2022年9月15日木曜日

愛から解く「罪」という言葉

 

聖書が語る「罪」

ニュースで見る「犯罪」は窃盗、殺人、賄賂・・・など。聖書が言う「罪」とはどういう事だろう。「愛は律法の要求を満たすもの」とパウロは言っている。逆に言えば、「愛さない」ことが律法違反であり、罪なのだ。「愛」が基準となっていることが分かる。

 

姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(ローマ13:9−10)

 

旧約律法でも、イエスご自身が回答されたように、一番重要なのは「神と人への愛」であった。(マタイ22:36−40)新約での「キリストの律法」は、愛が基準になっている。(Iヨハネ3:23、ヨハネ13:34)愛し合うこと(特に主にある兄弟姉妹が)は、やってもやらなくてもいい事ではなく、神の「命令」であると明記されている。

 

実は聖書的「罪」という言葉は奥が深い。「罪」はヘブル語でハター、ギリシア語ではハマルティア。特に宗教的言葉ではなく、一般でも使われていた「失敗する」とか「的を外す」という意味。つまり、目標達成に失敗する事。人は神に造られ、愛され、エデンの園に置かれ、神と共に歩み、調和の中にあった。創造主であり、父である神を愛し、神がパートナーとして創造された隣人を愛する生き方が「あるべき」生き方だった。

 

しかし、サタンに騙され、神の信頼を裏切り、愛することに失敗してしまった。もはや、神との関係は以前のような無垢なものでは無くなった。「知恵の実」について神の問い正された時、アダムはエバにその罪をなすりつけた。夫婦関係が歪んでしまったのだ。その後、カインはアベルに嫉妬し殺人を犯してしまう。今度は兄弟同士で、愛する事に失敗してしまう。このように本来のあり方から「脱線」し、「神と人とを愛する生き方」という目標達成に失敗した人生を送るようになる。人を愛する事と、神を愛することは密接に関係しており、人への罪は、神への罪でもある。(創世記39:9、IIサムエル12:13) 

 

罪の欺瞞性

実は罪の恐ろしいところは自分をも騙してしまうことだ。バベルの塔を建てた世界最初の権力者ニムロデを見てみよう。この世での「成功」=「人生の目標」と思い込み、自分の力を証明する方向に向かっていく。うまくいく程にまんまとサタンの誘惑にハマり、その結果、実のところ「神と人を愛する」という目標から大きくズレてしまうのだ。世で成功していると、自分が「失敗者」だとは気がつかない。これが罪の欺瞞的なところなのだ。そして、金や権力や快楽を手に入れるために、本来、愛すべき人を道具のように「使って」しまうのだ。文字通り人を「奴隷」として理不尽に「使って」いた時代もある。ここに「罪=的外れ」がある。

 

神の代わりに究極的に追求するものが金、権力、快楽という偶像になってしまうと、時には家族も含めて多くの人が敵となってしまう。家庭は崩壊し、友人を失っていく。社会は殺伐としてくる。権力や金を追い求めるものはサタンの餌食になる。これこそ「的外れ」状態であり、それを喜ぶのはサタンだけなのだ。

 

サウル王は反抗者ダビデを追って殺すことは正しいことだと思っていた。世の成功者はこのように、自己基準で自分を正当化する。結局のところ自分の欲望と衝動に根ざしている「幻想」に翻弄されている。どんな言い訳をしても、最後は、他者を犠牲にしてしまう「自己中心」な態度なのだ。

 

ダビデがバテシェバとの関係を持った時もそうだろう。「俺は国のためにこれだけ貢献している。俺にはそれをする権利がある。俺は王なのだ。」と妄想してしまったのだろう。しかし、預言者ナタンに指摘され、素直に「わたしは主の前に罪あるものです。」と「的外れ」だったことを告白している。(IIサムエル12:13)ダビデはバテシェバを、またウリヤを愛する事に失敗した。自分の欲望を優先させた。そして何より神の信頼を裏切り、神を愛する事に失敗した。ダビデにとって本来、優先すべき目標は、国の拡大(成功)ではなく、「神と人を愛する」ことだったのだ。

 

「罪が無い」イエスによる解決

「イエスに罪がない」ということは、イエスは「神と人とを愛する」ことに失敗しなかったということだ。

 

そんな人はいないので唯一無二の存在とも言える。ただし、その生き方は騙された生き方が「正しい」とする多くの指導者や大衆からは弾かれ、無視され、踏みにじられる。事実、イエスは当時のユダヤ指導者から弾劾され、街の外に追い出され十字架に架けられた。イエスの生き方に倣った初代教会のクリスチャンたちは「迫害」された。サタンによって倒錯された価値観を植えつけられ欺瞞に満ちた社会に生きていると「神と人を愛する生き方」は無駄に思える。生産性が無いバカな生き方に思える。「的を外している」ように思える。ここに倒錯がある。しかし、「世」は「世」の声を聞き、従い、ますますその方向へ陥って行く。(第一ヨハネ4:5)

 

兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。 Iヨハネ3:13−14)

 

「神と人を愛する」という価値観は「世」の価値観に反する。倒錯した世界は「命」の無い、「死」の世界。神は愛なので、愛のない者に神は分からない。しかし、「世」は神を除外してしまった。神を排除するとは、愛や憐れみ、希望、信頼を排除することだ。愛や憐れみより利益が優先される人を生かさない世界。騙し、騙される偽りの世界。人を抑圧し、踏みにじり、破壊する世界。競争と超過労働と過労死。現代の労働環境を見れば、このような倒錯した死の世界であることが分かる。クリスチャンは「死から命」に移っている!「倒錯」した世界から贖い出された。もう違う次元にいる。愛において罪を犯さなかったイエスだけが我々をエデンの園に連れ戻すことができる。

 

クリスチャンになるとは本来の「人間」になること

クリスチャンとは神を知り、神に知られている存在。クリスチャンになるとは、イエスに出会い、本来の生き方(真理)に目覚め、今までの価値観をメタノイアする(思い直す)という事だ。本来の価値観を宿すことだ。神が創造された本来の人間に戻るということだ。新生し「新人類」となり、聖霊を頂き、「神と人とを愛する」ことを優先する生き方に進んでいく人々だ。その生き方に献身することが「礼拝」。全く新しい価値観で型作られていくことが「弟子訓練」。神と人を愛する人々が住むのが「御国」。

 

愛が満ちているところでは、もはや罪がない。ここに本来の目標の成就がある。神が今、なさっているのは「エデンの園」の回復。

 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

                       (ローマ12:1−2)

 

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。  愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。  それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 Iヨハネ4:7−11)

 

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参考資料

youtube   バイブルプロジェクト『罪』

https://www.youtube.com/watch?v=QhutlwA4CJE

 

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執筆者:栗原一芳

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