現代の聖餐式
先日、バイブルスタディの中で司会者が「皆さんは聖餐を受ける時、どんなことを考えていますか?」と質問した。答えは「厳粛な気持ちになる」「罪を示され、告白する時」とか、「病気にならないように、聖餐に与る」という答まであった。
聖餐式の原型は「過越の祭りの食事」(マタイ26章)にあり、元々はフルコースの食事の中で、行われていた。どういう訳か「聖餐式」だけ切り取られ、礼拝の一部に組み入れられるようになった。オリジナルに忠実になるなら、せめて、愛餐会の一部としてやった方がいい。しかし、中世カトリック時代に礼拝の一部になってしまった結果、儀式化し、祝福を得る手段のようになってしまった。「罪を許して頂くため」聖餐に与るとか、「病気や悪いことが起こらないように」聖餐に与るとかであれば、本来の意味から逸脱していることになる。
ある教会では年一回、あるいは、毎月、と頻度も違う。ちなみに初代教会では、聖餐(「パン裂き」と表現されているが、この表現も現在は削除されている。)は毎日(あるいは、頻繁に)やっていたようだ。(使徒2:46)この箇所でも「食事を共にし」とあり、食事の一部として行なっていた印象が強い。(Iコリント11章もそれを裏付ける)そして、その雰囲気は「喜びと真心」であり、誠実さはあるものの、ムードは「喜び」だったことが分かる。どうも、現代の罪の告白を伴う「厳粛、陰鬱な儀式」とは程遠い。また、1年に一回、もったいぶって行う「特別」な儀式でもなかったのだ。「これを行いなさい」(ルカ22:19)という主の命令であり、罪の赦しの「血の契約」の確認作業であることを考えると(マタイ26:28)、日常の中で頻繁に行って「主」を覚えることは良いことだと言える。
ちなみに、「食べて」、「飲む」という五感を使って霊的真理を体現するのはヘブル的だ。プラトン主義やグノーシスの霊肉二元論とは異なる。現在のキリスト教は、この影響を受けてしまっているが、霊的=非肉体的と考えることは間違いだ。ダビデは喜び踊って(体をもって)神を賛美したが、神はそれを喜ばれただろう。
第1世紀には教会堂がなかったので、信者は家々で集まっていた。家々で、食事の一部として「パン裂き」をやっていたのであって、それは「共同体=エクレシア」としての行いだった。その当時、教職がいないので、おそらく家長が行なっていたのだろう。それが中世カトリック時代に司祭のみが執行できる特別な「儀式」となっていった。今も神学校に行き、按手を受けた牧師のみが信徒のために行う儀式となってしまったゆえに、この「共同体」的な性質が剥奪されてしまっている。
過越の食事を理解しよう
現在、行われている「聖餐式」は、そもそも「過越の祭」の食事だった。イエスはこれを「新しい契約」と解釈して弟子達に教えたのだ。ちなみに過越の食事はアフィコーメンの儀式は含むものの、基本的にはフルコースのディナーだった。
過越の食事の順番
1) 第一の杯(感謝の杯)
2) 手、足を洗う (イエスは弟子の足を洗った)
3) 第二の杯(裁きの杯)
4) パセリ(カルパス)を塩水に浸して食べる
5) アフィコーメンの儀式
内部が3つの部分に分かれた布に、平部たったい3枚の種無しパン(マッツァ)がそれぞれ入れられる。これは父、子、聖霊の三位一体を表す。3枚のパンの真ん中(子なる神)だけが取り出され2つに裂かれ、半分だけが食される。残りの半分は、亜麻布に包んで家のどこかに隠される。
6) ハロセットと苦菜が配られる
ハロセットは、りんご、ナッツ、はちみつ、シナモン、ワインなどを混ぜて作ったもの。その形状と色からエジプト時代にイスラエル人がレンガを作らされた苦労を思い出す。種無しパンをこれに浸して食べた。ここでユダは出て行った。苦菜もエジプトでの苦役を思い起こす。
7) メインコース (子羊のロースト肉)
8) 先ほど、家のどこかに隠された残りのパン(アフィコーメン=デザートの意)を子供が探し出してきて食する。このパンを指して、イエスは「これはわたしのからだです。」と言われた。種無しパンは罪が無いことを表す。このパンには筋が入っていて、イエスのからだについたムチの跡を表す。また小さな穴があいているが、イエスのからだに残った釘と槍の跡を象徴している。
9) 第三の杯(贖いの杯)が配られる。これがイエスの言った「契約の血」の象徴。
10)第四の杯(賛美の杯)その時、6つの詩篇を賛美する。
ちなみに、イエスが行なった聖餐には、罪の告白の時間は無い。
聖餐の目的
感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」 (Iコリント11:24−25)
まず、明確なのは、イエスの流した血潮により、古い契約(モーセ律法の時代)から新しい契約(恵みと信仰の時代)に移っていること。聖餐は、それを覚えるためである。つまり、出エジプト24:8の動物の血による「契約の血」の概念を受け継ぎつつ、それを上書きしたのが、神の子羊の血による「契約の血」マタイ26:28となる。
ヘブル書で詳細に述べられているように、イエスは「一度」で、「完全」、かつ「永遠」の贖いを成し遂げられたということ。(ヘブル7:25−27)もはや不完全な動物犠牲は要らなくなったということだ。だから、「今週も罪を犯してしまいました。罪深い私をお赦し下さい。」という懺悔の場というより、贖いが完成していることを「喜び」、「感謝」する場とする方がふさわしいと思われる。(「契約書」の確認作業と言ってもいい)聖霊に示される罪があれば日常の中で告白し、赦しを受けるべきであり(Iヨハネ1:9)聖餐式まで、罪の告白を溜めておく必要もなく、「懺悔」の場とする必要もない。
さらに突っ込んで言うと、過越の羊が屠られたのは、この出来事の翌日、金曜の朝9時であり、ちょうどイエスが十字架にかかった時である。つまり、「最後の晩餐」は過越の羊が屠られる前に、イエスの血で行われている。(ルカ22:15)イエスの血により契約が更新されるので、もはや羊を屠る必要がなくなったことをも意味している。弟子たちは、これ以降、ユダヤ人が行うように子羊を屠って過越の食事をやる必要がなくなったのだ。「過越の祭の食事」から愛餐会での「パン裂き」に変わったのだ。
わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません 。(マタイ26:29)
もう一つの側面が「再臨」。この箇所は、イエスが再臨し、「父の御国=千年王国」にて弟子達と新しく飲むその日まで・・・という意味で、この箇所は、「再臨」と「メシア王国」の約束とも言える。
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。 (Iコリント11:26)
「主が来られるまで」とあり、聖餐は主の「再臨」を覚え、待ち望む時でもある。しかし、聖餐に与る時、どれほど主の再臨を待ち望んでいるだろうか。「再臨」や、やがて来る「御国」を信じないまま、聖餐に与るのであれば、本来の目的を逸していることになる。
また、「主の死を告げ知らせる」とあるが、これは「イエスは死んだ」という意味ではなく、「私たちの罪のために、罪なき子羊である神の子イエスが死に、3日目に蘇り、天に昇った」こと(つまり福音)を告げ知らせることであり、そのイエスがまた来られ、御国をもたらすことを宣言するものでもある。
Iコリント11章の誤解
おそらく厳粛で陰鬱な「懺悔の場」となってしまう1つの根拠はこれだろう。
したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すこと になります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。
(Iコリント11:32)
先ほど書いたように、聖餐の目的は「新しい契約」を覚えることなので、当然、それに与っていない未信者は、聖餐を受けることはふさわしくない。また、信者であっても、コリントの信者たちのように食事がメインで、贖いの契約を覚えることをおろそかにしているなら、ふさわしくないだろう。これが「みからだをわきまえないで食べ、飲む」行為だ。
ここでパウロが一番問題にしているのは、愛の欠如である。
1) 貧しい兄弟(ホームレスなど)への配慮がない。
2) 我先と食事する自己中心的な態度
3) ぶどう酒で酩酊しているものまでいる
聖餐は愛餐の一部として行われたが、そもそも、これでは愛餐になっていない!お互いに愛し合うはずの愛餐が自己中心の食事会になってしまっている。これは「キリストの律法」違反である。(Iヨハネ3:16−18)この状態で聖餐に与ることはふさわしくないし、また意味がない。それは聖餐を汚すことになる。パウロはそれを指摘している。愛のない教会に主のさばき(懲らしめ)が与えられるのは当然である。(Iコリント11:30−34、Iヨハネ3:14、黙示2:4−5)新約のクリスチャンはキリストの律法の下に生きているので、(ヨハネ13:34、ローマ13:8−10)愛の欠如という点で、さばかれる(懲らしめを受ける)のだ。そういう訳で、これはコリント教会での愛を欠いた特殊な状況下にあってパウロが戒めたケースであり、通常の福音的な教会がここまでひどい状況にあるとは思われない。
ご提案
1)喜びの雰囲気の中で
あなたの教会で、聖餐に与る時、新しい「契約」を覚えない信者がいるだろうか?全く形式的に行っているか、ご利益を受けるために参加していれば、ふさわしくないだろうが、福音的な教会にそのような信者が多くいるとは思われない。また、コリントの教会のようにあからさまに愛の欠如が見えるのであれば、思い改め、罪を告白する必要があるだろう。しかし、あなたの教会がそうでなければ、聖餐はイエスの勝利を確信し、「喜び」の雰囲気の中で行なってもいいのではないだろうか。
2)愛餐会の一部として
愛餐会の中で、エクレシアとして、お互いの愛を確認する中で行えば、さらに「ふさわしい」ものとなる。
3)共同体的性質をキープする
牧師のみが執行する特別な「儀式」ではなく、「お互いに」を大事にするエクレシア(共同体)のワザとして行えば、さらに本来の趣旨に近づく。家々でホストがやってもいい。
4)1つのパン、1つの杯から
聖餐は赦された者たちがキリストの1つ体に属するという「一致」を体感する時でもある。また、今コロナ渦中で仕方がない面もあるが、個別にパッケージされた食材と、パッケージされたジュースを個人、個人で頂き聖餐に与るのは何とも寂しい。大きなフランスパンを、それぞれが、ちぎりながら回して食すると、キリストの体を皆が頂き、1つとなっている感覚がより鮮明になるのではないだろか。「ジーザス映画」を見ると、過越の食事の時、大きなせんべい状の種無しパンを弟子たち回して、それぞれが、それを小さく割って自分の分を取っている。オリジナルはそうだったのだろう。またワインの入った大きな杯を回し飲みしている。この方が本来の意味を体験しやすい。
5) 再臨を待ち望む
十字架での罪の贖いは大事である。しかし、それはクリスチャンとしてスタート地点であって、そこに留まっているのではない。(ヘブル6:1)希望を持った生き方は未来志向だ。私達が待ち望むのはメシアの再臨と、彼がもたらすメシア王国。初代教会のクリスチャンの励ましの源はそこにあった。聖餐は罪の赦しの感謝と共に再臨を確認するものである。聖餐を、もっと、この希望を確認する時としたい。(Iテサロニケ4:18)
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参考資料
マタイの福音書注解 中川健一著 ハーベストタイムミニストリーズ
ペイガン・クリスチャニティ? ジョージ・バーナ、フランク・バイオラ著
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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