2022年9月1日木曜日

裸のままではありません!?

 

裸の状態でいることはありません

いきなり、何のこっちゃと思うでしょうが、これは聖書の言葉です。

 

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。  IIコリント5:1—3)

 

地上の幕屋とは肉体のことです。この肉体は「外なる人」とも形容されていますが、朽ちる肉体なので、(IIコリント4:16)年老いて朽ち果てていきます。

しかし、内なる人=魂が、体の無いまま「裸」の状態でいることはありませんと聖書は明記しているのです。

 

魂と体の再結合

もともと、人は大地のちりで肉体が作られ、その鼻にいのちの息を吹き込まれ、生きるものとなっています。体あっての人間です。霊的=非肉体ではありません。エデンの園では体をもって完全に「霊的な」生活を送っていたのです。すなわち、神と被造物との完全なる調和、「シャローム」の状態だったのです。

 

この地上では、最後のひと息で、魂は肉体を離れます。魂はその後、パラダイスに引き上げられますが地上の幕屋(肉体)は、この地で朽ち果てていきます。つまり、パラダイスでは体の無い魂の状態=裸の状態になっています。これは人間として不自然な状態です。しかし、いつまでそうではないのです。だから、「その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。」 と書いてあるのです。つまり、新しい「朽ちない体」を頂くということです。ただ、「死んだら魂が天国に行く」ならクリスチャンじゃなくても、一般の人もそのように思っているでしょう。聖書が「福音」とあえて言っている理由は、それ以上の内容があるからです。

 

朽ちる体は「朽ちない体」に変えられるのです! それは、いつ起こるのでしょうか?

 

私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。  すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。Iテサロニケ4:15−18)

 

これは主の来臨の時、もっと詳しく言えば、「携挙」の時です。2つの段階があります。

 

1)      まず、キリストにある死者がよみがえります。「生き返る」のではなく

「朽ちない体」によみがえります。(Iコリント15:42−44、51−53)死体は地上のお墓にあります。救われた魂はパラダイスにいます。この分裂状態は、人間としては不自然な状態なのです。しかし、「携挙」の時に、すでにパラダイスにいる魂は、地上で新しい「朽ちない体」に入り、合体し、「復活の体」で挙げられ、主と会うことになるのです。順番としては、死んだクリスチャンのよみがえりが先行します。

 

2)      生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空

中で主と会うのです。「彼ら」とは、よみがえったクリスチャン達です。生き残っているクリスチャンは、その場で一瞬にして「朽ちない体」に変えられて、天に引き上げられます。

 

この現象は一瞬にして起こります。引き上げられ(ハルパゾー)は「引っこ抜く」というニュアンスです。パウロはこれを「奥義」と言っています。(Iコリント15:51)旧約時代にははっきりとは示されていなかったからです。イエスが、私達の初穂としてよみがえった今は、私達の復活も明確になりました。(Iコリント15:20−22、IIコリント4:14)

 

だから福音

これほど明確に「裸の状態のままでいるわけではない!」とパウロが語っているのに、「死んだら魂が天国に行って、そこでイエス様と永遠に過ごす」と考えているクリスチャンがあまりにも多いのです。聖書をよく読んでください。魂のまま(裸のまま)ではありません!新しい体をもらうのです。

 

もっと言えば、新しい体をもらって王なるイエスと共に地上に降臨し、この地上で千年の間、地を治めるのです。(黙示録20:4)そうでなければ、イエスが再び地上に戻ってくる意味がないのです。天で我々が上がってくるのを待っていればいいのですから。地上に来臨するのには、地上にまだ用があるからです。やるべき仕事が残っているからです。

 

このブログでは何度もしつこいほど、このテーマを取り扱ってきました。パウロが言う福音はそういうことだからです。魂が天国に行って終わりではないのです。サタンに奪われたエデンの園は、「この地上」に回復されなければならないのです。そうでなければ、神がサタンに負けたことになってしまいます。イエスが十字架で死んだ時、サタンは一瞬、「勝った!」と思ったでしょう。しかし、三日後にイエスは復活し勝利したのです。サタンのプランは打ち砕かれたのです。それどころか、復活をもって、サタンの永遠の滅びが確定してしまったのです。そのようにサタンに汚された、この地上も完全復活し、回復されるのです。そこに私達は「朽ちない体」をもって戻ってくるのです。だから「福音」なのです。だから、パウロにとって、どうしても伝えなければならないメッセージだったのです。(ローマ1:14−16)それは驚くべき「希望」なのです。

 

 

私達の信仰の態度

Q. あなたはどうやって信者を励ましていますか?

 

  こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、

  これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。Iテサロニケ4:18)

 

  「これらのことば」とは文脈上「再臨」と「信者の復活」であることは明

  確です。悩みを聞いてあげたり、いいところを指摘してあげたり・・・

  それらは確かに励ましでしょう。助けになるでしょう。しかし、聖書が明

  確に言っている励ましは、「再臨」特に「携挙」です。他の人のように悲し

  みに沈まず、この希望を語り合うことで励まし合うことを聖書は勧めて

  います。あなたの教会ではどのくらい「再臨」について、「信者の復活」に

  ついて語られているでしょう?あなた自身はどのくらい、これらのテーマ

  を他のクリスチャンと分かち合っているでしょう?少なくも初代教会のク

  リスチャン達にとっては、再臨は大きなテーマだったのです。黙示録は「『し

  かり、わたしはすぐに来る』アーメン。主イエスよ、来てください。」

 (黙示録22:20)で終わっています。すなわち、これが聖書の結論と言

  っても過言ではありません。

 

Q. あなたは何を切望していますか?

 

天から与えられる住まいを着たいと切望していますIIコリント5:2)

 

これはパウロの切なる願いでした。あなたは、新しい体を頂くことを切望していますか? 「むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。」 (IIコリント5:8あなたは本気でこのように思っていますか?この肉体にいる間は、ある意味、主から離れているからです。(IIコリント5:6)

 

 

Q. あなたの「生死観」はどのくらい革命的ですか?

 

クリスチャンは未信者とは全く違った生死観を持っています。「死んだら天国に行く」だけなら、ノンクリスチャンもそう言います。クリスチャンの生死観は「革命的」です。

 

私達に与えられている御霊は、天からの住まいを着ることの保証となっています。(IIコリント5:4−5)また、御霊は、「御国=回復されたエデンの園」を相続する保障となっています。(エペソ1:14)あなたの命は永遠に保障されています。(ヨハネ3:16)つまり、死んでも生きるのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)新しい体で、この地上に戻ってきます。このような生死観を持つ時、あなたの今の生活はどう変わりますか?

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

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