2011年1月31日月曜日

油注がれたビジネス (5)



 教会と神の国

引き続き、エド・シルボソの「変革されたビジネス」から
引用しよう。

   教会が「神の国」の代わりをし、この教会に「神の国」が
閉じ込められてしまったのです。さらに悪いことに、今や
私達の目的は、「神の国」(神の支配)を人々が生活する日常の
場(マーケットプレイス)に持ち運ぶのではなく、逆に人々
を教会にまで連れてくることになっています。この結果、
教会はイエス様が語っていたようなダイナミックに広がって
ゆく「神の国」というより、むしろ小さく固まって、外に
働きかけない、いわば大きくならないものになっていきました。
「まずは教会に来てください」と私達が教会堂と教会自体を
混同して話すとき、それによってこの間違った考えを正統化、
あるいは合法化されてゆくとも言えます。教会が町のいたる
ところに生まれてゆく代わりに(使徒2:42)、私達の
エネルギーと資源は週に何度か集まる場所の確保と維持に
そそがれるだけで終わるのです。

このために教会というのは、「日曜日に2時間ほど建物の中に
過ごすこと」だけに成り下がってしまい、1週間の中で、その
165時間以上は教会の外、すなわち教会とは関係なく過ごして
いるといった認識でしょうか!これは初代教会時代と比べて
何とずれた認識でしょうか! 1世紀に生きたクリスチャンたち
は以下の聖句のように、毎日、そして1日何度も教会を持って
いたのです。(使徒2:42)教会は「神の国」(神の支配)を
この地上に持ち運ぶために存在しています。


(コメント)
この部分は痛く同意する。神の願うことは、何々教団の教勢を
上げるということ以上のことだ。神は街全体に関心を持たれている。
大宣教命令はGo into the worldなのであり、社会のあらゆる分野、
経済界、教育界、エンターテイメント界、メディア界の中へ入って
ゆかなければならない。祝福は教会の四角い壁から外へ流れ出さ
なければならない。
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コメントをお待ちしています。asktmc@gmail.com(栗原)まで。
TMCでは毎月土曜日に赤坂で、定例会を持っています。東京を
変革してゆくために、失われた魂にどのように届いてゆけるか
どのようにキリストの体であるクリスチャンコミュニティを形成
していったらいいのかについて話し合う「場」を持っています。
ご関心有る方はメールください。ご案内をお送りします。

2011年1月23日日曜日

油注がれたビジネス  4


労働と礼拝

エド・シルボソ著の「変革の鍵―油注がれたビジネス」から抜粋、

コメントをつけています。


労働と礼拝の密接な関係を理解しておくことはとても

大切です。なぜなら聖書は職業を非霊的などとは決して

言っていないからです。実際、神は礼拝自体をまず教える

前に、労働(生き物を支配せよ)をしなさいと命じています。

神は労働が礼拝よりも素晴らしくて、より価値のあるもの

だからそのようにおっしゃったわけではなく、エデンの園

では労働そのものが主への賛美を意味し、礼拝としての意味

を持っていたからです。神の創造物に対する管理に責任を

持つことが、アダムとエバにとって神を敬い、神と交流する

手段そのものでした。


(主の思いと違った)私達の勝手な思いに基ずく分類の結果、

仕事を辞めること、要するにマーケットプレイスから離れる

こと(引退すること)がフルタイムのミニストリーや、

フルタイムの献身者への「登竜門」であるかのようになって

います。しかし、初代教会時代はそんなことはありません

でした。パウロと同行者たちは御言葉の奉仕をしながらも、

同時にこの世の職業に関わっていたことが分かります。もしも

マーケットプレイスに戻ることが、これまで教えられてきた

ように、ミニストリーへの召命からの後退や裏切りを意味する

としたら、どうしてイエス様はペテロや彼の同業者にたくさん

魚を取ることができるように指示し、励まされたのでしょうか。


このムーブメントは、ある文化の傘下に属し、それと同調して

ゆくサブ・カルチャーではなく、むしろそれに対抗しうる

カウンターカルチャーなのです。(しかし)クリスチャンは自分

たちの暮らす世界への配慮や思いやりに欠けているという悪い

評判が一部にあります。新しい天と地を待ち望むがゆえに、

現在の社会的、そして文化的な面での責任を放棄しているかの

ように見えるからです。


(コメント)どうせ、この天地は滅ぶのだから、直接的な伝道だけ

して、一人でも魂を天国に導けばいい。一見熱心で良さそうですが、

この考えだと、自分の携わっている仕事の意味、社会的善を成す

ことの意味が薄れてしまいます。果たして、それを神が望んでいる

のでしょうか。神はエデンの園でアダムに地を治めよという責任を

与えた。興味深いことに、堕落の後もその責任は撤廃されては

いない。人間はこの地を治めることを放棄してはならない。この地を

よき地に、御心が天で行われるごとく、地でも行われるように祈り、

願い、行動しなければならない。地上で携わる仕事(教育や医療、

介護、芸術など)は購いの業の一部であるし、交通、住宅建設、

食料品生産などは、この地を治め、地を開発、発展させてゆく

エデンの園での責任の拡大されたものと言えよう。もちろん

それは、主の主権のもとで、神の国の価値観によって展開され

なければならない。この地の仕事は神から任されたものであり、

意味がある。

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コメントお待ちしております。asktmc@gmail.com (栗原)

まで、TMCでは毎月土曜日に赤坂で、定例会を持って

います。東京を変革してゆくために、失われた魂にどの

ように届いてゆけるか、どのようにキリストの体である

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2011年1月16日日曜日

油注がれたビジネス(3)


イエス様の間違ったイメージ

引き続き、エド・シルボソの「変革の鍵―油注がれたビジネス」

から引用とコメント

イエス様は、洗礼を受けるころまでに、少なくとも20年間は

プロの木工細工職人として働いてこられたわけです。禁欲生活を

する修道士のようなイエス様は聖書には出てきません。これは、

むしろ世間の歪められたイエス様のイメージではないでしょうか。

一人になって何時間もお祈りしているのは確かですが、イエス様

はそれを日が沈んだ夜に行われました。(マタイ14:23、

ルカ6:12)日中は様々な人々と関わりをもち、さまざまな

職業上の話題に花を咲かせ、そのようにして人々と交わる中で

沢山の知識を習得された、まさに見識ある世の知識人でも

ありました。イエス様のたとえ話しによって、私たちはイエス様

がマーケットプレイス(実生活の現場)の様々な事柄に精通して

いたことが伺われます。

イエス様は決して修道士や世捨て人のような類の人物ではなく、

マーケットプレイス(実生活の現場)で日々の生活を過ごし、

生計を立てられ、その誠実な働きぶりをもって人々に知られて

いたのです。これこそが真の弟子化につながる土台ではないで

しょうか。イエス様と彼に付従った人々が、一般社会から身を

引いたなどと聖書は語っていません。20年以上にもわたる

企業家として、イエス様はマーケットプレイスから従業員を

雇用していました。それは神の国を社会の隅々で暮らす罪人たち

にもたらすためです。彼らは精力的に社会生活を送り、労働と

霊的な事柄を分け隔てはしなかったのです。


(コメント)この部分は大変興味深い。ひょっとしたら私達が持って

いる、また映画で描き出されてきたイエス像と実像は違うのかも

しれない。大工を職としていたのだから、筋肉質の逞しい肉体をお持ち

だっただろう。ストリートの罪人の友であったイエス様は、よく冗談を

言って、彼らを笑わせたに違いない。「大酒飲みの大飯食らい」と批判

されるということは、火の無いところに煙は立たないので、そういう

要素があったのかもしれない。当時の宗教指導者や政治指導者の前で

臆することなく正論を吐ける肝っ玉の据わった人物だっただろう。

女性の弟子も沢山従っていた。男性としての魅力も当然あっただろう。

12弟子の中には熱心党員シモンのような、政治革命家も、ペテロや

ヨハネのようなブルーワーカーも、マタイのような税務署の所長の

ような人もいる。彼らが何もかも捨てて従って行きたいと思わせる、

つまり男性にとっても魅力あふれる人物だったに違いない。

どうもひ弱な世捨て人というイメージではない。そもそもそんな

人物なら、あれほどやっきになって宗教指導者がイエスを排除

しようとはしなかっただろう。そして、人を抑圧、束縛する宗教

とは対立的に「新しい命による、新しい生き方」を与えるお方

だったのだ。

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2011年1月9日日曜日

   油注がれたビジネス (2)―4つの誤解



続けてエド・シルボソ著、「変革の鍵―油注がれたビジネス」から引用

しよう。


イエスの12弟子のうち会堂内の祭司やリーダーだった人は一人も

 いません。


今、マーケットプレイスで仕え、証するように召された信徒たちも、一切の

 必要が備えられた立派なミニスターだと認められる時期が来ていると私は述

 べたいのです。なぜなら、ペテロが引用したヨエル書にある、来るべき

 リバイバルの預言(使徒2:17-21)は、まさに教会という枠を超えて、

 都市全体で起きるもので、その時が今、まさに来ているからです。

 その時には,全ての肉なる者の上に、神の霊が豊かに降り注がれると

 あるからです。


(コメント)信じる全ての人に聖霊が注がれ、聖霊が内住しているという

事実をシリアスに受け止める必要がある。それには牧師、信徒の差異はない。

そして、聖霊を 受けた人は神の声を聞けるのである。シルボソが指摘して

いるように、福音が異邦人にも伝えられ、異邦人にも聖霊が宿るようになる

という歴史的大転換となる神のご計画を、当時の宗教指導者にではなく、

改心したばかりの信徒、百人隊長コルネリオとその仲間達に神は示された。

(使徒10章参照)


信徒たちを無力化させる4つの誤解を挙げてみましょう。

1)聖職者、牧師と一般信徒の間には、神が定めた大きな隔たりがある。

2)教会の働きは、宮(教会堂)と呼ばれる宗教的建造物の中での働きに

 限定されている。

3)事業(ビジネス)に携わっている信徒は、教会内のミニストリーを

 通して仕える信徒に比べて、霊性は劣っている。

4)マーケットプレイスで日常の大半を過ごす信徒たちの役割は、

 教会内のミニストリーに召されたミニスター(献身者、聖職者)

 のビジョンを経済的にサポートすることに限る。

  

(コメント)つまりキリスト教界内の誤解が、教会の働きを止めてしまって

 いるという皮肉な状況があるのです。信徒の役割はもっぱら献金することと、

 教会堂に人を連れてくることとなるのです。少なくも私がフロリダで関係

 していた教会はこの2点を非常に強調していました。イエス・キリストは

 365日の主、月曜から金曜までの主でもあるのです。


イエス様の大宣教命令で、はっきりと「全」世界と言っているからです。

 イエス様の視線は、教会の建物内や信徒たちの集団内にとどまらず、

 もっと外へ、外へと向けられています。全世界、すべての造られた者

 こそが私達に与えられた宣教命令の対象なのですから。


(コメント):今の形の教会だけが窓口なら、オ-ルナイトで仕事している

電車やトラックの運転手や、新聞社、TV局で働く人々は永遠に排除されて

しまう。本当に全ての人に届くことをシリアスに考えるなら、教会のスタイル

も、集会の時間も考慮する必要がある。そして、彼らを「教会」に呼ぶので

はなく、クリスチャンが彼らのフィールドに入ってゆくという視野の転換も

必要なのではないでしょうか?そういう意味では社会的善をなす、

NPOやボランティア活動にクリスチャンが積極的に参加することには

意味があるのではないでしょうか?


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2011年1月2日日曜日

油そそがれたビジネス (1)


先日、新宿の紀伊国屋で「ビジネスマンのための聖書入門」という

新書を見つけた。宗教哲学者の白取春彦という宗教哲学者が書いて

いる。面白いのは一見関係の無いような、ビジネスと聖書がよく

結びつく。少し前には江上剛の「聖書にみるビジネス成功の極意

100」が新書で出たばかりだ。白取さんの本にはこうある。

「無神論も歴史には現れたが、結局は聖書の原理で世界は動いて

いる。数で言えばイスラム教徒は多いが、イスラム原理もさほど

全世界には影響がない。なぜ、聖書は今でも最も影響力がある

古典なのか?」そして結論に「聖書がなければ、今の世界は無い」

と断言している。


エド・シルボソは「変革の鍵-Anointed for Business」(プレイズ出版)

の中で、いわゆるマーケットプレイスミニスター(すなわち、それは

社会で働く、ビジネスマン信徒のこと)が世界を変える鍵なのだという。

聖書とビジネスが結びつくのであれば、それは最なことだろう。しかし、

多くの信徒が「自分は神学校出てないからとか」「信徒だから」という

サタンの声に聞き、日曜クリスチャンになっていると指摘している。

まず、セカンドクラス的マインドセットを変える必要がある。数回に

渡って、「変革の鍵」から抜粋引用とコメントを分かち合うことにします。


初代教会時代の信徒にとってマーケットプレイス(実生活の現場)は

ミニストリーの中心舞台でした。なぜならこの場こそが、日常生活の

大半を費やす現場であり、そんな中、彼らが日々接する人々に福音を

述べ伝えるのは自然の流れだったわけです。このような信徒たちの

マーケットプレイスでの働きが初代教会を生み出し、発展させて

いく原動力となっていたのは疑う余地がありません。実際、イエス様

に付き従っていた人々の多くは、フルタイムの社会人であり、同時に

フルタイムのミニスターでもありました。私達も彼らのようになること

が可能でしょうか?もちろん可能です!


事実、神様の力が現れ、不思議なわざに関しては40回述べられて

いますが、そのうち宗教的な場所で起きたと記載があるのはたった

1箇所、すなわち「美しの門」という宮の門で生まれつきの足のなえた

人が癒される箇所だけなのです。(使徒3:11)


(コメント)聖書は昔話ではなく、我々が生きているこの歴史上、この時間

 と空間で起こったことです。神にとっては世界が舞台なのであって、壁に

 囲まれた教会の建物の外でも御業が行われるのは当然のことなのです。

 マーケットプレイスがミニストリーの中心舞台。


ミニスター(神の働き人)になるための必要条件は、神学校で教育を

受けたかどうかではなく、「イエス様と一緒に時を過ごしてきた」ゆえの

霊性でなければいけないからです。(私注:使徒4:13参照)


(コメント)人々はペテロが無学な普通の人であるに驚いた。しかし、

ペテロの働きはイエスと一緒にいたことの霊性から出ていることを悟る

のである。ともすると、聖霊に頼るより、フォーマルな神学教育に頼る

○○神学校卒業しました。)誘惑は非常に大きい。ちなみに、神学校は

「教師」になる人を育てるには良いが、必ずしも人にミニストリーする

人を備えるのに最良の場とは言えない。人を愛すること、人に仕える

ことは「現場」でしか学べない。イエス様が弟子を訓練した方法は

「一緒に生活する」ことであった。

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