2024年7月18日木曜日

「ペイガン・クリスチャニティ」 その2

 

前回に引き続き、フランク・バイオラの「Pagan Christianity?」(邦題「異教まみれのキリスト教」から、その主張の幾つかを挙げてみよう。

 

牧師という制度について

新約教会には一人の牧師が同じ会衆に毎週、何十年も説教している例はない。3世紀までは「一人牧師」による教会運営という制度は広まっていなかった。新約教会では、すべての人が預言していた(Iコリ14のであり、牧師を通してだけ神は語りかけるのではない。神は教会が機能するように、教会に賜を与えている。牧師(実は牧者=羊飼い)はケアテイカー、執事はサービスマン、で教会には役割を持った人が「複数」いる。牧師のワンマンショーは初代教会にはない。長老は権威者、ポジションではなく、年配の成熟したクリスチャンであった。

 

(コメント)

確かに、「あの大教会の執事様ですか。」といった会話は新約教会にはない。ポジションではないからだ。教会には階級制度はなく、命令系統もない。教会は家族であり、生命体である。ヘッドはキリストのみ。教会の階級制度は4Cにこれもコンスタンティン皇帝によって持ち込まれた。本当にクリスチャンなのか疑わしいコンスタンティン皇帝は、意図的にヘブル的要素を削除し、教会のために多くの「ローマ的=異教的添加物」を加えた。バシリアと呼ばれる礼拝堂、神学校や、教職者制度など。初代教会には、給料もらうフルタイムの職業牧師もいなかった。4Cにコンスタンティンによって給料をもらう教職者制度ができた。

 

 

聖餐式について

聖餐式は、そもそもは過越の食事であった。初代教会においては、基本的に愛餐会であり、フルミールだった。特別の儀式ではない。そのムードは罪赦された祝宴のムードで鎮痛な堅苦しいものではなかった。

 

(コメント)

現在、ほとんどの教会では愛餐会の中ではなく、礼拝プログラムの一部として聖餐式という「儀式」を教職者が荘厳に執り行うことになっている。ある教会では牧師が黒いガウンをま とい一般信徒とは違う特別な存在であることをアピールする。しかし、これは初代教会には見られないプラクティスだ。

 

礼拝プログラムについて

礼拝の順番は16Cのグレゴリアン ミサ(カトリック)を踏襲している。ルター、カルビンがリバイスしたが、牧師の説教を中心とする基本は変わっていない。新約教会には明確な礼拝オーダーがない。メッセージ前の長い牧師の祈りは17Cのピューリタンが始めた。説教スタイルは元を正せば、ギリシアの哲学者からの借り物。その後、クリソストムやアウグスチヌスがはやらせ、キリスト教信仰の中心的なものにした。そもそも日曜の午前中に礼拝プログラムをしなさいと聖書には書いていない。信者同士が集まることは大事だと語っているだけだ。(ヘブル10:25)実際、初代教会のクリスチャンたちは毎日会っていたようだ。(使徒2:46)

 

(コメント)

メッセージは行われていた。しかし、いわゆるメッセージは、巡回伝道者や使徒が行ったことで、エクレシアで毎回行われていた記録はない。バイオラによるとパウロは使徒であり、ローカルチャーチの牧師とは区別している。使徒は巡回使徒であり、基本的には一地域、一教会に定着していない。使徒は教会の土台を据える特別な存在であり、信徒たちが「使徒たちの教え」を大事にし守っていたことは確かだ。まだ新約聖書が無い時代だったので、使徒たちの教えが「新約聖書」だった訳だ。初代教会においては、信者は家々に集まり「使徒たちの教え」を守り。交わりを保ち、パン裂きをし(聖餐式という儀式ではない!)、祈りをしていた。エクレシアの礼拝は、そのように家族的で、シンプルなものだった。(使徒2:42)

 

10分の1献金について

マラキ書の10分の1はイスラエル国家の税金であり、祭りと貧しいものへの配給のためであった。(つまり社会福祉税のようなもの)レビ人(祭司階級)は10分の1から生活費を支給されたが、今は万人祭司の時代で、(キリストは至聖所の幕を破った)大祭司キリストと、すべての信徒(祭司)がいるのみ。レビ人のサポートは現在の牧師のサポートと解釈できない。ただし、巡回使徒や、巡回伝道者をローカルチャーチが支えていた事実はある。また、他教会の必要のため折々必要に応じてのささげものがあった。

 

(コメント)

新約では、ささげものの強調点は10分の1でなく、私達自身をささげるという霊的礼拝行為(ローマ12:2)である。「十分の一をおろそかにしてはいけない」(マタイ23:23)というイエスの言葉は、イエスの十字架と復活以前の旧約のパラダイムの中でのご発言で、イエスご自身ユダヤ教のラビとして律法に忠実であった。十字架以降、エルサレム会議での異邦人への取り扱いには、10分の一献金の義務はなかった。(使徒15:28−29)

 

長い間のキリスト教の歴史の中で、新約の律法、いわばプロテスタント教会の口伝律法が生まれていった。屋根の尖ったゴシック建築の教会堂、固定された長椅子。司会者用のさらに上段にある、牧師説教用の荘厳な説教台。決められた祝祷文、正装しての礼拝出席などなど。新約教会には無ったものが開発されていった。歴史的には、はじめの300年は、教会堂がなかった。アメリカでは献金の80%(50億ドル)は会堂に使われていることを考えると、会堂費と牧師給がなければ、何と多くの献金を宣教師や貧しい人にささげられるかと考えさせられる。

 

全員参加型のエクレシアへ

私の印象としては、新約のローカルチャーチは極めてシンプル。まさにエクレシアは、「集り」であり、制度組織というよりは、キリストの体(生命体)。新約教会は「お互いに」の要素を大事にする教会。牧師のワンマンショーではない!今日、牧師中心の頭でっかちな教会になっているのではないか。そもそも教会のCEOとしての「牧師」という言葉は聖書にはない。エペソ4章の「牧師」と訳されている言葉は「ポイメーン」であり、「羊飼い=牧者」と訳すべきだ。「牧者」という役割は聖書にある。しかし、それはいろいろある役割の中の1つである。(エペ4:11)牧者は組織のヘッドというより、教える賜物のある、また、魂をケアする成熟した長老の一人である。ポジションではない。1コリ12:28には「教える人」とはあっても牧師という言葉すら出ていない。教会は今日、すべての人が参加する(つまりお客さんがいない)家族としての、体としての教会になっているだろうか?礼拝は、ただ一方的に牧師の説教を受動的に聞く場になってしまっていないだろうか? 全員参加型のためには小さな教会がベターなのだ。キリストご自身も12弟子は

育てたが、メガチャーチを形成することはしなかった。

 

バイオラは1。職業牧師の撤廃、2。信徒が受動的となる儀式としての礼拝の撤廃を提唱している。「じゃあ、どうしたらいいの?」という疑問は、次の本、「Reimaging church」で提唱している。これについても後で、このブログで取り上げることにする。

 

ローカルチャーチはシンプルだが、社会にニーズのために率先して様々なミニストリー(やもめを支援、貧困者支援、病人の癒しなど)が神の導きと、信徒の賜物によって行われていた。シンプルな教会(交わり)と沢山のミニストリー、そんなイメージだ。「壁なき教会」という表現を最近、聞くが、新約の教会はそうやって社会の癒し、回復の役を担っていた。今日、信徒を神の国のため励まし整え、解き放つことが必要なのではないだろうか。そのために牧師への1点集中ではなく、キリストのヘッドシップをシリアスに受け止め、教会メンバー全員が、それぞれのミニストリーを展開することを励まし、神の国のために共に仕えるという広い視野が必要だろう。

 

(続く)

 

 

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執筆者:栗原一芳

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