる特別な「儀式」となっていった。今も神学校に行き、按手を受けた牧師のみが信徒のために行う儀式となってしまったゆえに、この「共同体」的な性質が剥奪されてしまっている。

 

過越の食事を理解しよう

現在、行われている「聖餐式」は、そもそも「過越の祭」の食事だった。イエスはこれを「新しい契約」と解釈して弟子達に教えたのだ。ちなみに過越の食事はアフィコーメンの儀式は含むものの、基本的にはフルコースのディナーだった。

 

過越の食事の順番

1)      第一の杯(感謝の杯)

2)      手、足を洗う (イエスは弟子の足を洗った)

3)      第二の杯(裁きの杯)

4)      パセリ(カルパス)を塩水に浸して食べる

5)      アフィコーメンの儀式

内部が3つの部分に分かれた布に、平部たったい3枚の種無しパン(マッツァ)がそれぞれ入れられる。これは父、子、聖霊の三位一体を表す。3枚のパンの真ん中(子なる神)だけが取り出され2つに裂かれ、半分だけが食される。残りの半分は、亜麻布に包んで家のどこかに隠される。

6)      ハロセットと苦菜が配られる

ハロセットは、りんご、ナッツ、はちみつ、シナモン、ワインなどを混ぜて作ったもの。その形状と色からエジプト時代にイスラエル人がレンガを作らされた苦労を思い出す。種無しパンをこれに浸して食べた。ここでユダは出て行った。苦菜もエジプトでの苦役を思い起こす。

7)      メインコース (子羊のロースト肉)

8)      先ほど、家のどこかに隠された残りのパン(アフィコーメン=デザートの意)を子供が探し出してきて食する。このパンを指して、イエスは「これはわたしのからだです。」と言われた。種無しパンは罪が無いことを表す。このパンには筋が入っていて、イエスのからだについたムチの跡を表す。また小さな穴があいているが、イエスのからだに残った釘と槍の跡を象徴している。

9)      第三の杯(贖いの杯)が配られる。これがイエスの言った「契約の血」の象徴。

10)第四の杯(賛美の杯)その時、6つの詩篇を賛美する。

 

ちなみに、イエスが行なった聖餐には、罪の告白の時間は無い。

 

聖餐の目的

感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」 (Iコリント11:24−25)

 

まず、明確なのは、イエスの流した血潮により、古い契約(モーセ律法の時代)から新しい契約(恵みと信仰の時代)に移っていること。聖餐は、それを覚えるためである。つまり、出エジプト24:8の動物の血による「契約の血」の概念を受け継ぎつつ、それを上書きしたのが、神の子羊の血による「契約の血」マタイ26:28となる。

 

ヘブル書で詳細に述べられているように、イエスは「一度」で、「完全」、かつ「永遠」の贖いを成し遂げられたということ。(ヘブル7:25−27)もはや不完全な動物犠牲は要らなくなったということだ。だから、「今週も罪を犯してしまいました。罪深い私をお赦し下さい。」という懺悔の場というより、贖いが完成していることを「喜び」、「感謝」する場とする方がふさわしいと思われる。(「契約書」の確認作業と言ってもいい)聖霊に示される罪があれば日常の中で告白し、赦しを受けるべきであり(Iヨハネ1:9)聖餐式まで、罪の告白を溜めておく必要もなく、「懺悔」の場とする必要もない。

 

さらに突っ込んで言うと、過越の羊が屠られたのは、この出来事の翌日、金曜の朝9時であり、ちょうどイエスが十字架にかかった時である。つまり、「最後の晩餐」は過越の羊が屠られる前に、イエスの血で行われている。(ルカ22:15)イエスの血により契約が更新されるので、もはや羊を屠る必要がなくなったことをも意味している。弟子たちは、これ以降、ユダヤ人が行うように子羊を屠って過越の食事をやる必要がなくなったのだ。「過越の祭の食事」から愛餐会での「パン裂き」に変わったのだ。

 

わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません (マタイ26:29)

 

もう一つの側面が「再臨」。この箇所は、イエスが再臨し、「父の御国=千年王国」にて弟子達と新しく飲むその日まで・・・という意味で、この箇所は、「再臨」と「メシア王国」の約束とも言える。

 

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。  Iコリント11:26)

 

「主が来られるまで」とあり、聖餐は主の「再臨」を覚え、待ち望む時でもある。しかし、聖餐に与る時、どれほど主の再臨を待ち望んでいるだろうか。「再臨」や、やがて来る「御国」を信じないまま、聖餐に与るのであれば、本来の目的を逸していることになる。

 

また、「主の死を告げ知らせる」とあるが、これは「イエスは死んだ」という意味ではなく、「私たちの罪のために、罪なき子羊である神の子イエスが死に、3日目に蘇り、天に昇った」こと(つまり福音)を告げ知らせることであり、そのイエスがまた来られ、御国をもたらすことを宣言するものでもある。

 

 

Iコリント11章の誤解  

おそらく厳粛で陰鬱な「懺悔の場」となってしまう1つの根拠はこれだろう。

 

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すこと になります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。

                      (Iコリント11:32)

 

先ほど書いたように、聖餐の目的は「新しい契約」を覚えることなので、当然、それに与っていない未信者は、聖餐を受けることはふさわしくない。また、信者であっても、コリントの信者たちのように食事がメインで、贖いの契約を覚えることをおろそかにしているなら、ふさわしくないだろう。これが「みからだをわきまえないで食べ、飲む」行為だ。

 

ここでパウロが一番問題にしているのは、愛の欠如である。

 

1)      貧しい兄弟(ホームレスなど)への配慮がない。

2)      我先と食事する自己中心的な態度

3)      ぶどう酒で酩酊しているものまでいる

 

聖餐は愛餐の一部として行われたが、そもそも、これでは愛餐になっていない!お互いに愛し合うはずの愛餐が自己中心の食事会になってしまっている。これは「キリストの律法」違反である。(Iヨハネ3:16−18)この状態で聖餐に与ることはふさわしくないし、また意味がない。それは聖餐を汚すことになる。パウロはそれを指摘している。愛のない教会に主のさばき(懲らしめ)が与えられるのは当然である。(Iコリント11:30−34、Iヨハネ3:14、黙示2:4−5)新約のクリスチャンはキリストの律法の下に生きているので、(ヨハネ13:34、ローマ13:8−10)愛の欠如という点で、さばかれる(懲らしめを受ける)のだ。そういう訳で、これはコリント教会での愛を欠いた特殊な状況下にあってパウロが戒めたケースであり、通常の福音的な教会がここまでひどい状況にあるとは思われない。

 

ご提案

1)喜びの雰囲気の中で

あなたの教会で、聖餐に与る時、新しい「契約」を覚えない信者がいるだろうか?全く形式的に行っているか、ご利益を受けるために参加していれば、ふさわしくないだろうが、福音的な教会にそのような信者が多くいるとは思われない。また、コリントの教会のようにあからさまに愛の欠如が見えるのであれば、思い改め、罪を告白する必要があるだろう。しかし、あなたの教会がそうでなければ、聖餐はイエスの勝利を確信し、「喜び」の雰囲気の中で行なってもいいのではないだろうか。

 

2)愛餐会の一部として

愛餐会の中で、エクレシアとして、お互いの愛を確認する中で行えば、さらに「ふさわしい」ものとなる。

 

3)共同体的性質をキープする

牧師のみが執行する特別な「儀式」ではなく、「お互いに」を大事にするエクレシア(共同体)のワザとして行えば、さらに本来の趣旨に近づく。家々でホストがやってもいい。

 

4)1つのパン、1つの杯から

聖餐は赦された者たちがキリストの1つ体に属するという「一致」を体感する時でもある。また、今コロナ渦中で仕方がない面もあるが、個別にパッケージされた食材と、パッケージされたジュースを個人、個人で頂き聖餐に与るのは何とも寂しい。大きなフランスパンを、それぞれが、ちぎりながら回して食すると、キリストの体を皆が頂き、1つとなっている感覚がより鮮明になるのではないだろか。「ジーザス映画」を見ると、過越の食事の時、大きなせんべい状の種無しパンを弟子たち回して、それぞれが、それを小さく割って自分の分を取っている。オリジナルはそうだったのだろう。またワインの入った大きな杯を回し飲みしている。この方が本来の意味を体験しやすい。

 

5)      再臨を待ち望む

十字架での罪の贖いは大事である。しかし、それはクリスチャンとしてスタート地点であって、そこに留まっているのではない。(ヘブル6:1)希望を持った生き方は未来志向だ。私達が待ち望むのはメシアの再臨と、彼がもたらすメシア王国。初代教会のクリスチャンの励ましの源はそこにあった。聖餐は罪の赦しの感謝と共に再臨を確認するものである。聖餐を、もっと、この希望を確認する時としたい。(Iテサロニケ4:18)

 

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参考資料

マタイの福音書注解 中川健一著 ハーベストタイムミニストリーズ

 

ペイガン・クリスチャニティ? ジョージ・バーナ、フランク・バイオラ著

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2022年9月1日木曜日

裸のままではありません!?

 

裸の状態でいることはありません

いきなり、何のこっちゃと思うでしょうが、これは聖書の言葉です。

 

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。  IIコリント5:1—3)

 

地上の幕屋とは肉体のことです。この肉体は「外なる人」とも形容されていますが、朽ちる肉体なので、(IIコリント4:16)年老いて朽ち果てていきます。

しかし、内なる人=魂が、体の無いまま「裸」の状態でいることはありませんと聖書は明記しているのです。

 

魂と体の再結合

もともと、人は大地のちりで肉体が作られ、その鼻にいのちの息を吹き込まれ、生きるものとなっています。体あっての人間です。霊的=非肉体ではありません。エデンの園では体をもって完全に「霊的な」生活を送っていたのです。すなわち、神と被造物との完全なる調和、「シャローム」の状態だったのです。

 

この地上では、最後のひと息で、魂は肉体を離れます。魂はその後、パラダイスに引き上げられますが地上の幕屋(肉体)は、この地で朽ち果てていきます。つまり、パラダイスでは体の無い魂の状態=裸の状態になっています。これは人間として不自然な状態です。しかし、いつまでそうではないのです。だから、「その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。」 と書いてあるのです。つまり、新しい「朽ちない体」を頂くということです。ただ、「死んだら魂が天国に行く」ならクリスチャンじゃなくても、一般の人もそのように思っているでしょう。聖書が「福音」とあえて言っている理由は、それ以上の内容があるからです。

 

朽ちる体は「朽ちない体」に変えられるのです! それは、いつ起こるのでしょうか?

 

私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。  すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。Iテサロニケ4:15−18)

 

これは主の来臨の時、もっと詳しく言えば、「携挙」の時です。2つの段階があります。

 

1)      まず、キリストにある死者がよみがえります。「生き返る」のではなく

「朽ちない体」によみがえります。(Iコリント15:42−44、51−53)死体は地上のお墓にあります。救われた魂はパラダイスにいます。この分裂状態は、人間としては不自然な状態なのです。しかし、「携挙」の時に、すでにパラダイスにいる魂は、地上で新しい「朽ちない体」に入り、合体し、「復活の体」で挙げられ、主と会うことになるのです。順番としては、死んだクリスチャンのよみがえりが先行します。

 

2)      生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空

中で主と会うのです。「彼ら」とは、よみがえったクリスチャン達です。生き残っているクリスチャンは、その場で一瞬にして「朽ちない体」に変えられて、天に引き上げられます。

 

この現象は一瞬にして起こります。引き上げられ(ハルパゾー)は「引っこ抜く」というニュアンスです。パウロはこれを「奥義」と言っています。(Iコリント15:51)旧約時代にははっきりとは示されていなかったからです。イエスが、私達の初穂としてよみがえった今は、私達の復活も明確になりました。(Iコリント15:20−22、IIコリント4:14)

 

だから福音

これほど明確に「裸の状態のままでいるわけではない!」とパウロが語っているのに、「死んだら魂が天国に行って、そこでイエス様と永遠に過ごす」と考えているクリスチャンがあまりにも多いのです。聖書をよく読んでください。魂のまま(裸のまま)ではありません!新しい体をもらうのです。

 

もっと言えば、新しい体をもらって王なるイエスと共に地上に降臨し、この地上で千年の間、地を治めるのです。(黙示録20:4)そうでなければ、イエスが再び地上に戻ってくる意味がないのです。天で我々が上がってくるのを待っていればいいのですから。地上に来臨するのには、地上にまだ用があるからです。やるべき仕事が残っているからです。

 

このブログでは何度もしつこいほど、このテーマを取り扱ってきました。パウロが言う福音はそういうことだからです。魂が天国に行って終わりではないのです。サタンに奪われたエデンの園は、「この地上」に回復されなければならないのです。そうでなければ、神がサタンに負けたことになってしまいます。イエスが十字架で死んだ時、サタンは一瞬、「勝った!」と思ったでしょう。しかし、三日後にイエスは復活し勝利したのです。サタンのプランは打ち砕かれたのです。それどころか、復活をもって、サタンの永遠の滅びが確定してしまったのです。そのようにサタンに汚された、この地上も完全復活し、回復されるのです。そこに私達は「朽ちない体」をもって戻ってくるのです。だから「福音」なのです。だから、パウロにとって、どうしても伝えなければならないメッセージだったのです。(ローマ1:14−16)それは驚くべき「希望」なのです。

 

 

私達の信仰の態度

Q. あなたはどうやって信者を励ましていますか?

 

  こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、

  これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。Iテサロニケ4:18)

 

  「これらのことば」とは文脈上「再臨」と「信者の復活」であることは明

  確です。悩みを聞いてあげたり、いいところを指摘してあげたり・・・

  それらは確かに励ましでしょう。助けになるでしょう。しかし、聖書が明

  確に言っている励ましは、「再臨」特に「携挙」です。他の人のように悲し

  みに沈まず、この希望を語り合うことで励まし合うことを聖書は勧めて

  います。あなたの教会ではどのくらい「再臨」について、「信者の復活」に

  ついて語られているでしょう?あなた自身はどのくらい、これらのテーマ

  を他のクリスチャンと分かち合っているでしょう?少なくも初代教会のク

  リスチャン達にとっては、再臨は大きなテーマだったのです。黙示録は「『し

  かり、わたしはすぐに来る』アーメン。主イエスよ、来てください。」

 (黙示録22:20)で終わっています。すなわち、これが聖書の結論と言

  っても過言ではありません。

 

Q. あなたは何を切望していますか?

 

天から与えられる住まいを着たいと切望していますIIコリント5:2)

 

これはパウロの切なる願いでした。あなたは、新しい体を頂くことを切望していますか? 「むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。」 (IIコリント5:8あなたは本気でこのように思っていますか?この肉体にいる間は、ある意味、主から離れているからです。(IIコリント5:6)

 

 

Q. あなたの「生死観」はどのくらい革命的ですか?

 

クリスチャンは未信者とは全く違った生死観を持っています。「死んだら天国に行く」だけなら、ノンクリスチャンもそう言います。クリスチャンの生死観は「革命的」です。

 

私達に与えられている御霊は、天からの住まいを着ることの保証となっています。(IIコリント5:4−5)また、御霊は、「御国=回復されたエデンの園」を相続する保障となっています。(エペソ1:14)あなたの命は永遠に保障されています。(ヨハネ3:16)つまり、死んでも生きるのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)新しい体で、この地上に戻ってきます。このような生死観を持つ時、あなたの今の生活はどう変わりますか?

 

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