2021年12月30日木曜日

とにかく福音を伝える


ランダム伝道VSフレンドシップ伝道

80年代には、ランダム伝道(街に出て、声をかけて個人的に福音を伝える伝道方。とにかく個人伝道してみないと、その人が、興味があるかは分からないないから、知らない人にも声かけて伝道しましょうという趣旨。)VS フレンドシップ伝道(時間かけて、信頼ある人間関係を築いてから個人伝道すべし)という議論がありました。今となってはどちらも必要だなということです。私の属する宣教団体ではランダム伝道をよくしました。新宿、歌舞伎町でもやったことがあります。特に大学キャンパス内でよくやりましたが、ランダム個人伝道で救われ、後に宣教団体のスタッフになったり、牧師になったりした人も出ました。ですからランダム伝道も無駄ではないのです。一方、近隣や職場などでは信頼を築いて証することは大事です。

 

 

路傍伝道の是非

路傍伝道といえば救世軍でした。私が小学生の頃、家の近くを「ただ信ぜよ」を太鼓とラッパで演奏した軍服姿の一団が、通っていたのを覚えています。その頃はクリスチャンではありませんでしたが、あのメロディーは心に残っています。

 

路傍伝道においてもいろいろ意見があるでしょう。「そんな事やるとキリスト教のイメージが悪くなる。」と否定的な人もいるでしょうね。ただ、私の経験ではあまり伝道したことがない人ほど否定的です。路傍伝道もいろいろあっって、「神の裁きが来ます!」というニネベに遣わされたヨナのような「宣言」宣教をやっている人々もあります。印象は良くないのですが、宣教の中にはあのような「預言者的」側面もあるのでしょう。また、新宿アルタ前の交差点で、ファショナブルに白いスーツ姿で路傍伝道する人もいました。TVにも取り上げられ、それなりのインパクトがありました。

 

伝道方法はいろいろあります。コンサート伝道、英会話伝道、カフェ伝道、癒し伝道、文書、映画、スポーツそして、路傍伝道などなど・・。私としては全部やったらいいと思っています。日本では決定版の伝道方法はないのです。だから何でもやるしかないと思っています。「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:17)のです。雨の日に、びしょ濡れになって車のフロントガラスに張り付いているトラクトを読んで救われ、のちに牧師になった人の話を聞いたことがあります。何が幸いするか分かりません。とにかく福音の種を蒔くことです。自分の得意とする分野で、導かれるままやったらいいと思います。

 

最近、私が関わっている路傍伝道ネットワーク代表の菅野直基牧師は「一人の人を救うため、多くの人を敵にしない伝道」を強調しています。彼はにこやかに「お仕事、お疲れ様です。イエス様はあなたを愛しています!」と丁寧に優しく語りかけます。また、ミニコンサートをしながら聖書配布しますが、音楽もガンガンというよりメローで「癒し系」です。とても好感が持てます。しかし、メッセージは妥協せず語ります。賛美が流れる中で聖書配布すると霊的戦いの中で守られている感じがします。時に立ち止まって賛美を聞いたり、質問をしてくる人もいて個人伝道のチャンスもあります。最近は、このスタイルに賛同しているので、参加するようになりました。



路傍伝道での私の体験

以下は、私が今年(2021年)の夏から路傍伝道に関わってのリポートです。基本、聖書配布ですが、立ち止まってくれる人もあり、結構個人的に福音を語ることもできるのです。励ましとなるので少しお分かちしたいと思います。

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8月6日(金)中野駅北口

宣教師のチームと一緒にオリンピック伝道冊子を配布。中年女性が近づいてきて「どこの教会ですか?」と尋ねてきました。話を聞いてみると求道者で、時々教会にも行っているそうでした。その場で、福音の4つのポイントを話し、伝道冊子を手渡しました。「地獄は本当にあるんですか?」など質問され、シリアスな霊的会話もできました。「イエス様を信じて平安を持ってください」と言うと、笑顔で去って行きました。

 

8月13日(月)新橋駅烏森口

トラクトを配っていると創価学会の方が「伝道やめてください、あなた方が伝道するからコロナ感染が増えるんです!」と訳の分からないことを言われ攻撃されました。「南無妙法蓮華経を唱えないと滅びる!」と言われたので、私は「私の罪のために死なれたのはキリストだけです。十字架でなければ、私は、救われません。」と大胆に証できました。これもいい体験です。この日は霊的戦いが激しかったですが、その後、広島から出てきていた80歳のおじいちゃんが、菅野牧師から直接、福音を聞き、一緒に最後はお祈りできました。

 

10月15日(金)中野駅北口

選挙も近いので共産党の街頭演説が後に控えており1時間くらいしか出来ませんでした。無神論の共産党が機関紙を配布している隣で、「いのちの御言葉」バイブルを配布しました。最後は共産党の人に、私たちのチーム写真を撮ってもらいました。何とも奇妙な関係です。立ち止まって演奏を聞いている人がいました。元カントリー&ウエスタンバンドでヴォーカルをしていた人で、今は音楽ジャーナリストだそうです。幼稚園はキリスト教系だったとフレンドリーでした。私は、「イエス様は、あなたを愛してます!」とお伝えし、「4つの法則」をお渡ししました。最後には献金までしてくださいました。家に近くに教会があるそうで、牧師と挨拶する仲だそうで、教会に通ってくださることを祈ります。路上で見知らぬ人といきなり霊的会話ができるのも路傍伝道の醍醐味であり、楽しさです。今日も参加して良かったと思いました。

 

10月19日(火)浜松町

無料バイブルを配布しましたが、ほとんどの人は自分には関係ないものとして無視して通り過ぎていきます。「笛を吹いても踊らず」というイエス様の心境が分かる気がしました。毎回、不思議な出会いがあります。15歳の時、長崎の教会に行っていたという方と個人的に話ができました。賛美歌が懐かしいと立ち止まり聞いていました。知的障害のある方で、今は横浜で生活保護を受けているとのことでした。路上で彼のために肩に手を置いて祈りました。一番恵まれるのは自分です。自分の心が満たされて、また参加したくなります。

 

11月10日 田町駅

一人で15冊以上バイブルを手渡せました。(厳しい時は2時間で2冊!)数名は「ありがとうございます。」と言って丁寧に受け取ってくれました。今日は未信者の方に個人的に福音を伝えられるよう祈って参加しました。そうすると一人の女性が聖書を受け取ってからページをペラペラ開いて戻ってきて「聖書って難しいんですか?」と聞いてきたので、福音の4つのポイントを路上でお話しできました。終わってから半年くらい前の路傍伝道で信じたと言うKさんと挨拶しました。話を聞いてみると信仰の確信が無いので「4つの法則」を読んで説明し、イエスを救い主として信じるお祈りに導きました。「イエス様は決してあなたを離れることはないんですよ」と励ましました。最後は彼も一緒に「ハレルヤ」三唱しました!

 

12月13日(月)自由が丘

いつもは都心ですが、今回は郊外。やはり雰囲気が違います。午後3時からということもあり、のんびりした感じがありました。大学生、高校生も多いです。今回は漫画聖書(Mission)を配布しました。夕方になると下校時の小学生がたくさん通りました。マンガ冊子ということもあり、興味を持ってくれて、多くの子供が手にしてくれました。私個人も40冊近く配布できました。子供が福音に触れてくれることは大変嬉しいです。

 

12月24日(金)小田急線経堂駅

総勢3名のチームでしたが、クリスマスイブに伝道できて感謝でした。郊外ということもあって都心より反応が良かったです。個人的に10冊ほど聖書を配れました。バス乗り場で列をなして待っている人達の目の前で菅野牧師がクリスマスソングを歌い、ショートメッセージをしましたので、彼らはメッセージを聞かざるを得ない状況でした。でも好意的に受け取ってくださったようで、投げ銭までしてくれる方が数名いました。駅前にクリスマス賛美が響いて、いい霊的空間が作られていました。

 

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは

 御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためで

 ある。」  (ヨハネ3:16)

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年12月23日木曜日

「牧師の38%が離職を検討」


米調査「牧師の38%が離職を検討」 教会指導者たち憔悴させ続ける燃え尽き症候群 20211125日(米クリスチャニティ・ツデイ抜粋)

 パンデミックが進むにつれて、燃え尽き症候群が教会の指導者らを憔悴させ続けている。バーレソン牧師は、所属するティンバーリッジ教会(ステファンビル)とビスタ教会(ハートランド)が主催する3日間のリトリートを企画している。「リトリートには毎回、牧師を辞めることを考える牧師たちが参加する。彼らは多くの点で行き詰まりを感じており、それがプレッシャーや燃え尽き症候群に拍車をかけている」と話す。

 牧師の燃え尽き症候群は、パンデミックの間に悪化している。今日発表されたバーナグループの調査によると、牧師の38%がフルタイムでの牧師職を辞することを真剣に検討しており、1月時点の29%から大幅に増加している。「この18カ月間に加速した変化により、多くの牧師は頭も心も混乱している」と、バーナ教会の雇用担当副社長ジョー・ジェンセン氏は述べる。「自身の職業を再考する牧師の数が増えていることは、ストレスの増加やメンタルヘルスの悪化と相関している。このように多くの牧師が危機に瀕しているため、牧師たちは友情を育み、苦悩について率直に話し、アドバイスを受け、精神的なサポートを得ることができる場所をより強く求めている。

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そもそも大教会は必要?

牧師が孤独にならないように、話し合う場の提供は必須なのだろう。牧師のご苦労を思いやると同時に、「教会」のあり方そのものにも疑問が湧いてくる。アメリカでは数千人の大教会も珍しくない。大教会ほどパンデミックの影響が大きいものと思われる(経済面含め)。しかし、そもそも数千人の教会を牧会することが御心なのだろうか? 毎週、数千人が1つの会堂に集って礼拝する必要があるのだろうか? 大人数が集まる教会となれば、当然、組織としての管理が必要になる。予算を決め、決算を報告し、承認する監査や役員が必要となる。組織運営が必要となり、命令系統の組織図が必要となる。組織なるがゆえに生まれる仕方のない葛藤や問題、いわゆる「組織悪」が生まれる。大教会では大きなお金が動くことになる。大教会には牧師室があり、秘書もいる。家族より秘書の女性と過ごす時間の方が多くなることもあるだろう。誘惑も生まれる。確かに、大教会にはお金と人材があるので、様々なミニストリーを展開できるメリットはある。しかし、ネットの時代、多々の小さな教会がネットワークして大きなミニストリーをすることも可能ではないだろうか。私達が主張しているモットーは「教会は小さく、ミニストリーは大きく」だ。

私がアメリカ留学している時、お世話になったホストファミリーの教会はアメリカには珍しく30名ほどの小さな教会だったが、前任の牧師が去り、新しい牧師を探していた。それで、毎週、トライアウトとして違った牧師が来て説教をしていた。そして、教会員が気に入った牧師がめでたく「就職」できる訳だ。

「就職」にあたっての牧師側の要求、例えば、週に1日家族との時間をとることなど、きちんと条件を取り決めるところがアメリカらしいなと思ったことを覚えている。しかし、今日、上記の記事のように「就職場」としての教会に疑問が生まれてきている。

 

日本の場合はそれほど大きな教会は少ないだろうが、一人の牧師が説教準備の他、会堂の掃除から週報の印刷、訪問、相談、「何でも屋」になる危険性がある。現代的牧師という制度に問題は無いのか?小さいとは言え、100名を超えれば、組織化はやむを得ないだろう。経済的に複数牧会が難しく、一人の牧師に負担がかかる。「燃え尽き症候群」になってしまうのは、牧師のせいと言うより、「教会のあり方」、期待される「牧師の役割」に、そもそも問題があるのではないだろうか?教会を「運営」するために、皆がギスギスしているとしたら本末転倒ではないだろうか。

 

発想の転換をしてみよう。

 

シンプルに考えてみよう。クリスチャンの使命は

 

Love God (神を愛し)

Love People (人を愛し)

Make Disciples (キリストの弟子を産み出す)

 

そして、「教会」は、建物ではなく信徒の群れ。信徒が愛しあい、奉仕し合い、御国をデモンストレーションし、霊的に成長し、キリストの弟子として整えられていくところ。

 

まず、これを達成するのに、1つの教会の人数の多さは関係ないだろう。ところが、50人以下だと「伝道所」、50人超えて独り立ちできるようになると「教会」と呼ぶ不思議な伝統がある。実際、礼拝人数が減り、このままでは「伝道所」に格下げになるので、どうしようと悩んでいる信徒の話を聞いた。

 

では、上記の使命を達すのに最適な環境は何だろうか?

 

このブログでも取り上げたが、昨今、今まで大教会主義だったアメリカの若い牧師の間に「小さな教会=教会を産み出す教会」や、信徒リーダーや、仕事をしながら牧会する牧師による「マイクロチャーチ」の可能性が模索されるようになった。成功の基準を1つの教会の「大きさ=人数」ではなく、「弟子を生み出しているか?」に切り替えたのだ。(この運動 ExponentialFacebookはこちら。https://www.facebook.com/churchplanting


 

「小さな教会」のメリット

建物に固執しない「小さな教会」のメリットは・・・

 

  組織的な面のストレスが大幅に減る。その分、人間関係にフォーカスできる。

  全員参加。牧師とお客さんとしての信徒の関係ではなくなる。

  インターネット上のリソース(賛美、メッセージ)を活用すれば、霊的リーダーの負担も少なくて済む。

  少人数なので「お互いに」を実践できる。より信仰を日常化できる。

  カフェや、家庭を解放して集まれば、建物に回すお金をミニストリーに使える。

  場所や時間に規定されない、「いつでも」「どこでも」教会ができる。

 

このパンデミックを通してTMCエクレシアではzoomに切り替わったが、参加メンバーのお互いの絆は、より深まり、信仰は強められ、神と人への愛が増している。「お互いに」の実践として、全員参加のバイブルスタディ、祈り合いを定期的に実践できるようになってきている。何よりも参加者は皆、エクレシアの時間を待ち望んでいる。義務感からではなく、一緒に会える時間を「楽しんで」いる。パンデミックになったからといって、この「本質的」な部分は、ほとんど損なわれず、キープできている。

 

今の教会のあり方では、先の記事にあるように牧師の悩みは深まるばかりだろう。自分が大教会の牧師なら今頃、絶対に「鬱」になっているだろう。

 

 

ピンチはチャンス!

 

 パンデミックだ!

 会堂で礼拝できない!

 無牧の教会が増えている!

●「キリスト教」という宗教は衰退している!

 

しかし、このピンチはチャンスなのかも知れない。ピンチの時は「転換」のチャンス。パンデミックでインターネット利用の比重が増えた。自分の教会のオンライン礼拝だけでなく、良くも悪くも、他の教会の礼拝を視聴したり、他の教会の牧師のメッセージを聞けたりする機会が増えた。無牧の教会でもYouTubeにアップされている賛美やメッセージを聞いて礼拝することも可能ではないだろうか。大転換の先には明るい未来があるのかも知れない。形骸化された「キリスト教」という宗教は廃れるだろう。しかし、今もキリストは生きているし、キリストの体(エクエシア)は生きている。体が機能できる形に転換さえできれば・・・

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年12月16日木曜日

クリスマスの違和感

今回は個人的なつぶやきです。聞き流してください。

 

街はライティングで素敵に輝き、クリスマスツリーがあちこちに。今年も、もう終わるんだなあ。この季節「らしさ」を味わえる時です。街のクリスマスは好きなんですよ。一番日が短い、この季節。太陽の復活を願ったミトラ教の「冬至の祭り」が元祖らしいですね。殺風景な冬の夜に素敵なライティングが輝くのは楽しいです。日本では、ほとんどの人は「キリストの降誕」を祝うためにクリスマスをやっているわけではないでしょう。むしろ、元祖に忠実に「冬のお祭り」、「風物詩」としてやっている訳で、それなりに一貫性があって、いいんじゃないでしょうか。キリスト抜きで十分機能しています。だから、そういう「北欧産サンタのクリスマス」を仏教系の幼稚園でやっても何ら違和感もないのです。



ただ、教会の「クリスマス」となると、どうも私は、違和感を感じるのです。逆に「北欧クリスマス」抜きに「キリスト降誕祝い」が機能するんでしょうか?

 

クリスマスのイメージはやっぱり、ロマンティックなホワイト・クリスマス。もみの木のクリスマスツリーに赤や金の玉の飾り、暖炉の部屋に家族が揃って、幸せそうにご馳走を食べる風景。トナカイのソリに乗ったフィンランド生まれの赤白サンタと贈り物・・・つまり北欧のイメージなのです。キリストが生まれたパレスチナのイメージではありません。

 

キリストは、12月25日に生まれたように印象操作されていますが、キリストの誕生日は分からないのです。(聖書学者の皆さん、頑張って正確なキリストの誕生月を割り出してください。)自分もクリスチャンになってしばらく、12月と信じていました。ひょっとしたら教会学校の先生が子供に「クリスマスはイエス様の誕生日」と教えているかも知れません。これってちょっとマズイですよね。ともあれ12月ではなさそうです。今日、エルサレムの12月の平均最低気温は8度。当時は、もっと寒かったかも。ともあれ夜は相当寒いのです。凍える寒さの中、羊飼いは夜番をしているとは思えないし、第一、8度以下の暖房のない、寒い馬小屋でヨセフとマリアが一晩過ごすとも思えないですね。馬小屋の床は一面、藁(わら)があるので、焚き火はできませんしね。

 

でも「教会」がちゃっかり12月25日の「冬至の祭り」を拝借しちゃって、「キリスト降誕」を祝う日にしてしまったのです。その後、「北欧産赤白サンタ・クリスマス」が素敵なので、批判するどころか、それも拝借しちゃって、ツリーを置いて、教会堂を綺麗に飾り付けるようになりました。そして、クリスマスは教会の「年中行事」となり、吟味されることなく、「そろそろクリスマスの季節だから・・」と行事を繰り返すようになったのです。

 

前の教会では、祝会にサンタが出てきて子供にギフトを配っていました。さすがに教会員の中から「聖書的でない」と批判の声が出る一方、「子供達が喜ぶんだからいいじゃない。」との声もあり議論になりました。パクリが上手なのはいいけど、「教会」としてのオリジナリティが全く無いのは寂しいですね。誰もパレスチナ風に飾り付けることは考えませんしね。ケーキとチキンの代わりにイスラエルの料理を食べたら面白いのにね。

 

馬小屋は馬の糞や尿、馬の匂いで臭いのです。綺麗にクリスマス・デコレーションした暖炉の部屋と、ご馳走のイメージはありません。クリスマスツリーは15C以降のドイツで発祥した創作品らしいですよ。初代教会には無かった発想です。これもキリスト誕生とは無関係ですね。もちろん、クリスマスケーキとチキンも関係ありません。

 

このように、パレスチナのリアルな「キリスト降誕」シーンと「北欧スタイル」のクリスマスは大分違うのです。違うものが結び付けられているのです。異質な2つを結びつけようとするところに無理があるのです。デパートで「ジングルベル」と「きよしこの夜」がメドレーで流されてしまうのも混乱の象徴です。

 

この世は無頓着でいいかも知れませんが、少なくもクリスチャンは違和感を感じて当然ではないでしょうか。サンタの起源が聖ニコラスだとしても、もう北欧産の現代版、赤白サンタが大手を振って歩いており、「キリストご降誕とサンタは何の関係もありません。」と今更言っても、時すでに遅し。教会が独自性を出さずに「この世」のクリスマスを迎合してきた報いです。煮え切らない「キリスト降誕祝い」をするより、どちらかに決めて欲しいものです。そのほうがスッキリします。

 

どうしても「キリスト降誕」を祝いたいなら、異教起源の現在のクリスマスと縁を切って、別な日に、そして、もっとユダヤっぽくしたほうがいいのではないでしょうか。

 

ただ、聖書のどこにもクリスマスを祝うように命じられていないし、初代教会にクリスマスをやっていた記録もないのです。むしろ、使徒たちが伝えたのは「復活」と「再臨」のメッセージでした。「使徒の働き」とペテロやパウロの「手紙」を読めば分かります。

 

切っても切り離せない「教会」と「クリスマス」ですが、実は、教会がクリスマスをやらなくても「罪」ではないのですよ。やっても、やらなくてもいい程度のものです。個人的には無くてもいいと思っています。少なくも自分の信仰には影響しません。もっと「復活」と「再臨」にフォーカスしたほうが聖書的だと思っています。初代教会の信徒たちは「マラナサ」(主よ、来てください!)と再臨を待ち望む挨拶をしていました。12月に「メリークリスマス!」という挨拶はなかったのです。

 

教会のクリスマス礼拝で、「主は来ませり!主は来ませり!」と「キリスト御降誕」をお祝いするのですが、クリスチャンにとってメシアの御降誕は、1丁目、一番地。わざわざ言われなくても周知の事実です。「主はきませり!」は、キリストの御降誕を知らない外の人々に路傍伝道でもして、告知するべきものでしょう。信者同士、内輪で告知しあっても意味がありません。それに、「主は来ませり!」が、そんなに大事なら1年中歌ったらいいですよね。でも12月25日を過ぎるとピタッと歌わなくなるのです。12月以外に「ご降誕」を祝うと「変」という、雰囲気が醸成されています。これ自体が変!

 

「主は来ませり!」そう、キリストが来られ、私たちのために十字架で死なれ、蘇り、天に昇られたのを知っているので毎週日曜に礼拝してキリストを崇めている訳です。つまり、忠実なクリスチャンは、毎週「クリスマス」をやっているのです。何も12月に取り立てて、思いついたように「御降誕」をお祝いする必要もないだろうと思います。

 

「御降誕」を本当に実体験したい人は、暖かい会堂内で、ご馳走食べてパーティをするより、臭い馬小屋で礼拝すべきでしょう。時々、クリスマスが教会の「忘年会」のようになっているのを見ます。それでは、馬小屋で生まれたイエス様に申し訳ないです。「ご降誕」を告知したいなら、外の人を招いて伝道会にしましょう。

 

「北欧クリスマス」が広まってしまった以上、あとはそれを用いて伝道の機会に利用することでしょうか。とにかく何であれ、福音が伝えられるなら素晴らしいことです。パウロはきっと喜んでくれます。

 

見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。  (ピリピ1:15−18)

 

サンタ帽かぶってトラクト配ろうかな・・・

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年12月9日木曜日

「もうイエス様では救われないのか?」


上記は、2021年11月22日にYahoo newsで配信された宗教ジャーナリスト鵜飼秀徳氏の記事のタイトルだ。その一部をご紹介しよう。

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「もうイエス様では救われないのか」

信者急減キリスト教が有史以来の危機世界的"宗教変動"の衝撃

 

欧米で「教会離れ」が進んでいる。米国の調査機関によれば、信じる宗教は何かとの問いに「キリスト教」と回答した米国の成人は2009年の77%から10年後に65%に急減した。「逆に増えているのは無神論者で、特に2030代は旧来からの教会のつながりよりも、ネット(SNS)を通じた無宗教コミュニティーを求める傾向がある。また、アップルやグーグルなどで瞑想が取り入れられたり、マインドフルネスや禅への関心が高まったりしたことで、半世紀前にはほとんど存在しなかった仏教徒も増えている」という。

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ちなみにこの内容は、コメンテーターとしてアーサー・ホーランド師が出演している、11月26日のABEMA TVTV朝日系インターネットTV)の「アベヒル」でも紹介された。

 

一般のニュースでこのようなテーマが取り上げられたのは興味深い。ただ宗教離れは創価学会を始め新興宗教でも起こっており、別段驚くことでもない。「宗教」が人間の生み出す「文化形態」の1つである限り、時代とともに盛衰があるし、変化もある。「宗教」としての「キリスト教」もそうだろう。

 

 

セキュラーな人々の考え方

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。  彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。

                     (ローマ1:21−28)

 

ケンタッキー州ルイビルにある南部バプテスト神学校の9代目校長、アルバート・モラーJR氏のThe Way the World Thinks (世の人の考え方)という記事によると、ローマ書の1章をベースにしながら、「堕落」により以下の影響が明確に現代人の思考に見られると述べている。

 

1)      Ignorance (無知)

2)      Distractedness (注意が削がれること)

3)      Forgetfulness (忘れやすいこと)

4)      Prejudice (偏見)

5)      Faulty Perspective (間違った視野)

6)      Intellectual fatigue (知的倦怠感)

7)      Inconsistencies (一貫性がないこと)

8)      Failure to draw the right conclusion (正しい結論が出せない)

9)      Intellectual apathy (知的無関心)

10)Dogmatism and closed mindness (閉じた精神と固執した考え)

11)Intellectual pride (知的プライド)

12)Vain imagination (妄想)

13)Miscommunication (誤解を生むコミュニケーション)

14)Partial Knowledge (部分的な知識)

 

*「無知」。まさに、「知者であると主張しながら愚かになり」の通りで、世の知識人と言われる人々が「霊的に全く無知」であることに驚く。また、Distractedness (注意が削がれること)に関しては、「ハロウイン」や「魔法」もの映画の流行、悪魔的なファッションや音楽が現代的でカッコ良いいと、若者に受け入れられつつある。また世には、UFOやオカルト、カルト宗教、スポーツイベント、その他、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などキリストから注意を背けるものが多々満ちている。

 

そして、さらに・・・

 

現代人の思考の5つの前提を紹介している。

 

1)      Postmodern anti-realism (ポストモダン反現実主義)

そもそも現実って何?現実は幻想?確かなものってあるの?今後、バーチュアル・リアリティが進化すれば、さらに反現実は加速されるだろう。

 

2)      Moral relativism (道徳的相対主義)

神を失った現代人は絶対的な道徳基準を持っていない。「良い」、「悪い」は、全て状況によるという状況倫理。まさにドストエフスキーが言ったように「神がいないなら、全ては許される。」だ。

 

3)      Therapeutic universalism (治療的普遍主義)

現代、すべての人は、何らかの病気や障害を持っており、セラピー(治療)を必要としている。「罪」とは言わず「障害」と呼ぶ。それらの障害はセラピーで癒され回復され、すべての人は、「救われて」ゆくと信じている。

 

4)      Radical pluralism (極度な多元主義)

絶対がないから、当然の帰結として、全てを並列に置く多元主義となる。すべての宗教は同等に正しく、同等に価値があるとなる。キリストの優位性や独自性は許されない。

 

5)      Managerial pragmatism (管理可能な実務主義)

人間の知恵、技術により解決できない問題はない。全てはコントロールされるという確信。これは今後のデジタル管理社会への道だ。

 

すでに世の人々の思考がこのようになっている以上、聖書の世界観、道徳観が排除されてゆくのは驚くに当たらない。その流れの中で、自分の「性」や「性的嗜好」は聖書ではなく、自分達で決めるというLGBTQ肯定への流れがすでに広まっている。「進歩的」なインテリ達はこう言うだろう。

 

「聖書の時代遅れの古臭い価値観は捨て去ろう。神はいない。王はいない。俺たちがルールを決める。新しい世界は俺たちが立ち上げる。」

 

実際は「進歩」ではなく、大昔から有った聞き慣れた神への反逆思想だ。それでバベルの塔は崩され、世界は洪水で滅び、ソドムには火と硫黄が降った。不敬虔な者への見せしめを忘れてはならない。(IIペテロ2:6)

 

 

道徳教育では解決できない

日本では再び、教育に「道徳」が盛り込まれた。しかも、採点対象になっているそうだ。いじめや自殺防止対策に道徳教育が復活ということか? 果たして、これでいじめ対策になるのだろうか?「道徳」で命の尊さを教えられるのか?

 

学校では、当たり前に「進化論」が教えられている。無神論を前提とした、進化論、すなわち、「弱肉強食」、「適者生存」を教えながら、「いじめ」はいけない、「殺人」はいけないと教える矛盾。正に上にあげたInconsistencies (一貫性がないこと)だ。これでは説得力に欠ける。生徒の「どうして人を殺してはいけないのですか?」の質問に答えられない。創造主を無視していながら、いきなり、「命は大事」、「人権は大事」、「いじめは悪い」という理論。根拠がない。無神論的世界観では解決はないのだ。人は偶然と進化の産物ではなく、神の似姿に創造主によって丁寧に造られたから尊いのだ。創造主がいる「世界観」から出発しなければ、「命」「人権」は説明つかないのだ。

 

 

Jesus saves

この時代、聖霊の働きによって「救われる」人々はいる。今も「イエス様で救われる」のだ。少数派だろうけど、イエスに真剣に従いたいという「弟子」たちも起こされている。恐れるなかれ「小さな群れ」よ。バアルに膝をかがめない「レムナント」が残されている。また、御国の前味を味わえる「エクレシア」が存在している。キリストの体が消えてしまった訳ではない。だから、あまり数字に惑わされる事なく、忠実に福音の種を蒔き、決心した人を「キリストの弟子」として育てていればいい。

 

1)終わりの日に、背教が起こることは想定内。

どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。

                     IIテサロニケ2:3)

  「背教」とは、「キリスト教徒」と名乗る人々の中から実質、主イエスを否定する者達が出ることを指す。

 

2)ますます「自分」、「お金」、「神より今の快楽」を愛する時代になる。

終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。

                      (IIテモテ3:1—5)

 

3)すべきことは忠実に、み言葉を伝えること。

神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい

                     IIテモテ4:1−5)

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

2021年12月2日木曜日

Unifier VS Purifier


クリスチャンのある人達は「互いに愛し合う」ことに重きを置き、クリスチャンが「一致」することに重荷を感じています。あるクリスチャン達は教理的正しさに重きを置き、聖書的でない教えから「信仰が守られる」ことに重荷を感じています。ある人はこれをUnifier VS Purifierと表現しています。「一致させる者」と「きよめ分かつ者」でしょうか。どちらも大事ですが、健全なバランスが必要ですね。

 

自分が学んだケンタッキーの保守的なバイブルスクールはまさに後者の典型で、「信仰を守る」ために自分達が「清く」あるための「分離主義」をとっていました。ケンタッキーの山の中で自分達のクリスチャンコミュニティを作り、農場を持ち、ほとんど自給自足で生活していたのです。町に買い物に行っても「世の人」とは必要最小限しか関わらない。ある時、音楽の先生に連れられて町へ行って、食事をしようとレストランに入ったのですが、室内でロックミュージックがかかっていたので、「ここはダメだ、出よう」と言われ連れ出されてしまいました!ロックはサタンの音楽という理解でした。これじゃ、伝道できないなと思いました。またあまりに保護的な環境にいると返って、世に出た時に、誘惑に弱くなる気もしました。

 

まあ、これは「対世俗」として距離を取る話ですが、「対クリスチャン」でもPurifierは厳しいです。私達のバイブルスクールは神学的にはアルメニアン・ウエスレアンで第二の転機としての「きよめ」を強調しています。ですから、それに反対したり軽視したりするクリスチャンの群れとは「距離」を取るのです。「カルビンの本を読むのは異端だ。」くらいの感じでした。

 

ここ数年、ハーベストタイムミニストリーズに出会い、目が開かれ、たくさんの恵みを頂きました。そこでは「聖書解釈は1つ、適応は多々ある」という理解です。基本、「デスペンゼーション」、「字義的解釈」です。特に終末論がしっかり整えられています。それで聖書がよく分かるし、助けになるのです。しかし、「聖書解釈は1つ」となると、そうでない人は「分かってない」と無意識に見下すかも知れません。例えば「患難期前携挙説」を取らない人は、「聖書的でない」ということになります。自分達のような解釈に立たない人たちとの「距離」を取るようになるでしょう。自分も最近、その傾向がありました。同じ解釈の者同士でいる方が気持ちいいからです。

 

そこで、聖書が言う「一致」、「互いに愛し合う」をどう実践していくのか、難しいところです。そこがチャレンジされています。そして、今度は「一致」を強調しすぎると「教理」に妥協が生じ、WCCのように超教派どころか、超宗教的協力まで行ってしまいます。一体、どこで線を引けばいいのでしょう。

 

クリスチャンVSノンクリスチャン

この区別をあまりしたくない人もいます。同じ創造主に造られた人間ですから、それも分かります。確かに神は全ての人を愛しています。全ての人を救いたいのです。(Iテモテ2:4)ただ、聖書は「救われる」、「救われない」の区別は明白につけています。(ヨハネ3:16—18)人は福音の3要素:1)イエスが私の罪のために死なれたこと。2)死んで葬られたこと。3)3日目に復活したこと、つまりイエスが神の子であり、救い主であることを信じるなら救われると言うことです。(Iコリント15:1−5、ローマ10:9)「生まれ変わり」を体験していないなら、その人を純粋にクリスチャンと呼ぶことは難しいです。(ヨハネ3:3)イエスを信じて生まれ変わり、聖霊を頂いているなら「兄弟」です。愛し合うべきです。

 

真の信仰VS異端

新約の記者たちは「間違った教え」に敏感でした。パウロに至っては異なった福音を伝えるものは「呪われよ」とまで言っています。(ガラテヤ1:8)ナイーブであってはなりません。キリスト教の仮面を被っていても以下の印が見られるなら「異端」です。

 

  イエスの神性の否定

  イエスの十字架のみによる救いの否定(救いの条件は信仰と恵みのみによる)

  三位一体の否定

  聖書が霊感を受けた「神のことば」であることを否定。

  霊的リーダーの権威が聖書の権威よりも上になる

  愛と恵みではなく、恐れで信徒を支配する

 

リベラル神学はイエスの神性を否定し、聖書の霊感を否定するので、「神学」とレッテルは付いているものの、クリスチャンと認定するのは難しいのではないでしょうか。「聖書をそのまま信じる必要は無い」とか、「これは聖書著者の創作した話し」だとか言っている人は、Born Againしているとは思えません。

 

クリスチャンの間で分裂をもたらす課題

聖書を「神のことば」と信じているクリスチャンの間にも色々な神学的な立場の違いがあります。それが分裂を起こす場合もあります。

 

  聖霊のバプテスマの理解

  異言、癒しといった霊の賜物に関しての理解、実践

  幼児洗礼

  終末論(携挙、千年王国、大艱難時代の理解や時系列)

  最近はさらに、セカンドチャンス論やLGBT, 自衛戦争、妊娠中絶、安楽死など難しい現代的問題が加わっています。)

 

健全な考えとバランス

福音の3要素を信じて救われ、聖書を霊感された「神のことば」として信じ、キリストに従う生活をしている人なら「兄弟」として互いに愛し合い、同じキリストの体に属するものとして一致を目指してゆくべきでしょう。細かい教理の違いは「異端」でない限り、お互いにレスペクトする姿勢が必要でしょう。特に、聖書を信じていても終末論に関しては本当に様々です。

 

  イエスが再臨されること

  悪(サタンとその勢力)が滅ぼされること

  御国(新天新地)が樹立されること

 

の3点を信じているなら、兄弟として肩を組んでいいのではないでしょうか。

 

自分の寄って立つ神学的立場を理解し、表明することは大事です。しかし、同時にイエス様が強調された「一致」を求めることも重要です。

 

父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。 (ヨハネ17:21−23)

 

ここで分かるのは、「一致」は世への証だということです。また、伝道の観点からは、正しい「福音」が宣べ伝えられているなら、多少神学的立場が異なっても、動機が異なっていても、喜ぶべきでしょう。パウロはこう言っています。

 

人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。  (ピリピ1:15−18)

 

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執筆者:栗原一芳

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