2021年9月2日木曜日

「2人、3人集まるところにわたしもいる」の本当の意味

 

コンテキスト、コンテキスト、コンテキスト!

こんな冗談があります。ある聖書箇所を開くと「ユダは首をくくって死んだ。」とあり、また別の箇所を開くと「あなたも行って、同じようにしなさい。」とあります。聖書の言葉だからとその通り実行すると大変な事になりますね。もちろんこれは極端な例ですが、私たちは結構、文脈を無視して読んで、適応していることがあります。

 

前も書きましたが、聖書の原点には章や句がありません。あとで印刷屋が読みやすいように区切ったものです。章や句があるゆえに、開きやすくて便利な反面、聖書の意図しない区切りができてしまうこともあります。すでにこのブログでも指摘しましたが、マタイ17章の「イエスの変貌」は16章28節との繋がりで読まないと28節の意味が分かりません。また、有名はヘブル11:1も10章37−38節の流れで読まないと、自分の願望を信仰と呼ぶ、勝手な解釈になる可能性があります。

 

今回は文脈を無視してよく引用される箇所について見てみましょう。

 

 

教会の定義ではない

二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。 (マタイ18:20)

 

2人でも3人でもクリスチャンが集まるところに主はおられる。すなわち、エクレシア(教会)があるという解釈です。いわゆるオーガニックチャーチを立証、推進するのに引用される箇所ですね。自分も実はそう思って引用していました。

 

しかし、この箇所の文脈は「教会の定義」を語っている箇所ではありません。罪を犯した兄弟をどう扱うかと言うテーマです。(マタイ18:15−20)

 

この箇所の前後の文脈

18章3節から20節までは「 」で括られており、イエス様が1つのテーマでお語りになったメッセージであることが分かります。初めのテーマは「つまずきを与える者への裁き」(18:6−14)であり、次の話は「迷い出た1匹の羊」を探し、群に回復する話です。神は人が滅びることを願わないからです。(18:14)回復への神の御心が述べられた後、今回の箇所です。そして、今回の箇所の後に続くのは有名な「7の70倍」の「赦し」というテーマです。「その時」(18:21)ペテロがイエスに質問したのであり、イエスの前のメッセージを聞いてのリアクションであることが分かります。

 

今回、扱うのは「罪を犯した兄弟」に対する処置というテーマですが、前後の文脈から根底にあるメッセージは、この兄弟に対しての「赦し」と群への「回復」であることが分かります。単なる裁きの規定ではないのです。だから、この人が聞き入れるなら、「自分の兄弟を得た事になる。」(15節)という群への回復のメッセージになっているのです。

 

 

「罪を犯した兄弟」の扱い方の順番

1.    二人だけのところで個人的に指摘する。

 

2.    聞き入れない場合、2人か3人の証人の証言により罪を立証する。

証人は複数必要です。

 

3.      それでも聞き入れない場合は、教会に伝え、教会としての判断を下す。

しばらくは教会の交わりから外す。(18:17)本人が痛みを通して

悔い改めることが目標なのであって、単なる冷たい仕打ちではないのです。

 

ちなみに、「キリストは裁くな、と言っているのだから・・」と言って罪を放置するも間違いです。アナニアとサッピラは聖霊に背いたので、裁かれました。パウロもIコリント5章で「兄弟」と呼ばれながら罪を悔い改めない者への適正な裁きについて語っています。教会メンバーを守るためにも適切な処置は必要です。ただし、自分の基準で裁いてはいけません。判断には複数の証人が必要なのです。

 

18節での「つなぐ」「解く」は許可や禁止を表します。教会の長老たちには教会の問題に関しての許可や禁止の判断が委ねられているということでしょう。

 

その文脈で19節があります。大事な決断は一人で下してはなりません。二人以上が心を1つにして祈るなら、解決への判断が与えられます。

 

 

「二人か三人がわたしの名において・・・」の意味は?

さて、その流れの中で、今日の20節です。この「2人〜3人」は16節の「2人〜3人」の証人に対応しています。つまり、2〜3人の証人が集まって祈って、判断した事に、キリストも同席され、その判断を承認するという意味です。この文脈上はそうなのです。



 もちろん、2人〜3人集まるところに主はおられる、主にある交わりが存在することは事実です。「教会は建物ではなく、キリストを信じる人々のコミュニティなのだ。」そういった2次的適応はできます。しかし、これをもって3人いれば「教会」という定義は難しいのです。新約の手紙を読むと教会には「長老」「執事」「監督」(Iテモテ3章、テトス1:5)などがおり、スタバでの単なる任意の集まりだけではないからです。責任持って、へりくだって群れを牧する長老の存在が必要です。(Iペテロ5:1—5)

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

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