2024年7月25日木曜日

「教会を再イメージする」 1


前回までの「ペイガン・クリスチャニティ?」では、現代の教会のプラクティスのほとんどは聖書的根拠が薄く、それどころか、異教起源のものであるという主張だった。それを踏まえて、それではあるべき教会とはどんな姿をしているのかを模索しているのが、Reimagining church (教会を再イメージする)という本。  残念ながら、まだ邦訳は無いが、ポイントだけを紹介しよう。

 

本書は大きく2つのパーツからなっており、パート1がCommunity and gatheringで教会の本質について、パート2がLeadership and accountabilityで牧師論、霊的指導者を取り扱っている。今回はパート1の教会の本質について見てみよう。

 

第一に教会とは「人々」のことであり、教団、組織、ムーブメントと同一視してはならないとする。人々がイエスに出会って自然に生まれるものであり、キリストの体ゆえに組織というより生命体(organic)なものであるとする。興味深い着眼点は、教会の本質を三位一体の神に

求めているところだ。神は三位一体がゆえに、コミュニティであり、関係的、社会的存在である。教会はこの三位一体の神の延長であり、地上で現された神の命なのであると。(エペ1:22-23)

 

三位一体の神がお互いの間でそうであるように、教会も人々がお互いに愛し合い、お互いに交わり、お互いに高めあい、助け合い、従い合う、本物のコミュニティなのだと。よく一神教ということでイスラムと一緒に括られるが、本質的に聖書の神は三位一体であるがゆえに、ユニークなのだ。オーガニックであり、家族であるがゆえに、命令系統、階級、観察者、スーパーマンの独り舞台、宗教プログラムは堕落した人間の産物であり、教会からは排除すべき要素とバイオラは考える。

 

よく制度的、組織的教会へのアンチテーゼとして自由なハウスチャーチやスモールグループが提唱されるが、ともすると制度的教会で負った傷のなめ合い的な集まりになって批判に終始したり、自由さを強調するあまり、聖書からずれたりする可能性もある。バイオラの強みは徹底してキリスト中心、三位一体の神中心であり、イージーな道に逃げていないことだ。キリストの体にはコミットメント(献身)が必要と考える。だから、ポストモダンのコミットメントなき、コミュニティを批判している。第1世紀の教会は見える形で特定地域に定期的に存在していたことを強調する。バイオラは集まりたいときだけ、スターバックスに集まるようなものは教会と考えていない。

 

教会は特定の場所に可視的に、定期的に集まっていなければならない。そして、キリストだけが権威者であり、すべてのメンバーが体として機能することが励まされる。

 

(つづく)

 

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バイオラのホームページ

https://frankviola.com/portfolio/freestuff/

こちらではバイオラ著のorganic church planting(旧タイトルはFinding Organic Church)が無料で読めます。(英語のみ)

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年7月18日木曜日

「ペイガン・クリスチャニティ」 その2

 

前回に引き続き、フランク・バイオラの「Pagan Christianity?」(邦題「異教まみれのキリスト教」から、その主張の幾つかを挙げてみよう。

 

牧師という制度について

新約教会には一人の牧師が同じ会衆に毎週、何十年も説教している例はない。3世紀までは「一人牧師」による教会運営という制度は広まっていなかった。新約教会では、すべての人が預言していた(Iコリ14のであり、牧師を通してだけ神は語りかけるのではない。神は教会が機能するように、教会に賜を与えている。牧師(実は牧者=羊飼い)はケアテイカー、執事はサービスマン、で教会には役割を持った人が「複数」いる。牧師のワンマンショーは初代教会にはない。長老は権威者、ポジションではなく、年配の成熟したクリスチャンであった。

 

(コメント)

確かに、「あの大教会の執事様ですか。」といった会話は新約教会にはない。ポジションではないからだ。教会には階級制度はなく、命令系統もない。教会は家族であり、生命体である。ヘッドはキリストのみ。教会の階級制度は4Cにこれもコンスタンティン皇帝によって持ち込まれた。本当にクリスチャンなのか疑わしいコンスタンティン皇帝は、意図的にヘブル的要素を削除し、教会のために多くの「ローマ的=異教的添加物」を加えた。バシリアと呼ばれる礼拝堂、神学校や、教職者制度など。初代教会には、給料もらうフルタイムの職業牧師もいなかった。4Cにコンスタンティンによって給料をもらう教職者制度ができた。

 

 

聖餐式について

聖餐式は、そもそもは過越の食事であった。初代教会においては、基本的に愛餐会であり、フルミールだった。特別の儀式ではない。そのムードは罪赦された祝宴のムードで鎮痛な堅苦しいものではなかった。

 

(コメント)

現在、ほとんどの教会では愛餐会の中ではなく、礼拝プログラムの一部として聖餐式という「儀式」を教職者が荘厳に執り行うことになっている。ある教会では牧師が黒いガウンをま とい一般信徒とは違う特別な存在であることをアピールする。しかし、これは初代教会には見られないプラクティスだ。

 

礼拝プログラムについて

礼拝の順番は16Cのグレゴリアン ミサ(カトリック)を踏襲している。ルター、カルビンがリバイスしたが、牧師の説教を中心とする基本は変わっていない。新約教会には明確な礼拝オーダーがない。メッセージ前の長い牧師の祈りは17Cのピューリタンが始めた。説教スタイルは元を正せば、ギリシアの哲学者からの借り物。その後、クリソストムやアウグスチヌスがはやらせ、キリスト教信仰の中心的なものにした。そもそも日曜の午前中に礼拝プログラムをしなさいと聖書には書いていない。信者同士が集まることは大事だと語っているだけだ。(ヘブル10:25)実際、初代教会のクリスチャンたちは毎日会っていたようだ。(使徒2:46)

 

(コメント)

メッセージは行われていた。しかし、いわゆるメッセージは、巡回伝道者や使徒が行ったことで、エクレシアで毎回行われていた記録はない。バイオラによるとパウロは使徒であり、ローカルチャーチの牧師とは区別している。使徒は巡回使徒であり、基本的には一地域、一教会に定着していない。使徒は教会の土台を据える特別な存在であり、信徒たちが「使徒たちの教え」を大事にし守っていたことは確かだ。まだ新約聖書が無い時代だったので、使徒たちの教えが「新約聖書」だった訳だ。初代教会においては、信者は家々に集まり「使徒たちの教え」を守り。交わりを保ち、パン裂きをし(聖餐式という儀式ではない!)、祈りをしていた。エクレシアの礼拝は、そのように家族的で、シンプルなものだった。(使徒2:42)

 

10分の1献金について

マラキ書の10分の1はイスラエル国家の税金であり、祭りと貧しいものへの配給のためであった。(つまり社会福祉税のようなもの)レビ人(祭司階級)は10分の1から生活費を支給されたが、今は万人祭司の時代で、(キリストは至聖所の幕を破った)大祭司キリストと、すべての信徒(祭司)がいるのみ。レビ人のサポートは現在の牧師のサポートと解釈できない。ただし、巡回使徒や、巡回伝道者をローカルチャーチが支えていた事実はある。また、他教会の必要のため折々必要に応じてのささげものがあった。

 

(コメント)

新約では、ささげものの強調点は10分の1でなく、私達自身をささげるという霊的礼拝行為(ローマ12:2)である。「十分の一をおろそかにしてはいけない」(マタイ23:23)というイエスの言葉は、イエスの十字架と復活以前の旧約のパラダイムの中でのご発言で、イエスご自身ユダヤ教のラビとして律法に忠実であった。十字架以降、エルサレム会議での異邦人への取り扱いには、10分の一献金の義務はなかった。(使徒15:28−29)

 

長い間のキリスト教の歴史の中で、新約の律法、いわばプロテスタント教会の口伝律法が生まれていった。屋根の尖ったゴシック建築の教会堂、固定された長椅子。司会者用のさらに上段にある、牧師説教用の荘厳な説教台。決められた祝祷文、正装しての礼拝出席などなど。新約教会には無ったものが開発されていった。歴史的には、はじめの300年は、教会堂がなかった。アメリカでは献金の80%(50億ドル)は会堂に使われていることを考えると、会堂費と牧師給がなければ、何と多くの献金を宣教師や貧しい人にささげられるかと考えさせられる。

 

全員参加型のエクレシアへ

私の印象としては、新約のローカルチャーチは極めてシンプル。まさにエクレシアは、「集り」であり、制度組織というよりは、キリストの体(生命体)。新約教会は「お互いに」の要素を大事にする教会。牧師のワンマンショーではない!今日、牧師中心の頭でっかちな教会になっているのではないか。そもそも教会のCEOとしての「牧師」という言葉は聖書にはない。エペソ4章の「牧師」と訳されている言葉は「ポイメーン」であり、「羊飼い=牧者」と訳すべきだ。「牧者」という役割は聖書にある。しかし、それはいろいろある役割の中の1つである。(エペ4:11)牧者は組織のヘッドというより、教える賜物のある、また、魂をケアする成熟した長老の一人である。ポジションではない。1コリ12:28には「教える人」とはあっても牧師という言葉すら出ていない。教会は今日、すべての人が参加する(つまりお客さんがいない)家族としての、体としての教会になっているだろうか?礼拝は、ただ一方的に牧師の説教を受動的に聞く場になってしまっていないだろうか? 全員参加型のためには小さな教会がベターなのだ。キリストご自身も12弟子は

育てたが、メガチャーチを形成することはしなかった。

 

バイオラは1。職業牧師の撤廃、2。信徒が受動的となる儀式としての礼拝の撤廃を提唱している。「じゃあ、どうしたらいいの?」という疑問は、次の本、「Reimaging church」で提唱している。これについても後で、このブログで取り上げることにする。

 

ローカルチャーチはシンプルだが、社会にニーズのために率先して様々なミニストリー(やもめを支援、貧困者支援、病人の癒しなど)が神の導きと、信徒の賜物によって行われていた。シンプルな教会(交わり)と沢山のミニストリー、そんなイメージだ。「壁なき教会」という表現を最近、聞くが、新約の教会はそうやって社会の癒し、回復の役を担っていた。今日、信徒を神の国のため励まし整え、解き放つことが必要なのではないだろうか。そのために牧師への1点集中ではなく、キリストのヘッドシップをシリアスに受け止め、教会メンバー全員が、それぞれのミニストリーを展開することを励まし、神の国のために共に仕えるという広い視野が必要だろう。

 

(続く)

 

 

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執筆者:栗原一芳

2024年7月11日木曜日

「ペイガン・クリスチャニティ?」 その1

 

「異教まみれのキリスト教」出版に際して・・・

2008年アメリカで出版されベストセラーになり、同時に物議を醸した「Pagan Christianity?」が「異教まみれのキリスト教〜教会のルーツを探求する」と題してRACネットワークより出版の運びとなった。RACRethinking Authentic Church の頭文字を取っており、「本物の教会を再考する」人々のネットワークだ。8月初頭には販売開始で、基本的にはRACから3000円程度で、ネット注文となるようだ。

 

この本の内容は一言で言うと、現在、キリスト教会で行われている事のほとんどは聖書に根拠があると言うより、異教に起源があるという主張。これは最近、小林拓馬さんが動画で指摘くださっているような内容だ。つまり、キリスト教会で当たり前に行われているクリスマスやイースターは異教起源だし、日曜朝10時、会堂で行われる「日曜礼拝」という儀式、職業牧師が毎週同じ会衆に何年も続けて一方的に説教するスタイル、聖職者が執り行う聖餐式という儀式、また十一献金の強要などは、聖書的根拠がないという指摘だ。キリスト業界にとっては「不都合な事実」かもしれない。

 

313年、ローマ帝国下でキリスト教は「公認宗教」となり、392年にはローマ帝国の「国教」となる。それに伴い、意図的にヘブル的要素は削除され、ローマ色に調理されて「キリスト教」という初代教会のムーブメントとは似ても似つかない別物に変質してゆく。その「宗教・キリスト教」を完成させたのが中世のカトリック教会であり、ルターやカルバンが、宗教改革したものの、基本的に「宗教・キリスト教」を引きずっているのが現在のプロテスタント教会となる。

 

著者のフランク・バイオラとジョージ・バナーはこれら(教会で行っているプラクティスのほとんどが聖書的根拠が無いこと)を歴史的事実に基づいて証明しようとしている。一読すると「今の教会は聖書から逸脱している、現代のキリスト教をぶっ壊せ!」的なイメージを読者に与える。それだけに「危険視」され、アメリカでは物議を醸し、Youtubeでは「悪魔の書」だから読むなというメッセージも出回った。日本でも内容の危なさからか、10年以上たっても出版されないままだった。一部のクリスチャンたちの間で「知る人ぞ知る」本になっていた。しかし、バイオラが自身で言っているように、実は、「Pagan Christianity?」は次の書、「Reimaging Church」(教会を再考する)と2冊で1セットであり、これらは車の両輪のようなものだと。前書は「ぶっ壊す」側で、後者が「建て上げる」側だと。

 

今回、RACネットワーク(Rethinking Authentic Church)の松田健太郎氏が勇気を持って翻訳、出版してくださることになった。批判を覚悟で立ち上がった松田氏の勇気を褒め称えたい。自分も日本語翻訳のチェックをお手伝いさせて頂いた。また「ぶっ壊す」だけのイメージにならないように、「Reimaging Church」の翻訳もすでに進んでいると聞いて安心した。

 

自分は2009年にこの本の存在を知り、2009年から2010年フロリダ州滞在期間にバイオラ氏の本を読み漁った。目が開かれ、教会のあり方に疑問を持っていた自分は、間違っていなかったのだと大いに励まされた。そして、帰国後は残りの生涯、この「教会革命」のために捧げたいとさえ思っていた。なぜ「革命」なのか? もはや「刷新」では間に合わず、根本的な変革、すなわち「革命」が必要だとバイオラは考えている。そして、これがTMCを発足させることになった大きな動機ともなっていた。いわゆる「オーガニック・チャーチ」のモデルを形成したいという熱い思いだったのだ。現在、5つのTMC

エクレシアのメンバーは、その祝福に預かっている。

 

「異教まみれのキリスト教」出版に際して、10年以上前に、このテーマで、T M Cブログにアップした記事を、編集・加筆して再アップさせて頂くことにする。

 

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「ペイガン・クリスチャニティ?」 出版の背景

 

この本の出版される数年前に調査会社を運営するクリスチャンビジネスマンのジョージ・バナーが「レボリューション」という本を書き(和訳は地引網出版から)教会革命の先駆けとなった。その後、ジョージは同じ思いを抱くフランク・バイオラと出会い意気投合し、共著で「ペイガン・クリスチャニティ」を出版する運びとなった。インターネットでこのテーマに関しての、二人のラジオインタビューでの会話もアップロードされている。

 

「レボリューション」は日本語に翻訳出版されたのに、ペイガンの方は、あまりに過激な内容からか未だに日本語にはなっていない。これから、フランク・バイオラの「教会革命シリーズ」のうちの数冊を紹介し、私のコメントをつけてみたい。

 

まず、「ペイガン・クリスチャニティ」であるが、アメリカの文化的習慣的教会のやり方への批判が土台となっている。制度化、組織化された教会への批判である。バイオラは組織化・制度化された教会をInstitutional churchと呼んで、Organic church(有機体としての教会)と対比させている。そして、バイオラの主張は、現在の教会でやっていることのほとんどは新約聖書に無いことで、むしろ、異教に起源を発するというもの。当然、アメリカでは賛否両論、物議をかもした。しかし、考えるに値する。これに始まる「教会革命」は、この時代必要なことだろう。

 

知らないうちに正統派と自称している者が人間的伝統に甘んじて、かつてのパリサイ人のようになってくる可能性もある。「キリスト道」が「キリスト教」という「宗教」、文化なりさがってしまうこともある。そうすると、日曜の礼拝は、聖霊が無くてもできるプログラムとなってくる。スーパー牧師のワンマンショー、CEO牧師と教会の経営。顧客としての信徒。また「教会に行く」という初代教会ではありえないコンセプトがまかり通ってくる。

 

バイオラが観察するところの新約の教会とは・・・

 

Church is every believer functioning, shared life community. Head is Jesus alone. 

 

「イエスだけを頭とする、すべての信徒が参加、機能する人生、生活を分かち合うコミュニティ。 

 

しかし、「キリストのからだ」として始まった初代の有機的な教会は、すぐに変遷していく。3Cまでには、「聖―聖職者」「俗―一般信徒」の分化が明確になる。教会にヒエラルキーが生まれる。そこから神学校に行った特別な人だけが教会で仕えることができるようになっていった。

 

(つづく)

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執筆者:栗原一芳

 

 

2024年7月4日木曜日

神との直結


御霊が具体的な指示を与えるケース

御霊の働きというと、「御霊の実」(ガラテヤ5:23)がすぐに思い浮かぶでしょう。あるいは、「真理の御霊」(ヨハネ14:17)として「みことば」から真理を教えてくださる働きを思い浮かべるかも知れません。それらは大事な働きです。しかし、御霊の働きは、道徳的「実」だけではないのです。

 

ダビデが神殿作りのことを思い巡らしていると、神は具体的な「設計図」を示されました。

 

設計図はすべて御霊によって示された。I歴代28:12)

 

ずいぶん、具体的な話ですね。また、ダビデが戦場に出てゆく時、「出てゆくべきか、行かないべきか」の判断だけではなく、出て行った際の具体的な戦略まで示されるのです。

 

ダビデが再び神に伺うと、神は彼に仰せられた。「彼らを追って上って行くな。彼らに面と向かわず回り込み、バルサム樹の茂みの前から彼らに向かえ。バルサム樹の茂みの上で行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻めかかれ。」

I歴代14:14−15)

 

当時は「戦争」が日常的な営みだったのです。今で言えば、「政治」や「ビジネス」という事でしょう。

 

また、幕屋の工芸技術のために、ベツァルエルは、神の霊に満たされています。

 

主はモーセに次のように告げられた。「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。

(出エジプト31:1−5)

 

こうしてみると、道徳的「きよめ」だけではなく、「仕事」をするための具体的な「指示」や「技術力」が注がれていることが分かりますね。今、我々が携わっている非宗教的「仕事」の中でも、起こりうる事なのではないでしょうか?エクレシアのメンバーからも仕事に行き詰まった時、神からの違う「視野」が与えられ、現状を打開することができたという証は時々聞きます。全能の神はあなたの職場にもおられるのです。

 

「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と言われている限り、私たちは日常の中でも御霊の声を聞いて、具体的なアドバイスを受けても良いのです。具体的に示してくださることは「あり」なのだと思います。

 

神との直結

元悪魔崇拝者で、現在伝道者のジョン・ラミレスさんは、悪霊との交信で目の前の初対面の人の過去を知らされたことがあると証しています。日本にも東北のイタコや沖縄のユタという霊媒師がいますが、彼らは悪霊と「直結」しているので、「予見」が出来るのです。もし悪霊がそんな事ができるのであれば、聖霊にできない訳がないのです。

 

フォースクエア教団のスリランカの牧師、レズリー・キーゲルさんの証を聞いた時、驚きました。彼は明日、訪ねてくる人の悩みを前もって神に教えてもらうというのです。

 

事実、旧約聖書の預言者はかつて「予見者」と呼ばれていました。(サムエル9:9)預言者サムエルはサウルに会いに行った時、「3日前にいなくなったあなたの雌ロバについては、もう気にかけないでください。見つかっていますから。」と言っています。(サムエル9:20)無くしたものの場所を言い当てる占い師のような事をしているのです。

 

エリヤやエリシャはたくさんの癒しや不思議な奇跡をしました。水の中に落とした斧の頭が浮き上がってくるなど面白い奇跡がありますね。特に宗教的な奇跡ではありません。これがないと「仕事」ができなくて困ってしまうのでした。(II列王6:5)しかも、「借り物」でしたから。また、エリシャは子供を生き返らせることまでしています。(II 列王4章)パウロはピリピで、宣教の邪魔をする「悪霊」を追い出しています。(使徒16:18)大事なことは、これらは彼ら自身の力で為されたことではないのです。

神が彼らを「通して」働かれたのです。

 

予見、奇跡、癒し、悪霊追い出し、これらは神の業なのです。神は私たちを「通して」これらを為すことが可能なのです。神との直結の領域です。キリストが72人を宣教に遣わされた時、「わたしはあなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。」(ルカ10:19)と言われました。キリストの権威が弟子たちにも付与されたのです。

 

また、弟子たちを世界に送り出した、かの大宣教命令を下した時も「わたしには天においても、地においてもすべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って・・・」とキリストの権威がバックアップしていることを明言しておられます。私たちがキリストに留まり、神と「直結」しているならば、必要なときに、必要な事が起こるのです。この権威を内在していると言ってもいいでしょう。私たちは、このキリストを宿しています。(コロサイ1:27)

 

クリスチャンには聖霊が宿っています。聖霊は神です。これは例えやシンボルではなく、事実、神が宿っているのです。ある人は「私たちは歩く、パワースポットだ」と言いましたが、言い当て妙ですね。皆さんは、その事実をどれだけ真剣に受け取っているのでしょうか?

 

神から知恵をダウンロードする

私達は日常、インターネットから情報をダウンロードしていますね。全知全能の神に「直結」しているなら、その知恵や知識を頂くことは可能なのではないでしょうか?聖霊や悪霊は日曜朝の説教の中だけの話でしょうか?悪霊追い出しや癒しの力は、私たちを「通して」流して頂くことは可能なのではないでしょうか?事実、私たちはキリストのからだ(生命体)の一部となっているのです。キリスト教は「お勉強」ではないのです。霊の現実です。クリスチャンになるとは、聖霊を頂くという「霊的」な現象なのです。人がクリスチャンになるとは、霊的世界の「移行」です。霊的支配圏の移行です。今は御子の支配の中にいるのです。その権限と共に。

 

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。(コロサイ1:13)

 

イエスの宣教は「悪霊追い出し」「病人の癒し」と共に「御国の福音」を伝えたのです。いや、先の例を見たように、必ずしも「宗教的」な分野だけでなくても、神の知恵からのダウンロードはあるのです。あなたの仕事(ビジネス)の分野での有り得るのです。私たちは神の子供です。「アバ父」と呼ぶ霊を頂いています。神は父であり、私たちの関係は「父―子」の関係です。創造主なる神と直結しています。その権威を「行使」することを、シリアスに考えてみてもいいのではないでしょうか?

 

何でもあなた方が、地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなた方が地上で解くことは、天でも解かれます。(マタイ18:18)

 

これは「許し」「許可」の文脈ですが、天と地が繋がっているという事が語られている箇所です。祈りはイエスの御名を通して、天にいる全能者と繋がる(直結する)ことなのです。

 

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執筆者:栗原一芳