2010年12月26日日曜日

City Transformation


トランスフォーメーションというビデオシリーズのQuickeningを最近、

見る機会があった。すでにI&IIは見ているが、今回は、リポートだけ

でなく、都市変革の原則が描かれている。改めて思わされたのは、

City Transformation、つまり都市ごとまるごとの変革が起こるとき、経済、

文化、政治、エンターテインメントに至るまで、社会の「すべての層」に

影響を与えるということ。そして、教会間の一致が強められ、神の国の

視野が広まってゆく。都市単位での変革というのは可能であり、

あのニネベのように、神は都市単位での救い、購いを計画される。


そこで思ったのですが、つまり1教会の一人勝ちはないのではないか

ということ。神のご臨在が都市に現れれば、すべての教会が影響うけ、

CITYのクリスチャンが増加し、社会のあらゆる分野に影響が出る

はずだと。自分の教会だけが大きくなればいいという発想はおかしいの

であり、霊的変革が起こると教団を超えて同じく神が働く。第二歴代

7:14によると神の民がへりくだり御顔を慕い求める時、神は

祈りに聞き、罪を赦し、「地をいやす」と約束しておられる。

呪いが除去され、地はいやされ、祝福(シャローム)が回復されるの

である。酒場は閉まり、父の心は子に向き、家庭が回復してゆく。

社会の不義、会社の不正が改められ、誠実さが回復される。


見極めるべきは、本当に神が来られたのか? 神が来られたらどう

なるのか? それはシティワイドな覚醒に違いない。一教会、一教団

の出来事ではない。ノンクリスチャンさえ認知せざるを得ない現象

となる。まず神は人をトランスフォームする。私達が御顔を求めて

いるか?神をフォーマット化せず、神ご自身を求め、神のやっている

ことに私達が合流してゆく。神がすることへの期待を下げない。

神の為さることはもっと、もっと大きいと信じて進むこと。 


それでは、このビデオで語られているCity transformation が起こる要素

について紹介しよう。


1. 神が歓迎される。神に来ていただく用意がある。

 人間のやり方、人間のプログラムに飽き飽きしている。本物が欲しい。

 ご臨在なしに生きられないという思い。


2.へりくだる人々。神は砕かれた人を用いる。

神への全き信頼。あなたしかありませんという絶望の中での神へ

の求め。私は足りません。何も出来ません。あなたを離れては。

人間にはできませんという態度。


3. 神のお心を求める。我々の計画ではなく、神は何を我々に欲して

   いるかを探る。

 神様どうしたらいいんですか? 都市の必要を見、痛み、祈る。

 祈り続ける。神のお心を求める。みこころを行う。するべきこと

 をする。神は神のパートを為さる。


4. 少人数でも神を求めて一致する。

 神は大きなグループを必要としない。熱心な祈りをもって、

真実に神を求める小さな群れ。キリストで一致。都市の

ために熱き祈りをささげる。やめない。祈り続ける。天と地

を結ぶ祈り。破れに立つ。罪は時間が たっても解決しない。

告白し、悔い改めなければならない。自分の住むCITYが

「主がおられる街」という名に変えられるという約束を信じて。


5. 神はユニークな方法で来られ、人は驚く。

神をフォーマット化しない。

 神に働いていただくSPACEを与える。それが起こると人は

コントロールできない。

   ―――――――――――

コメントお待ちしております。asktmc@gmail.com (栗原)まで、

TMCでは毎月土曜日に赤坂で、定例会を持っています。東京を

変革してゆくために、失われた魂にどのように届いてゆけるか、

どのようにキリストの体であるクリスチャンコミュニティを形成して

いったらいいのかについて話し合う「場」を持っています。

ご関心のある方はメールください。ご案内をお送りします。

2010年12月19日日曜日

「キリスト教は霊的なこと」


ある集会に出たとき、ノンクリスチャンが「キリスト教は勉強という

イメージがある。」と言っていた。確かに、信じますと言ってもさらに、

洗礼準備会に出なければならない。十分に知的に装備してからでないと

洗礼を受けられない。新約時代は信じた人は即、洗礼だった。キリスト

教には聖典である聖書があるが、新約の教会は聖書が書かれる前に

始まっている。教会の始めは聖霊の降臨である。


預言者ヨエルが予言したことが実現した。「神は言われる、終りの日に、

わたしの霊をすべての人に注ぐ。・・・・その日、わたしのしもべにも、

はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。」

(使徒2:17-18)ペテロはペンテコステの出来事を説明するのに、

この箇所を引用した。つまり、この御言葉が今、成就しているのだと

宣言したわけだ。ここで重要なのは、神はご自身の霊(聖霊)を

すべての人(牧師や宣教師だけでなく)に注ぐと言っている事だ。信じる

人すべてに分け隔てなく、神の霊が住む。その結果、どうなるかというと、

彼らは預言する、すなわち神の声を聞けるようになるということだ。


御霊のことは御霊によってわきまえるので、信じて聖霊を受けると、

聖書が神からのラブレターとなり、わかるようになる。何度も福音を

聞いているのに信じない人の場合、すでに知識の問題ではありません。

霊の問題なのです。(IIコリ4:3-4)

60年代のドラッグにまみれたヒッピーたちがイエスを信じて生まれ

変わり、聖霊を頂き、聖書を愛読するようになり、ある者は牧師に

なっていった。パウロははっきり言っている。「キリストの御霊を

持たない人はキリストのものではありません。」(ローマ8:9)

つまりクリスチャンではないと。信じて神の子(クリスチャン)に

なったかどうかは、霊の問題なのです。パウロは続けて「私達が神の子

であることは、御霊ご自身が、私達の霊とともに、あかしして

くださいます。」(ローマ8:16)と言っている。クリスチャンに

なるとは信じて、神の霊を受けること。逆に言うと神の霊なしに、

その確信はない。神学大学を出ても、御霊が下っていないと、

クリスチャンではない。そして、聖霊が下ると無学な普通の人が大胆に

主イエスを証することが起こる。(使徒4:13)それこそ、

神の力なのだ。教会は「聖霊に励まされて」前進するのだ。

(使徒9:31)まさに、「権力によらず、能力によらず、わが霊に

よって」(ゼカリヤ4:6)とある通りだ。


聖霊がなくても運営できる教会だとしたら問題だ。神学校出た教養

ある人だけが用いられるなら問題だ。内に住む聖霊によって、あんな

人がこんな人が用いられる。それが神の方法だ。御霊を持たず、知識

や経験、「正統派である」という座に甘んじていたパリサイ人、律法

学者は本質を見抜けず、神の子であるイエスに敵対してしまった。

そんなことが起こりうる。


イエスや弟子たちのメインミニストリーは


1)悪霊追い出し 

2)いやし 

3)神の国の到来を知らせる (マタイ9:34-10:1)

であった。


福音書を読むと次から次へと悪霊を追い出す話が出てくる。人には霊が

あります。そして、神の霊である聖霊があり、悪魔の霊である悪霊も

あります。それは現実です。聖書の世界観ではその目に見えない霊の

世界と目に見える現実社会の出来事が関連しているのです。すべての事

の背後に、そして歴史の背後に霊である神がおられるのです。悪霊追い

出しに関連して病の癒しの記事も多い。


今日、スピリチュアルというとニューエイジ的なものがメインになって

しまっているが、本家本元はイエスにある。クリスチャンになること、

クリスチャンとして生きることは、かなり霊的な話なのだ。生活の現場

で瞬間、瞬間、あなたの考えが神の霊に導かれる必要があります。


エペソ書5:18では、「御霊に満たされなさい」と命令形で書かれ

ています。満たされても、満たされなくても、どちらでもいいという

問題ではありません。御霊に満たされていないと肉的になり、この世に

対し否定的な証人となってしまうのです。人々をキリストから遠ざける

ことに加担していることになるのです。


あなたは御霊を持っていますか?今日、御霊に満たされていますか?

この2つが人生で最大の質問なのです。

ーーーーーーーーーーーー

ご購読感謝致します。

コメントお待ちしております。また、ご連絡も asktmc@gmail.com

(栗原)までお願いします。

TMCでは毎月土曜日に赤坂で定例会を開いており、東京での社会人へ

の宣教、21世紀の都会にふさわしいチャーチプランティングのあり方

について話し合いの場を持っています。関心ある方はメールください。

ご案内をお送りします。

2010年12月12日日曜日

「伝道は祝福すること、愛すること」


人ごみの中で、看板を掲げてラウドスピーカーから録音されたモノトーンの

メッセージを語っているグループがる。私の友人は、それを見て「愛を感じ

ない。」と言った。福音を伝えることが愛だという論理もあるだろう。

しかし、確かに、裁かれてる感じはするが、愛されてる感じがしない。ある

クリスチャン女性の話しを聞いた。彼女は会社で「社員とのつきあい」もせず、

誠実に祈祷会や教会の集会に出ていた。特別伝道会が近づいてくると彼女は

社長さんにチラシを渡し、集会に誘った。そこで社長さんは、言った「君は、

いつも付き合いもせず、さっさと帰ってしまうのに、こういう時だけ、集会

に誘うのかね。君みたいな人のいる教会に行きたくないね。」 社長は愛を

感じなかったのだ。私自身、反省することが多々あります。以前、宣教団体の

スタッフとして、営業成績?をあげるため、愛もないまま伝道したこともあり

ます。


マーク・ラッセル博士はアズベリー神学校での博士号を取得する際に、タイ

にある12のクリスチャン会社の調査をしました。このうち6の会社は

「改心志向」他の6つの会社は「祝福志向」だったのです。「改心志向」の

会社では会社を伝道する手段(人々がイエスを信じるようになる)として

理解していました。ビジネスは手段であり目的ではなかったのです。

「祝福志向」の会社では人々に職を与え、経済的に安定させてあげるなど、

ビジネスを人々の祝福ため用いました。そして、改心率を調べてみたのです。

48名の改心者が起こりました。47人は「祝福志向」の会社から、残り

1人が「改心志向」の会社から起こされたのでした。福音は世界とその中に

いるすべての人々を祝福するため与えられたのです。その結果、人々が救われ

るのです。


もし、人を改心させることだけが目的なら、人と文化を祝福する側面を欠い

てしまうのです。その結果、伝道も効果的でなくなります。変革は神のなす

業であり、私達の役目は愛し、祝福することです。この世の問題は霊的、

身体的、情緒的、知的、社会的な側面を持っており、霊的変革はその1つの

重要な要素ではあっても、すべてではないと理解し、この世の問題を

ホリスティック(全体的)に取り組んでゆくことが社会変革に繋がるのです。


だから、皆さんの携わっている多種多様な仕事により人々を祝福してゆくなら、

神にゆだねられた大事な働きをしていることになるのです。

人間として、関心を示し、その人の全的必要に答えてゆくとき、福音に対しても

自然に心を開くのではないでしょうか? イエス様がそうであったように、

私は「罪人の友」だろうか?

2010年12月5日日曜日

わかりにくいのは何故?


聖書のメッセージが伝わりにくい背景には誤訳という要素も多分にあるだろう。

仏の教えが仏教で、キリストの教えがキリスト教というのは本質を欠いている。

本来は「キリスト命」だが、せめて「キリスト道」が近い。実際、第1世紀には

「この道」と呼ばれていた。


ちなみに、ある漢訳聖書ではヨハネ1:1の「はじめにことばがあった。」を

「はじめに道があった。」と訳している。ロゴスは単なる言葉ではないので、

「道」のほうが通じる。


韓国語では神はハナニム(お一人の方)なのに、日本語では神道と同じ

「神」を使う。主権を持った宇宙の創造主という概念が伝わりにくい。罪も

聖書の原語では「的外れ」という意味なので、「脱線」のほうが伝わりや

すいかも。そうでないと、「これは犯罪という意味じゃなくて」と、

いちいち説明しないと通じない。悔い改めるは単に「考え方を変える」

「方向転換」で、神も考え直されることがあるので、必ずしも

「罪を悲しみ嘆く」意味を含まない。神が単なる裁き主、地獄の閻魔様と

思っていたが、聖書を読んでいるうち、信仰により自分の悪行をさえ赦し

天国に入れてくれる愛のお父様なのだと考えが変わった。

これは立派な悔い改めである。


「教会」は本来、教える会なのではなく、お互いに仕える愛の

コミュニティ。エクレシアを「教える会」と訳すのは無理がある

のではないか?第1世紀の教会では、特定の牧師が毎回一方的に

メッセージを語るスタイルはとられていなかったようである。


聖書66巻は霊感された神の言葉であるが、カノン制定後の聖書という

本の編集、印刷に関して霊感があるとは思えないが、未だに印刷屋が

便宜上ふった章や節に触れることはタブーのようだ。せめて新約の手紙類

は章節無しで読んでみたい。


さらに、パウロの書簡が新約聖書では年代順ではなく、単に長さ順で編集

されている。だから歴史の流れがわからない。歴史の流れで書いた初代教会

の物語を把握する必要がある。


最初の書簡はユダヤ割礼派が信仰を惑わしているので、性急に怒って書いた

ガラテヤ書(AD49)、そして、パウロがあまり信仰による自由を強調

したので、奔放になったクリスチャンを正したヤコブの手紙(AD50)。

そして、Iテサロニケ(AD51)、IIテサロニケ(AD52)、実は

どの教会も迫害、にせ教師、道徳問題と危機の中にあった。それで手紙を

書かなければならない状況であった。


コリント書に関して言えば、実はコリント書は1があって、その答えに2

実は、これが私達の第一コリント AD55)、そしてきびしい手紙の

3、それに対して厳しく書いたことで心配になって書いた4

(これが第2コリント AD57)。ここでローマ人への手紙(AD57)。

コロサイ、ピレモン、エペソはAD61。そして、ピリピがAD62。

さらに第一テモテ(AD63),ちなみに、この年にルカの福音書が

書かれている。それから、パウロの著書とすれば、ヘブル(AD64)、

テトス(AD65),この年にヨハネの福音書や第一ペテロが書かれて

いる。パウロの最後の書 第二テモテ(AD67)、同年に第二ペテロが

書かれた。ユダ(AD68),そして黙示録(AD70)。


70年といえば、ローマ軍の侵入し、神殿に火をつけ、とエルサレムの街

を占拠した年だ。黙示録を書いたヨハネはパトモス島から解放され、

12使徒の中で唯一殉教ではなく、100歳まで生きて、エペソで自然死した。


もうそろそろ年代順に編纂した新約聖書を出版してもいいのではないか。

2010年11月28日日曜日

「この時代のチャーチプランティング」


ハイテック・ハイタッチと言われるように都会の人々は孤独で、

人のつながりに飢えています。また、ポストモダンの人々は

宗教的には「霊的」なものに興味はあっても制度化された教会、

組織としての教会には興味を示しません。しかし、都会のオアシス的

な心を開いて人生を語れる「コミュニティ」「スモールグループ」には

興味があるのです。実はそれはコイノニアとしての教会の本質でも

あるのです。第一世紀の原点的教会は「家」の教会であり、必然的に

スモールグループでした。


21世紀の東京ダウンタウンでこの原点的教会を再現したいのです。

コミュニティにはいわゆる「偉い人」はいません。2-3人が主の名に

よって集まるところに主ご自身がおられるのです。そこでは、上下

関係や先生と生徒の関係より同等の仲間として聖書が語る「お互いに」

を大事にします。お互いに祈りあい、分かち合い、教えあうのです。

そこにオーナーシップや帰属感が生まれます。


そのようにして日常生活の中に聖書のことばを生かしたいのです。職場

で神を体験したいのです。そこに「変えられた人生」の証が生まれ、

そして、それは人々を魅惑してゆきます。人々は理論ではなく、

実際的(workable)なものを求めているのです。変えられた人生、

神と共にあゆむ日常生活は最大の伝道のツールなのです。

 

一人で悩んでいる人、孤独な人が多いのです。クリスチャンが

あたりまえに教会の中で行っている「お互いに祈りあうこと」が、

教会の壁の外でも行われたら。未信者の日常感じている必要

(癒し、回復)のために、マーケットプレイスで一緒に、かつ

自然なかたちで祈れたら。それはすばらしいミニストリーでは

ないでしょうか?自分がケアされることは誰でもうれしいものです。

愛を受けることによって、心は開かれていきます。


「意味ある人間関係と祈り」で広がってゆくコミュニティ。

それがTMCの目指すチャーチプランティグなのです。

---------------------------------------------------------------

TMC Core Values

1. Evangelism in the Marketplace 「生活の場」での伝道


ルカ19:10の主のお心をシリアスに受け止め、東京をはじめ

  とする、ダウンタウンを生活の場(ほとんどの時間を過すところ)と

  する人々に届いてゆくことを最重要課題とする。内輪の仲良し会で

  終わらない、アウトリーチ指向。


鍵となる質問:常に失われた魂と接しているか?


2. Multiplying Harvest Workers 「倍化」する収穫のための働き人

 
弟子訓練と名のつく、単なる、勉強会でなく、神の畑での収穫に

  携わる「働き人」を生み出す。単なるプログラムでは人は育たない。

  人とのかかわりの中で、愛することを学ぶ。知識より影響力。


鍵となる質問:自分に替わる人を再生産しているか?


3. Life Relevant Multiplying Organic Church

  生活に即した倍化する有機的生命体 としての教会


 日曜教会の概念から毎日の生活の場での教会へ。365日の主と

  いう意識。現実の生活の課題、問題に適応される「生ける御言葉」。

  メンバーの主体的かかわり(参加型)によるアカウンタブルなスモール

  グループ。制度より、命、有機的(オーガニック)なネットワークが

  優先される。


 鍵となる質問:心を開ける信徒の仲間との交わりが週日にあるか?


4.   Holy Spirit Led Lay Movement 

   聖霊に導かれた信徒のムーブメント

  牧師依存の「お客さん」的信徒ではなく、一人一人が聖霊に聞き、

  導かれ、力を受けオーナーシップをもって取り組むムーブメント。

  すべてのクリスチャンに聖霊が注がれているという事実から出発。

  タテ型の命令系統より、フラットで柔軟なネットワークが重視される。

  組織、制度より生命体として機能。単なるソーシャルクラブではなく、

 聖霊に満たされ、聖霊に導かれるキリストの体へのコミットメント

 あるコミュニティを目指す。


  鍵となる質問: 参加者は主体的にかかわることをエンジョイして

         いるか?


5. Kingdom Mentality 「神の国」を広げるという概念

  教団、教派の壁を越えた、シティワイドムーブメントを目指す。


 鍵となる質問: 「自分の教会」「自分のグループ」を超えた「神の国」

         「神の畑」という視点があるか?

2010年11月21日日曜日

今、TOKYOに必要なこと


ここ数年、いろいろなビジネスマンの方とお会いする中で、強く感じている

事があります。


1) 職場のクリスチャンは励ましが必要です。


2) 東京の真ん中で、職場でキリストが必要です。


3) 現場で祈る、祈りの兵士が必要です。


4) 使徒パウロやテモテのように赤坂、汐留、丸の内、などを回って伝道し、

信徒の群れを起こすチャーチプランターのチームが必要です。


5) 東京の必要は真実なコミュニティです。(ところで新約の教会はキリスト

 を中心として、人生、生活を分かち合うコミュニティでした。 

教会とは人々であり、建物ではありません。)


6) 日常生活の中で、キリストを中心とするコミュニティ(教会)を建て

上げる献身した信徒リーダーが必要です。社会人が、賜物を用いて、創造的

にミニストリーすることを励ます人が必要です。


7) 東京ワイドのビジョンと神の国の視野で、ヴィジョンを与え動機つけ、

励まし、訓練する霊的コーチたちが必要です。


キリストの体の3%が、牧師、宣教師といった、いわゆるフルタイム

クリスチャンワーカーとなります。しかし、97%は宗教を職業と

しない職場で働いています。本気で都市を勝ち取ろうとするなら、

どうしても、すでに社会の主構成要素(経済ビジネス、政治,教育、

メディア、文化エンターテイメントなど)の中にいるクリスチャンリーダーが

活性化され、自らの職業分野に影響を与えてゆくことが不可欠です。


東京砂漠に神の国(キリストにあるコミュニティ)を形成したいのです。 

東京のあちこちに、主を信じる群れが起こされたら、そして、それらが

地下鉄の路線のように東京を覆うオーガニックなネットワークとなっていったら。

このビジョンと働きを東京メトロ・コミュニティ(TMCと名づけました。


全世界を手に入れても、魂を失ったら何の益があるでしょうか?(聖書)

2010年11月9日火曜日

私達は神の宮


旧約時代、神殿は天界と地上の世界が出会う場所であった。そこは、

神のご臨在の場所であり、聖なる神が住まわれる、近づきがたい場所

であった。神殿には、普通の祭司が入れる聖所の奥に大祭司だけが年

1度入る至聖所が設けられていた。そこで、犠牲の動物の血を携えて

至聖所に入って、贖いをした。しかし、時が満ちて完全な犠牲、神の

子羊イエスが十字架で死んで、贖いは完成した。ただ1度で、完全で

永遠の贖いを成し遂げられたのである。


イエス様の十字架と復活により起こった重要なことを見てみよう。

イエスの復活後、至聖所のカーテンが上から下まで裂けた。すなわち

神が我々の世界に降りてこられた。イエスが人となって来られ、我々

の罪のため十字架で死に、贖いを成し遂げ、復活された。至聖所が

オープンになった。カーテンがいらない。イエスを信じる者は大胆

に恵みの御座、神のもとへと行けることとなった。神殿はAD70年に

破壊され、以来再建されていない。その後、再建されていないし、

不思議なことに、神は、それ以降、神殿を再建せよとは命じていない。


十字架と復活の出来事の後、信じる者に聖霊が注がれた。

(ヨハネ7:37-39)信じる者のうちに神が宿ることとなった。

つまり、どういうことか? イエスの御業ゆえに私たち、イエスを

信じる者が神の宮となった。旧約時代に捧げられた無数の動物犠牲を

考えてみてください。もう必要ないのです。完全なる子羊イエスが

捧げられたからです。私たちは罪許されて、神の御前に出て、

楽しめるのです。イエスは私たちに聖霊を注いでくださった。

聖霊は神です。すなわち、私たちのうちに神が宿っているのです。

神の住まうところは本当の神殿です。神の家です。神に出会うため、

神殿に行く必要はありません。事実、「教会に行く」とう表現は

第1世紀には無かったのです。私達が教会だからです。神が私たち

のウチにおられるのです。ヨハネ4:21の成就なのです。イエス様

があのサマリアの女と話したとき、非常に興味深いことを語りました。


「イエスは彼女に言われた、わたしの言うことを信じなさい。あなた

 がたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、

 そういう時が来ます。。。真の礼拝者たちが霊とまことによって父を

 礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人を礼拝者と

 して求めておられるからです。」

 

神を礼拝するのに特定な場所が無くなることをイエスは言われたのです。

特別に「聖なる」建物は無くなったのです。エペソ2:20-22を読んで

ください。救われた人に聖霊を注ぎ、神の宮とし、神の住まいとする。

そして、救われた個々人を結びつけ、共に成長させ、ユダヤ人、異邦人の枠を

越えた、一人の新しい人、キリストの花嫁、神の生きた生命体としての、新しい

神殿を造り上げている。これが神の目的なのです。


あなたもわたしも、この真の霊的神殿(キリストの生命体としての体)を建て

上げる大事な石の1つなのです。お互いそのように考えましょう。体は魂の

表現です。キリストはご自身の神殿(教会)を通して、ご自身の考え、計画、

愛を表しているのです。あの人のうちにも、この人のうちにも神が宿っている。

神が、その人の人生に働いておられる。


あなたは既に、用いられているのです。神はその大きな目的に従って、あなたを

わたしを神殿建設の石として組み込んでくださっているのです。

2010年10月31日日曜日

ホームレスGOD

「ホームレスGOD」

教会革命を推進するフランク・バイオラの本を読んでいるとき、

面白い表現に出会った。ホームレスGOD。イエス様が地上に来

られたとき、お生まれになる宿屋もなく、馬小屋で生まれた。お働

きをなさっている時、こう言った、「きつねには穴があり、鳥には

巣があるが、しかし、人の子には枕するところもない。」。ご自分

の家であるばずのエルサレムの神殿にいくと、宗教指導者から、

追い出された。最後には町の外に追い出され、十字架で、地上

から追い出された。イエス様には休む家がなかった。イエスが

唯一休めたのは、神殿(宗教制度、組織)ではなく、エルサレル

郊外のベタニヤにある「家庭」だった。あのマリヤとマルタが

住んでいた「家=HOME」であった。イエスが住むのは、

イエスを信じる、あなたやわたしの内なのだ。私達はイエスの

お住まい。私達は「神の家」なのだ。

神が私達人間を創造されたのは、あの三位一体の父、子、聖霊の

親しい交わりに私達も入らせるためでした。(第一ヨハネ1:3)

こんな不完全で穢れた私達を、イエスの花嫁として、一方的に選んで

くださった。かの日にはシミも穢れもないイエスの花嫁として、

御前に立たせて下さる。やがて子羊イエスの妻となり、一体となる。

イブがアダムのわき腹から出たように、イエスの花嫁である教会は

イエスのわき腹の傷(十字架の死)によって生み出された。私達が

イエスの花嫁であり、やがて花婿は花嫁を迎えに来る。その愛は義務

でも哀れみでもなく、神の一方的なパッションなのだ。神は天使

ではなく、親密な伴侶として、人を選んだのです。地上でイエスは

結婚をしなかった。なぜなら、イエスの妻はイエスの死によって

誕生した「教会」だから。そして、教会はキリストの体なのです。

教会はイエスのために何かする機関なのではなく、イエスが自らの

体を通して御業を行ってくださる「場」なのです。イエスは主に

あって愛し合う共同体の中で力強く働かれるのです。エクレシア、

すなわち信徒の群れである教会は「神の家」「神の住まい」

「キリストの花嫁」、ホームレスGODが宿る場所なのです。