2013年4月27日土曜日

「メディア・テロの脅威とコミュニティ」



 最近、ツイッターで「オバマ大統領が爆破で怪我をした。」というデマが飛んで、2分間で140ドル、株が下がったそうです。1個人の発信が世界に影響を与えてしまう時代なんですね。また、サイバーテロという新しい形態の犯罪も増えてきています。犯人が特定しにくく、しかも標的型の攻撃が増えているのです。サイバーテロの一番の標的は防衛関係ではなく、実はエネルギー関係だそうです。約9割はエネルギーをねらったものです。町はスマートシティ構想でライフラインをインターネットで一括管理へと向かっているので、サイバーテロで町のライフラインがストップするという事態が考えられるのです。かつて地下鉄サリン事件や秋葉原事件を防げず、体験してしまった東京では、今後、サイバーテロや核テロが起らない保証はありません。それが宗教的信念によることもあるだろうし、まったく個人的な社会への恨みから起る事もある。こうしている今もカルト集団や個人が計画を練っている可能性もあるのです。

先日、北朝鮮のミサイル脅威の中、韓国に出張しました。その際、友人の韓国人クリスチャンに最近の教会の成長について聞いてみました。あまり芳しくないようです。理由は、キリスト教に反対するメディアの影響が大きいというのです。確かに、メガチャーチの不明朗会計や継承者の世襲問題など火種はあるのですが、それがツイッターなどで広まり、一般のメディアも書き立てるので、結果として、キリスト教会全体への不信を煽り、ネガティブなムードを作ってしまうというのです。

今日、悪意を持った人が、あるいは傷を負った人が自分を傷つけた(それが単なる思い込みであっても)教会や団体を潰すために故意にソーシャルメディアを使って悪い噂を流す事は、いとも簡単にできてしまうのです。それは個人間の問題に留まらず、すぐに世界にまで広がり影響を与えてしまいます。人から人への感染する鳥インフルエンザが世界的流行(パンデミック)となるように、悪いニュースもあっという間に広がってしまうのです。しかも、ツイッターの短い文章では説明も十分できません。短い明確なメッセージを出してしまった方が勝ちとなる可能性があります。ゆっくり正論を説明している間に噂はあっいう間に広がってしまう。今回、選挙でもインターネットやソーシャルメディアが解禁となり、政治家が自分のメッセージを気軽に発信できる便利さはあるものの、ツイッター炎上など負の影響も又、大きいことを知るべきでしょう。

新しい時代の脅威に教会も備える必要があるのではないでしょうか?教会に悪意を持つ人はソーシャルメディアを使って攻撃してくる時代なのです。もちろん罪が事実なら、罪を隠し通せないといういい面もあるでしょう。しかし、事実無根の噂が広められることも又、可能なのです。江戸時代、キリシタンは怖いもの、信じてはいけないものというイメージが植えられていったのです。田舎ではまだ、その後遺症があるようです。事実よりイメージが先行してしまうのです。今では、そのイメージ作りが簡単にできてしまうのです。ともあれ、今後、牧師、宣教師、教会員にどんなことが起るかわかりません。誘拐拉致事件の場合、犯人とのネゴシエーションを妨げないため、あるいは教職者の道徳問題などにつき教会員やクリスチャンの友達が勝手に余計なことを書き込まないように注意する必要も出てくるでしょう。危機は地震だけではないので、新しい時代のいろいろな危機に対する危機管理の必要が出て来ているようです。

それにしても、だからこそ、顔と顔を合わせての信頼の置ける関係、自分を理解し、味方になってくれる人達のコミュニティが大事になってくるのではないでしょうか。ウソが流布してしまった時「いや、あの人はそういう事はしない。」と一緒に立ってくれる人がいなければ、その勢いに押し倒されてしまうでしょう。真実よりも「ワンフレーズ勝ち」となってしまうことは怖い事です。インターネット教会の善し悪しの議論もありますがメッセージを聞くツールとしてはいいでしょうが、エクレシア(少人数で定期的に顔を合わせ、分かち合える関係)の代替にはならないのです。信頼はじっくり築かれる。ワンフレーズ、ワンクリックの時代だからこそ、時間のかかるコミュニティ作りの重要性が浮かび上がってくるのです。

さて、テロは人災であり、人災には人的要素、すなわち背後に犯行理由や動機があるのです。アメリカの殺人犯罪は圧倒的に「若い男性」によって起こされています。しかも、父親を知らない若い男性による犯罪が多いというのです。以下、アメリカ滞在の友人の牧師から送られて来た資料です。
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実際、全米で最も殺人の多いシカゴを例にとると、貧困地域に於ける若い黒人たちの80%は非嫡出子であり、父親を知らずに育ちます。統計を見るならば父親不在の問題は火を見るより明らかです。父親不在の家庭で成長した若い男性が刑務所に入る率は両親がいる家庭に比べ、二倍です。自死を選ぶ若者の63%、問題行動を起こす子供の85%、高校を卒業しない子供の71%、少年院に入る子供の70%は皆、父親不在の家庭で育っています。さらに向学心のなさ、性行動の低年齢化、性同一性障害、麻薬の常用、衝動的怒り等の問題どれ一つとっても父親不在と明確な関連があります。また父親不在の空白を埋めるようにしてギャングの親分や、過激な思想を植え付ける宗教指導者、大学教授が暗躍するわけです。父親不在が社会にもたらす影響については現在多くの研究がなされており、その全てが現代アメリカの社会問題は全て「父親不在」と連動していると結論づけています。

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あのボストンマラソンテロの犯人もロシアからの移民でアメリカ生活になじめなかった若者のようです。秋葉原事件の犯人も「孤独」という背景が浮かび上がってきます。「孤独は罪を呼ぶ」という言葉もあります。自分を拒絶した「社会」への憎しみが無差別大量殺人へと駆り立てます。彼らがスモールグループのコミュニティに繋がっていたならと思います。愛し、愛されるコミュニティを作ることは、社会の犯罪を減らすことに貢献することにもなるのです。東京砂漠に沢山の絆、すなわち顔と顔を定期的に会わせられるコミュニティを築いていくことに使命を感じています。25年すると、男性の三分の一、女性の四分の一は、一人暮らしになるというのです。無縁社会と言われる中で、コミュニティ形成が大事になりますね。
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asktmc@gmail.com (栗原)


2013年4月13日土曜日

「きずな」



 3:11以来、「絆」「コミュニティ」がキーワードになっています。あの震災後、結婚する人が増えたというのです。大事な人と一緒にいたい。そういうことなんでしょうね。大震災が起れば、愛する者達との別れに直面しなければならないかも知れません。その時、後悔しないように「今」大切な人達との時間を「大切」にしたいものです。

先日、マンションコミュニティ研究会の月例会に参加してきました。これは、関係が希薄なマンションで、どう関係作りを進め、コミュニティ形成を進めたらいいかを研究している会です。マンション管理士やマンション理事などを中心に東京の各地から月島に集まってきています。「ちょっとの勇気で声をかけることから親しい関係になった。」という証もありました。クリスチャンの集まりではありませんが、「結局、管理人さんや、周りの人に感謝することです。」と聖書的なメッセージで締めくくられました。スピーカーの一人で知り合いの牧師は同じマンションのフロアの人にホームパーティの案内を送ると、初回に4家族、次に8家族と増えていったというのです。そして「声をかけてくださりありがとう」とそんな呼びかけを待っていた人もました。震災の時にはマンションに一人住まいの人は家具の下敷きになって動けなくなっていても、外からはわからないし、声も届かない場合もある。「あの人どうしてる?」と言ってもらえる関係を作っておく事が大事ではないでしょうか。特に男性は引きもりがちなので、要注意。これが、仮設住宅でも問題になっています。先日、VIP池袋(クリスチャンビジネスマンの集まり)で防災セミナーをさせて頂きましたが、今年のテーマは「絆」だそうです。それで次期震災においても、今から「絆」作りが大事であることを語らせていただきました。

私達は5−6名銀座で毎週集い、オーガニックチャーチを試みています。少人数のスモールグループで生活のstruggleを正直に分かち合います。一人では切り抜けられない危機を祈りの仲間が支ます。そうやって今までも、多くの祈りの答えを見てきました。確かに主は生きておられ、働いておられるのです。それを至近距離で見る事ができるのは幸いです。あえてハウスチャーチという言葉を使っていないのは、大事なのはハウスという「場所」ではなく、「人」であり、生きたキリストの体にフォーカスしたいからなのです。例え、家で集まっていても一方的な牧師の説教で終わってしまう事もあり得えますから。大事なのは「お互い」という双方向のコミュニケーション。そして、その真ん中にイエスがおられる。もちろん、銀座で集うだけでなく、メールのやり取りやフェイスブックでの分ち合い、たまには週末の交わりもあります。それは自然発生的に起るのです。型にはまった「集会」「礼拝」より、正にオーガニックな有機的な関係。神に対しても、人に対しても、オーガニックな結びつきが大事です。先日、ある集会で証を頼まれ「私は何度も東京都内を歩き回って祈りました。」と話しました。集会後、ある婦人が「歩きながら祈るんですか?」と質問してきました。そこで私は「はい、歩きながらでも、電車の中でも、どこでも祈ります。」と答えました。祈りは神との会話なのだから「祈りの時間に、祈りの姿勢で」とは限らないでしょう。形式より、オーガニックな関係。そのほうが神との絆が深くなります。そして人に対しても、神に対しても自分が話すより、聞く事にフォーカスすると絆が深くなります。一方的に沢山喋る人は、実は他人との絆を築いていない場合が多いのです。オーガニックな命ある関係になるには、双方向に流れないといけないのです。神との会話の中で「私のことをどう思っていますか?」と聞くと、「おまえは、わたしの愛する子、おまえを喜ぶ。」と答えてくださいます。そういう双方向性です。知人の牧師は言いました。「礼拝はイエス様にギュッと抱きしめられること。」いいですね。私達も、またイエス様にギュッと抱きつくことができるのです。

信頼や絆が無いと、その人の事を思って言っていることでも反発します。これは親子の関係でも、神様との関係でも起ります。オーガニックは自然体なのです。生きているのです。オーガニック野菜は健康で栄養たっぷり、美味しいのです。教会もそうです。日曜日だけのいい顔ではダメです。自然体でないと、そして、イエス様に有機的に繋がってないと「実」を結ばないし、「絆」は作れないのです。
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asktmc@gmail.com (栗原)

2013年3月31日日曜日

「遊び」を神学する



 ニューヨークにはセントラルパークがあり、東京には日比谷公園や代々木公園がある。一見、非生産で土地を無駄にしているように思える。しかし、都会だからこそ、この「遊び」スペースが必要なのだ。さらに興味深いのは美術館。人々はこの非日常空間で、立ち止まり、作品を見、自分を顧みる。静けさの中で、霊的な体験さえする。ある意味の礼拝堂なのだ。

「新しいものを展示し、その意味を問いかける実験室、記憶の消滅に対抗するための作品の収集保管(記憶の保管庫)であると同時に、美術館は、非物質的なもの精神的なものとの出会いの場所として、宗教的な礼拝の場所に比較されることが多い。」(「キュレーション」 長谷川祐子 集英社新書)

都会人にとって、日常生活から逸脱する「他なる場」が必要なのだ。かといって全くのユートピアに行く訳にはいかない。そこで美術館や公園、図書館の存在がある。確かに、静かな図書館に座っていると礼拝堂にいるのと同じような気持ちの安らぎを感じ得る。

「美術館は非日常的な空間である。我々は予測可能な日常空間だけでは息が詰まってしまう。予測不可能で非日常的な要素が都市の中には必要で、例えば都市の中に流れている水としての川が、その例である。」(同書p.80)

佃や、豊洲といった水のあるところにいくとワクワクするのは私だけだろうか?私の知人の芸術家は多摩川にスピリチュアルなものを感じるとして、多摩川の絵をよく描いていた。現代人は宗教性を失ったのではない。非日常世界やスピリデュアルな渇きを失ったのではない。ただ、礼拝堂に行く代わりに例えば「映画館」にいって非日常を体験し、魂をリフレッシュし、時に人生を変えるメッセージを受け取っているのだ。これはトーマス・ルックマンが「Invisible Religion 」の中ですでに指摘している。現代でも魂の癒しや高揚は必要なのであって、ただ、現代的なツールにsubstituteしているのだ。いずれにしても会社や学校といった日常空間とは違う「場」で魂の癒しや高揚、すなわちスピリチュアルな体験をしている。それは「遊びの空間」と言ってもいい。

前に紹介した「わが故郷、天にあらず」の中で、ポール・マーシャルは「遊びはクリスチャンにとって最も崇高な召しの1つだ。」と断言している。「私達の生活の多くの時間は、何かを生産したり変えたりすることに使われているが、遊びはそうではない。単純にこの世界でくつろぎ、神との平和を楽しんでいるのだ。」(p.118) さらに「遊びとは理由もなく、することだ。遊びは遊び以外の理由で為されない。・・だが、遊び自体はすばらしく正当で、敬虔な仕事だ。なぜ敬虔なのか?それは役に立たないからだ。遊びは本来、役に立たないものなのだ。・・本当の遊びとは他のどんな理由のためにもなされないものである。・・私達が神を礼拝するのに、礼拝以外の隠れた目的はない。家族や友達と楽しく過ごすのは、それ自体が楽しいからだ。夕日を見つめるのは、それが何かの別の目標達成に役立つからではない。私達が遊ぶのも、それが本当の遊びなら、ただひたすら遊びたいからなのだ。ここで、礼拝、信仰、休息、遊びが互いに関連しているのがわかるだろう。・・・遊びは礼拝に似ている。旧約聖書の箴言は、擬人化された知恵について語っている。その知恵は、主の御前に遊んでいた。」

毎日、毎日、私はそこで遊んでいた。
神の御顔の前で、いつも遊び回っていた。
神の造られた地上でくまなく遊び、
すべての人々と楽しんだ
          (箴言8:30−31 カル・スイアフェルト訳)

ユーモラスなマンボウやカメレオンを見る時、神の創造の遊び心を見る。機能だけならこの世界を全部灰色にしても良かった。しかし、この春、美しい桜のピンク色を私達は楽しんでいる。

福音派には敬遠されていたラディカル神学の中に「遊びの神学」というのがある。神は何か不足があって「必要」から世界を造ったのではない。そうであれば神は自己充足の神ではなくなる。「必要」からでなく、世界を造ったのであれば、それは「遊び」ではないかと。不敬虔に聞こえるが一理ある。一番、大事なものはお金で買えない。命はセックスという究極の「遊び」から生まれるではないか。人間にとって一番大事なのは神を「礼拝」することではないか?礼拝は産業とは対極にあるもので、むしろ「遊び」に近い。恋人達のデートに近い。「遊び」はまた、「セレブレーション」と言ってもいい。遊びは祭り(セレブレーション)と親密性がある。プロテスタントにはカトリックに比べ「祭り」や「儀式」が少ない。「世俗都市」で60年代一躍有名になったラディカル神学者のハービー・コックスは「愚か者の饗宴」(1969)でプロテスタントにはもっと「祭り」が必要であると提唱していた。

走り続けていてはいけない。時々、立ち止まって過去を記憶し、瞑想し、祝福する「祭り」が必要なのだ。それが現在を確認し、前に進ませる力となる。イスラエルの人々は、一度進行を止め、「神がここまで助けてくださった」として石を積み上げ記憶した。一週間に一日、安息日がある。リズムがある。それを神は計画された。車のハンドルには「遊び」がある。だからスムースに車をコントロールできる。遊びやしなやかさが無いものはパキンと折れる。だから「遊び」は「仕事」同様、神からの崇高な召しであり、同等に大事なものだ。

また、遊びはセレブレーションであるがゆえ、「笑い」でもある。人生を思い詰めないために言う「ジョーク」は大事な言葉の「遊び」なのだ。仕事が大変な時こそジョークを言う。人を笑わせるコメディアンは、知らずして神の業を為しているのだろう。腹を抱えるほどに笑わせるのは神聖な奉仕だ。その側面がないと人生がパキンと折れる。まじめな人ほど鬱になる。イエスはユーモアを大事にされた。神は冗談がわからない方ではない。
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ご感想をお待ちしています。
asktmc@gmail.com (栗原)

2013年3月19日火曜日

人生成功の秘訣


人生成功の秘訣

単なる、仕事の成功ではありません。人生の成功の話です。お金を儲けても人生が貧しい人もいるでしょう。神が与えようとしているのは豊な人生(ヨハネ10:10)なのです。全ての領域で豊になる。そんな人生を送るには、まず健全なマインドセットが必要です。

MIND SET: 前提となる3つのこと

1. あなたは神に似せて造られた最高傑作です。(最高のセフルイメージ)創1:27
GOD MAKES NO JUNKという言葉がある。最高の神が精魂込めてお造りになった
最高作品があなたです。

2. あなたは神に愛されています。(最高の原動力)  Iヨハネ4:10
神は精魂込めてお造りになった「あなた」を当然、大切に思っています。愛とは大事にすること。毎朝、「神様、私をどう思ってますか?」と聞いてみてください。愛されていることは最大の、そして最高の人生の原動力、モティベーションとなるのです。

3. あなたの人生には大きな目的があります。(最高の目的) 天命 エペ2:10
それほど、大切な存在である「あなた」には、神が託しておられる大きな大事な目的があるのです。そうでなければ、信じた時、すぐに天に引き上げられているはずです。この地上で大切なお役目があるのです。 
       
(3つのポイントは「王様マインドと奴隷マインド」 松島修著 サンマーク出版による)


この前提に生きる事が王様マインド。その反対が奴隷マインド。その反対を考えてみましょう。すなわち

1. 自分は駄作だ。ダメな人間だ。
2. 誰も愛してくれない。愛される価値もない。価値は自分でつける。
3. 生きている意味がない。仕事に意味がない。その日、その日を食いつなげればいい。

このような生き方の人が幸せになるでしょうか?それは一目瞭然です。しかし、人生に迷う時、仕事で落ち込む時、サタンは奴隷マインドに私達を誘惑します。「どうせオレなんか」と。その時、悪魔の声を振り捨てて、王様マインドに戻るべきです。奴隷マインドでは絶対に幸せになれません。

さて、マインドセットが決まったら、優先順位です。

PRIORITY 
聖書には「金銭を愛する事は、すべての悪の根です。」(第一テモテ6:10)とあります。お金自体は悪ではありません。金銭を愛することが悪なのです。愛するのは「人」であって「金」ではありません。「人」は愛するもの、「金」は人を愛するため使うもの。しかし、現代では「金」を愛して、「人」をその手段に使ってしまうのです。この優先順位が間違うと決してよい家庭、会社、社会にはなりません。ついには環境、人間関係、信頼、そして幸せを失うのです。

神の姿に造られた人間はこの地を「治める」よう(Develop) 命じられたのです。自然搾取は聖書的ではありません。17Cからの人間中心主義の影響です。聖書では管理、つまり与えられているリソースの管理(お金、時間、自然界の資源、人材・・・・)、ケアすることを言っているのです。だからCO2, 生物多様性。エネルギー問題も全部、クリスチャンに関係あるのです。神の姿に作られた人間として、責任があるのです。神は人間だけでなく、全環境に関心がある。ノアの箱船を見ればわかりますよね。

管理者であるとは所有者でないということです。ここを間違ってはいけません。所有者は神。神が主人であることを認める。私達はその神からお金も時間もリソースも任されている。それを主人のお心に沿って管理しなければなりません。率直に言えば、お金儲けを目的としないということです。お金は目的でなく、あくまで手段なのです。 神と人を愛することが目的。愛のためにお金を使うことを考えていれば脱線しません。

ACCOUNTABILITY –報告義務
ルカ19:15−23(ミナの譬え) ここでわかるのは、与えられたリソース(才能、時間、お金など)を効果的に使うということです。管理ができた人は主人にほめられ、やがて、町を支配するのです。私達は御国を受け継ぐのです。キリストとの共同相続人です。また、人生の終わりに主人から「あなたに与えた時間、お金、能力をどう使いましたか?」と問われるのです。報告義務があるのです。御国のために投資したか、浪費したかということです?

 MISSION
あなたの人生には目的があります。人生の目的、言い換えればライフワーク、ミッション、使命、天職、天命とも言えるでしょう。その使命は、この地上を素晴らしい天国のようなところに変えてゆくことです。皆さんは、主の祈りで「天に御心がなるように、地でもなりますように」と祈りますね。後は寝転がって何もしないのでしょうか?あなたは、神の姿に造られた神のパートナー、王の見習い人なのです。神と共に御国がこの地上に実現するように働くのです。そして、やがて御国が任されるのです。奴隷は目の前の言われた事しかしません。使命ではなく、単なる仕事だからです。他者が自分に何をしてくれるのか、ではなく、自分は他者に何ができるかというマインドセット。これが王様マインドです。神の姿に作られた王様の代理人。王様見習い。社長の目で、市長の目で、総理の目で王の目で見て考え、行動します。これが幸せの秘訣。お任せ民主主義からの脱却。国の批判より、何が出来るかを考え行動しましょう?与えられている場所で使命感を持ちましょう。神からの目的(天命)のために自分を成長させ、時間、お金、リソースを効果的に使いましょう。

LIFE STYLE
仕事自体が社会をよい方向に変革するものと理解しましょう。王様マインドの仕事は、人を幸福にすることでお金は後からついてくる、人を富ませることで報酬を得るのです。働くのは生活のため、残りの時間に社会貢献と遊びと切り分けない。人生の70−80%を使う仕事は必要悪なのでしょうか?仕方の無い徒労なのでしょうか?神はそのように私達の人生を意図したのでしょうか?羊が来たのは私達が命を得、それを豊かに持つためではないでしょうか。一人子イエスが命を捨ててまで購ったあなたの人生なのです。1日たりとも無駄なはずはありません。「王様マインドの著者、松島さんは、仕事、社会貢献、遊びの三位一体を提唱しています。これぞ、人生の成功者の姿です。
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推薦本:「王様マインドと奴隷マインド」 松島修著 サンマーク出版

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2013年3月5日火曜日

セレブレーションの主



 日本のキリスト教界では十字架が強調されるが、そこで止まっている感がある。主は復活した。だから、西洋ではイースターは華々しいお祭りとなっている。クリスマス以上にイースターを祝うべきなのだ。イースターこそ、福音(グッドニュース)の花火。主は死と闇に打ち勝ったのだ。

さて、ヨハネの福音書には7つの奇跡が記されているが、最初の奇跡があのカナの婚礼での水をワインに変えるという奇跡。ラザロの復活と比べると何ともかわいい奇跡。そして、ここのムードはとてつもなく明るい。さて、どうしてこの奇跡が一番始め、イエスのミニストリーのオープニングを飾っているのか?ラザロの復活のほうがドラマチックじゃないのか?しかし、これはイエスの働きのオープニングには相応しかった。イエスは祝宴の席にいた。一緒に飲み食いしていた。イエスはよく一緒に食事をする人。イエスは笑ったかという神学論文があるそうだが、イエスは笑い声のするパーティが大好きだったのだろう。祝宴の席にいただけでなく、水をワインに変えた。みんながもっと楽しくなるように。喜ぶように上質のワインに変えた。(ワインを飲む事が罪ならイエスは絶対にこの奇跡をしなかったはずだ)

水の上を歩くのも凄い奇跡だし、嵐を鎮めるのも凄いが、自然法則がより強い力で治められたということで、質が変わったのではない。ワインの奇跡においてのみ、質が変えられている。H2Oの分子が変わってCH3OHエタノールになった!地味だが、ここが重要。イエスは人生の質を変える。つまらぬ味気ない人生から毎日がセレブレーションの人生へ。

ワインは祝宴のシンボル。ここで神は、人生は本来、主とともに歩くセレブレーションというメッセージを伝えたかったのだと思う。66巻の聖書の真ん中あたりに雅歌がある。難しい律法書でも、神学書でもない。なんとこれはソロモン王が書いた“LOVE SONG”なのだ。しかしこれこそ神と私たちの関係を一番よく描写している。礼拝の本質を一番よく表している。あれしろ、これするなの律法ではなく、愛し愛されているという関係。信仰は愛の祝宴なのだ。事実、イエス様と教会の関係は花婿と花嫁として描かれているし、「礼拝」の語源はkissだという。放蕩息子が戻ってきたとき、それはセレブレーションであった。父は戻ってきた息子をハグして、キスして喜んだ。パーティを開いた。一人の罪びとが悔い改めると天で大きな喜びが湧き上がる。さて、私たちクリスチャンは、どこに向かっているのか? ヘブル12:22にはこうある。


「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝宴に近づいているのです。」 


 私達は滅び、闇、混乱に近づいているのではない。行き着くところはセレブレーション。
 ゴールを知って生きることは大事です。私たちはどこに向かっているのか?以前の天と以前の地は過ぎ去る。新しい天と新しい地がくる。(黙示21:1)そこでの祝宴に近づいている。これが事実なのです。だから、カナンの祝宴はその雛形。だからイエスのミニストリーのオープニングに相応しかった。

 日本には、一生懸命まじめなクリスチャンが多い。しかし、ともするとマリアよりはマルタ、放蕩息子よりはお兄さんのような喜びの無い、律法的なクリスチャンが多い。神はあなたの存在を喜んでいる。三位一体はお互いを賛美し、喜び踊っている姿と言われている。そのよろこびと交わりを体験させたくて神は人を作り、愛を注いだ。

 イスラエルの十一献金について驚くべき箇所がある。申命記14:24−26。

 「もし、みちのりがあまりに遠すぎ、持って行く事が出来ないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶべき場所にいきなさい。あなたはそこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、ひつじ、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。」

 ここで民が十一献金を用いて飲み食いし、楽しむよう神に命じられている!ということだ。パーティに使われたとも言える。3年ごとに十一献金は盛大な「祭り」のため使われ、みなしご、やもめを養うと共に満ち足りるまで食べて飲んだのだ。祭りはセレブレーションそのもの。さらに申命記14:29には「あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」とある。すなわち仕事への報いとしての3年ごとの祭りパーティなのである。神はあなたの仕事に報いたいのだ。23節にも捧げたぶどう酒、油、牛、羊の十一を食べなさいとある。十一を神が取り上げるのではなく、民に返されてる。それこそティム・ケラー(NYリディーマー教会牧師)が言うごとく放蕩息子ならぬ、「放蕩の神」なのだ。溢れるばかりに、御子さえも惜しみなく与えたもう神。この神と共に歩から人生はセレブレーション。

 姦淫と人殺しをしたダビデがどうして、イスラエルのヒーローであり、神が高く評価するのか納得がいかなかったが、I歴代誌29章を読んでいる時、その答えを見たような気がした。神のために沢山働いた人は多くいるだろう。犠牲を払った人は多くいるだろう。殉教した人さえいる。しかし、ダビデほど、神を「喜んだ」人がいるだろうか? ダビデはセレブレーションの極意を得ていたのではないか? 王権を息子のソロモンに渡す時の事だ。

 「その日の翌日、彼らは主にいけにえをささげ、全焼のいけにえをささげた。雄牛千頭、雄羊千頭、子羊千頭、これらに添える注ぎのぶどう酒、それに全イスラエルのためおびただしいいけにえをささげた。」(I歴代29:21)

 悲痛な顔を捧げたのではない。喜んで進んで捧げたのだ。そして、1000頭のバーベキューを分かち合って皆で食べたのだろう。次の節にこうある。

 「彼らはその日、大いに喜んで、主の前に食べたり飲んだりし、・・・・」

 まさにそれはセレブレーション。カナの婚宴がダブってくる。

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2013年2月25日月曜日

救命ボード神学VS箱船神学



 「わが故郷、天にあらず」原題はHeaven is not My home. 著者はポール・マーシャル。いのちのことば社から翻訳本が出ている。副題が「この世で創造的に生きる」冒頭、ダラス・ウィラードの引用がある。「神というお方を、世界の現実として心からとらえることができなければならない。教会が、死後の人生よりも今の人生に関わるものとして福音を理解し、またその理解を深めなければ、両方の人生に支障をきたすことになる。教会の外にいる人たちには、キリスト教という宗教は現実の生活とは何の関係もないものと考えるだろう。教会内部にいる人たちは、教会での奉仕以外の生活をまるで神のいない世界のように感じるだろう。ここには、よく私達が議論する聖俗の分離ということよりも深い問題がある。ここで真に問われているのは、イエス・キリストの福音をどのように理解するかだ。キリストは自然界の真ただ中に霊的な世界をもたらし、そして、今ここで永遠の命に生きるようにと、私達一人一人を招いていてくださっているのだ。」

先日、日常の会話を用いて福音を伝える事を試みるセミナーに出た。会社や学校でノンクリスチャンが話している浅い会話を軽蔑してはいけない。その会話から福音を語ることを考えるべきだと学んだ。聖書の世界観を先ず頭に入れる。それは4つのチャプターからなる。(以前「御国のストーリー」で取り上げた)1。創造、2。堕落 3。購い 4。回復。多くのヒーロー映画はこのプロットに従っている。初めは平和な「あるべき世界」があった。そこに悪者が入り込み、悪をはびこらせる。そして、ヒーローが現れ悪者を退治する。やがて平和な世界が取り戻される。つまり、バットマンもウルトラマンも聖書の世界観に沿っているのだ。クリスチャンが社会で起っている出来事にノンクリスチャン同様に関心をもって、話題にし、一緒に話す事で福音のきっかけができる。誰もが「あるべき世界」を無意識的に描いている。同時に今、目の前の社会がそうでないことを知っている。何かが歪んでいることを体験的に知っているのだ。クリスチャンはそれが罪(神との関係、人との関係の歪み)と聖書から教えられている。

まず、ここで非常に大事なのは終末論である。「世界は人間のあらゆる営みとともに滅ぼされる」という立場に立てば、クリスチャンが「この世」のことに関わる事、すなわち仕事、教会以外の生活や社会的責任がないがしろにされてしまう。「どんなに慈善事業しようとも、この世界はどうせ滅ぼされる。どっちみち神の一方的な業による新天新地が来る」ということなら現在、目の前の慈善事業に力が入らなくなるだろう。会社の仕事に力が入らなくなるだろう。そして、とにかくそんなことより魂の救い、社会的責任より伝道さえしていれば良いという事になる。ここでマーシャルは「神が魂の救いにのみ関心があったら、どうしてノアの箱船に人間だけでなく、動物も入れたのか?」と問う。

「この考え方は(救命ボート神学)と呼べるだろう。被造世界はまるでタイタニック号のようで、罪という氷山と衝突して沈みかけているので、救命ボードに乗る以外は何もできないというものだ。船はどんどん沈んでいる。神は船自体をあきらめ、今は人間が生き残る事だけを望んでおられる。神の被造世界を救おうとするのは、沈みかけている船のデッキチェアーを整頓するようなもので、意味がない。私達の唯一の努めは救命ボートに入り、そのボートを浮かせ、溺れかけている者たちをつかんで水から救い出し、無事天国に着くまでボードを漕ぎ続けることなのだと。しかし、真のキリスト教の考え方は(救命ボード神学)ではなくて(箱船神学)だ。ノアの箱船は、人間だけでなく他の被造物も救った。箱船は逃げようとしてのではなく、地上に戻り再出発した。洪水の水が退くと、船に乗っていたすべての人間と、その他のすべての被造物は地上を回復するためもう一度地上に戻って行ったのだ。」さらに他の箇所でこう述べている。

「死後は天国に行くのだから地球のことはどうでもいいとう考えも非聖書的だ。聖書は新天新地があることを教えている。私達の最終目標は、地上だ。購われ、変えられた新しい地上なのだ。天と再び1つとなっても、やはり地上なのだ。・・・もし人間であることが取るに足らない、つかの間の出来事ならば、(今)という時に真剣に取り組む必要はなくなる。・・・私達人間は、神のかたちに、しかも肉体を持つものとして造られ、地上で生きるために創造された。」

だから、クリスチャンはこの時代の人々と共にこの時代の課題を一緒に背負ってこの地上を歩むべきなのである。世にあって世のものでない。アイデンティティは天にあっても、体があるのはこの地上なのだ。ここで生きる事で、キリストの命が溢れてゆく。癒しと回復が行われてゆく。この地上に神の国がやってくる。神の働く現場はこの地上なのだ。私達の信仰生活の現場は日々の実生活なのだ。神がそこに居ることで「闇は光に打ち勝たなかった」が現実のものとなる。「地を治めよ」とう被造物管理権は生きている。神はその施行を人間に期待している。その責任を放棄してはいけないのだ。

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2013年2月17日日曜日

幸福の指標



 NHKのニュースコラムで「傾聴ボランティア」の話があった。独居老人の孤独死の問題がある。聞いてくれる人が居ないと人と言葉をしゃべらなくなる。そうすると人間らしさを失って行く。社会と断絶してゆく。そんな中で傾聴ボランティアが役立っているという。はじめ取っ付きにくい男性も、話し始めると堰を切ったように話し出すという。氷が溶けるように心の氷も溶けてゆくのだろう。人には人が必要だ。だから、神は言われた「人がひとりでいるのは良くない」結婚の話に限らない。聞いてくれる人がいるだけで、人は人間性を取り戻し生きてくる。私が訪れた会津若松の仮設住宅で、クリスマス会にやって来た男性が言っていた。「こういうのでもないと、部屋で一日テレビ見てる。」

ホームレスの問題は食べ物が無いというだけではない。住所を無くし、携帯を無くし、社会から隔離されてしまう。おじさんホームレスだけではなく、若者ホームレスも増えているという。外で寝るのは危険なので、夜中、歩き回ったり、ネットカフェやファーストフード店で過ごしている。以前、NHKクローズアップ現代で「助けてと言えない30代」というテーマで若者ホームレスを取り上げ話題となった。同名の本も出版された。明日は我が身という同世代の若者からの反響が大きかったそうだ。

ひきこもりや鬱病も依然として多い。人とかかわり傷ついて殻にこもってしまうケースもあるだろう。近い将来、日本人の4割が一人暮らしになるという。そのほとんどは20代独身と独居老人。まわりと関係を持ってないと災害時にも声かける人もいない。高層マンションの部屋に内カギをしていると、家具の下敷きになっていても外からは気づかないし、入れない。地域のコーラス会でも太極拳でも何でもいい。「あの人どうしてんの?」と言ってもらえる関係があると無いでは大違い。

先日は、地元の社会福祉協議会が主催する「防災情報サロン」に出席した。60代、70代で元気に防災町づくりに励んでいる人達がいる。特に男性にとっては「居場所」と「役割」があることは大きい。避難所でも「役割」をあげないと受動的なお客さんになってしまうという。(災害時には被災者が被災者をケアするという態度が必要)

さて、シアワセの指標とは何だろうか? 健康で、やるべき使命があって、それを支える家族(コミュニティ)があるという事か。20代の後半、神学校を終えて帰国した私は人間が幸せであることの絶対条件を発見した。神学校で学んだ「雅歌」にインパクトを受けた。つまり信仰とは規律や哲学や概念ではないということ。シンプルに「関係」、それも男女の関係に一番よく表されていることを教えられた。信仰とは神との生きた関係。そういう信仰生活にはシアワセを感じられる。だから地上での人間のシアワセも、それはとてもシンプルで・・・


一緒に「いる」 一緒に「やる」


これは正に、世界の創造の初めにおられた三位一体の神のお姿なのだ。御父、御子、御霊は共に居られ、一緒に世界の創造に携わった。その喜び、祝福は世界の被造物にまで溢れ流れた。箴言8:30−31を読むと、創造の時のシアワセな姿が見て取れる。

あなたは誰かと一緒だろうか?人生を共に歩む仲間がいるだろうか?祈り合える仲間がいるだろうか?あなたは今やっている仕事/ミニストリーに意義を感じているだろうか?意味あると感じられる事を一緒にやる仲間がいるだろうか?お金があっても孤独なら意味が無い。仲間がいても意味ある事に携わっていないと虚しい。使命に生きていても一人で走っていては寂しい。聖書的なシアワセの指標、それは


一緒に「いる」 一緒に「やる」


TMCはそんなシアワセを提供するコミュニティでありたいと願っています。

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asktmc@gmail.com (栗原)