今回は個人的なつぶやきです。聞き流してください。
街はライティングで素敵に輝き、クリスマスツリーがあちこちに。今年も、もう終わるんだなあ。この季節「らしさ」を味わえる時です。街のクリスマスは好きなんですよ。一番日が短い、この季節。太陽の復活を願ったミトラ教の「冬至の祭り」が元祖らしいですね。殺風景な冬の夜に素敵なライティングが輝くのは楽しいです。日本では、ほとんどの人は「キリストの降誕」を祝うためにクリスマスをやっているわけではないでしょう。むしろ、元祖に忠実に「冬のお祭り」、「風物詩」としてやっている訳で、それなりに一貫性があって、いいんじゃないでしょうか。キリスト抜きで十分機能しています。だから、そういう「北欧産サンタのクリスマス」を仏教系の幼稚園でやっても何ら違和感もないのです。
クリスマスのイメージはやっぱり、ロマンティックなホワイト・クリスマス。もみの木のクリスマスツリーに赤や金の玉の飾り、暖炉の部屋に家族が揃って、幸せそうにご馳走を食べる風景。トナカイのソリに乗ったフィンランド生まれの赤白サンタと贈り物・・・つまり北欧のイメージなのです。キリストが生まれたパレスチナのイメージではありません。
キリストは、12月25日に生まれたように印象操作されていますが、キリストの誕生日は分からないのです。(聖書学者の皆さん、頑張って正確なキリストの誕生月を割り出してください。)自分もクリスチャンになってしばらく、12月と信じていました。ひょっとしたら教会学校の先生が子供に「クリスマスはイエス様の誕生日」と教えているかも知れません。これってちょっとマズイですよね。ともあれ12月ではなさそうです。今日、エルサレムの12月の平均最低気温は8度。当時は、もっと寒かったかも。ともあれ夜は相当寒いのです。凍える寒さの中、羊飼いは夜番をしているとは思えないし、第一、8度以下の暖房のない、寒い馬小屋でヨセフとマリアが一晩過ごすとも思えないですね。馬小屋の床は一面、藁(わら)があるので、焚き火はできませんしね。
でも「教会」がちゃっかり12月25日の「冬至の祭り」を拝借しちゃって、「キリスト降誕」を祝う日にしてしまったのです。その後、「北欧産赤白サンタ・クリスマス」が素敵なので、批判するどころか、それも拝借しちゃって、ツリーを置いて、教会堂を綺麗に飾り付けるようになりました。そして、クリスマスは教会の「年中行事」となり、吟味されることなく、「そろそろクリスマスの季節だから・・」と行事を繰り返すようになったのです。
前の教会では、祝会にサンタが出てきて子供にギフトを配っていました。さすがに教会員の中から「聖書的でない」と批判の声が出る一方、「子供達が喜ぶんだからいいじゃない。」との声もあり議論になりました。パクリが上手なのはいいけど、「教会」としてのオリジナリティが全く無いのは寂しいですね。誰もパレスチナ風に飾り付けることは考えませんしね。ケーキとチキンの代わりにイスラエルの料理を食べたら面白いのにね。
馬小屋は馬の糞や尿、馬の匂いで臭いのです。綺麗にクリスマス・デコレーションした暖炉の部屋と、ご馳走のイメージはありません。クリスマスツリーは15C以降のドイツで発祥した創作品らしいですよ。初代教会には無かった発想です。これもキリスト誕生とは無関係ですね。もちろん、クリスマスケーキとチキンも関係ありません。
このように、パレスチナのリアルな「キリスト降誕」シーンと「北欧スタイル」のクリスマスは大分違うのです。違うものが結び付けられているのです。異質な2つを結びつけようとするところに無理があるのです。デパートで「ジングルベル」と「きよしこの夜」がメドレーで流されてしまうのも混乱の象徴です。
この世は無頓着でいいかも知れませんが、少なくもクリスチャンは違和感を感じて当然ではないでしょうか。サンタの起源が聖ニコラスだとしても、もう北欧産の現代版、赤白サンタが大手を振って歩いており、「キリストご降誕とサンタは何の関係もありません。」と今更言っても、時すでに遅し。教会が独自性を出さずに「この世」のクリスマスを迎合してきた報いです。煮え切らない「キリスト降誕祝い」をするより、どちらかに決めて欲しいものです。そのほうがスッキリします。
どうしても「キリスト降誕」を祝いたいなら、異教起源の現在のクリスマスと縁を切って、別な日に、そして、もっとユダヤっぽくしたほうがいいのではないでしょうか。
ただ、聖書のどこにもクリスマスを祝うように命じられていないし、初代教会にクリスマスをやっていた記録もないのです。むしろ、使徒たちが伝えたのは「復活」と「再臨」のメッセージでした。「使徒の働き」とペテロやパウロの「手紙」を読めば分かります。
切っても切り離せない「教会」と「クリスマス」ですが、実は、教会がクリスマスをやらなくても「罪」ではないのですよ。やっても、やらなくてもいい程度のものです。個人的には無くてもいいと思っています。少なくも自分の信仰には影響しません。もっと「復活」と「再臨」にフォーカスしたほうが聖書的だと思っています。初代教会の信徒たちは「マラナサ」(主よ、来てください!)と再臨を待ち望む挨拶をしていました。12月に「メリークリスマス!」という挨拶はなかったのです。
教会のクリスマス礼拝で、「主は来ませり!主は来ませり!」と「キリスト御降誕」をお祝いするのですが、クリスチャンにとってメシアの御降誕は、1丁目、一番地。わざわざ言われなくても周知の事実です。「主はきませり!」は、キリストの御降誕を知らない外の人々に路傍伝道でもして、告知するべきものでしょう。信者同士、内輪で告知しあっても意味がありません。それに、「主は来ませり!」が、そんなに大事なら1年中歌ったらいいですよね。でも12月25日を過ぎるとピタッと歌わなくなるのです。12月以外に「ご降誕」を祝うと「変」という、雰囲気が醸成されています。これ自体が変!
「主は来ませり!」そう、キリストが来られ、私たちのために十字架で死なれ、蘇り、天に昇られたのを知っているので毎週日曜に礼拝してキリストを崇めている訳です。つまり、忠実なクリスチャンは、毎週「クリスマス」をやっているのです。何も12月に取り立てて、思いついたように「御降誕」をお祝いする必要もないだろうと思います。
「御降誕」を本当に実体験したい人は、暖かい会堂内で、ご馳走食べてパーティをするより、臭い馬小屋で礼拝すべきでしょう。時々、クリスマスが教会の「忘年会」のようになっているのを見ます。それでは、馬小屋で生まれたイエス様に申し訳ないです。「ご降誕」を告知したいなら、外の人を招いて伝道会にしましょう。
「北欧クリスマス」が広まってしまった以上、あとはそれを用いて伝道の機会に利用することでしょうか。とにかく何であれ、福音が伝えられるなら素晴らしいことです。パウロはきっと喜んでくれます。
見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。 (ピリピ1:15−18)
サンタ帽かぶってトラクト配ろうかな・・・
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執筆者:栗原一芳
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