前回までの「ペイガン・クリスチャニティ?」では、現代の教会のプラクティスのほとんどは聖書的根拠が薄く、それどころか、異教起源のものであるという主張だった。それを踏まえて、それではあるべき教会とはどんな姿をしているのかを模索しているのが、Reimagining church (教会を再イメージする)という本。 残念ながら、まだ邦訳は無いが、ポイントだけを紹介しよう。
本書は大きく2つのパーツからなっており、パート1がCommunity and gatheringで教会の本質について、パート2がLeadership and accountabilityで牧師論、霊的指導者を取り扱っている。今回はパート1の教会の本質について見てみよう。
第一に教会とは「人々」のことであり、教団、組織、ムーブメントと同一視してはならないとする。人々がイエスに出会って自然に生まれるものであり、キリストの体ゆえに組織というより生命体(organic)なものであるとする。興味深い着眼点は、教会の本質を三位一体の神に
求めているところだ。神は三位一体がゆえに、コミュニティであり、関係的、社会的存在である。教会はこの三位一体の神の延長であり、地上で現された神の命なのであると。(エペ1:22-23)
三位一体の神がお互いの間でそうであるように、教会も人々がお互いに愛し合い、お互いに交わり、お互いに高めあい、助け合い、従い合う、本物のコミュニティなのだと。よく一神教ということでイスラムと一緒に括られるが、本質的に聖書の神は三位一体であるがゆえに、ユニークなのだ。オーガニックであり、家族であるがゆえに、命令系統、階級、観察者、スーパーマンの独り舞台、宗教プログラムは堕落した人間の産物であり、教会からは排除すべき要素とバイオラは考える。
よく制度的、組織的教会へのアンチテーゼとして自由なハウスチャーチやスモールグループが提唱されるが、ともすると制度的教会で負った傷のなめ合い的な集まりになって批判に終始したり、自由さを強調するあまり、聖書からずれたりする可能性もある。バイオラの強みは徹底してキリスト中心、三位一体の神中心であり、イージーな道に逃げていないことだ。キリストの体にはコミットメント(献身)が必要と考える。だから、ポストモダンのコミットメントなき、コミュニティを批判している。第1世紀の教会は見える形で特定地域に定期的に存在していたことを強調する。バイオラは集まりたいときだけ、スターバックスに集まるようなものは教会と考えていない。
教会は特定の場所に可視的に、定期的に集まっていなければならない。そして、キリストだけが権威者であり、すべてのメンバーが体として機能することが励まされる。
(つづく)
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バイオラのホームページ
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こちらではバイオラ著のorganic church planting(旧タイトルはFinding Organic Church)が無料で読めます。(英語のみ)
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳