上記は、2021年11月22日にYahoo newsで配信された宗教ジャーナリスト鵜飼秀徳氏の記事のタイトルだ。その一部をご紹介しよう。
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「もうイエス様では救われないのか」
信者急減キリスト教が有史以来の危機…世界的"宗教変動"の衝撃
欧米で「教会離れ」が進んでいる。米国の調査機関によれば、信じる宗教は何かとの問いに「キリスト教」と回答した米国の成人は2009年の77%から10年後に65%に急減した。「逆に増えているのは“無神論者”で、特に20~30代は旧来からの教会のつながりよりも、ネット(SNS)を通じた無宗教コミュニティーを求める傾向がある。また、アップルやグーグルなどで瞑想が取り入れられたり、マインドフルネスや禅への関心が高まったりしたことで、半世紀前にはほとんど存在しなかった仏教徒も増えている」という。
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ちなみにこの内容は、コメンテーターとしてアーサー・ホーランド師が出演している、11月26日のABEMA TV(TV朝日系インターネットTV)の「アベヒル」でも紹介された。
一般のニュースでこのようなテーマが取り上げられたのは興味深い。ただ宗教離れは創価学会を始め新興宗教でも起こっており、別段驚くことでもない。「宗教」が人間の生み出す「文化形態」の1つである限り、時代とともに盛衰があるし、変化もある。「宗教」としての「キリスト教」もそうだろう。
セキュラーな人々の考え方
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。
(ローマ1:21−28)
ケンタッキー州ルイビルにある南部バプテスト神学校の9代目校長、アルバート・モラーJR氏のThe Way the World Thinks (世の人の考え方)という記事によると、ローマ書の1章をベースにしながら、「堕落」により以下の影響が明確に現代人の思考に見られると述べている。
1) Ignorance (無知)
2) Distractedness (注意が削がれること)
3) Forgetfulness (忘れやすいこと)
4) Prejudice (偏見)
5) Faulty Perspective (間違った視野)
6) Intellectual fatigue (知的倦怠感)
7) Inconsistencies (一貫性がないこと)
8) Failure to draw the right conclusion (正しい結論が出せない)
9) Intellectual apathy (知的無関心)
10)Dogmatism and closed mindness (閉じた精神と固執した考え)
11)Intellectual pride (知的プライド)
12)Vain imagination (妄想)
13)Miscommunication (誤解を生むコミュニケーション)
14)Partial Knowledge (部分的な知識)
*「無知」。まさに、「知者であると主張しながら愚かになり」の通りで、世の知識人と言われる人々が「霊的に全く無知」であることに驚く。また、Distractedness (注意が削がれること)に関しては、「ハロウイン」や「魔法」もの映画の流行、悪魔的なファッションや音楽が現代的でカッコ良いいと、若者に受け入れられつつある。また世には、UFOやオカルト、カルト宗教、スポーツイベント、その他、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などキリストから注意を背けるものが多々満ちている。
そして、さらに・・・
現代人の思考の5つの前提を紹介している。
1) Postmodern anti-realism (ポストモダン反現実主義)
そもそも現実って何?現実は幻想?確かなものってあるの?今後、バーチュアル・リアリティが進化すれば、さらに反現実は加速されるだろう。
2) Moral relativism (道徳的相対主義)
神を失った現代人は絶対的な道徳基準を持っていない。「良い」、「悪い」は、全て状況によるという状況倫理。まさにドストエフスキーが言ったように「神がいないなら、全ては許される。」だ。
3) Therapeutic universalism (治療的普遍主義)
現代、すべての人は、何らかの病気や障害を持っており、セラピー(治療)を必要としている。「罪」とは言わず「障害」と呼ぶ。それらの障害はセラピーで癒され回復され、すべての人は、「救われて」ゆくと信じている。
4) Radical pluralism (極度な多元主義)
絶対がないから、当然の帰結として、全てを並列に置く多元主義となる。すべての宗教は同等に正しく、同等に価値があるとなる。キリストの優位性や独自性は許されない。
5) Managerial pragmatism (管理可能な実務主義)
人間の知恵、技術により解決できない問題はない。全てはコントロールされるという確信。これは今後のデジタル管理社会への道だ。
すでに世の人々の思考がこのようになっている以上、聖書の世界観、道徳観が排除されてゆくのは驚くに当たらない。その流れの中で、自分の「性」や「性的嗜好」は聖書ではなく、自分達で決めるというLGBTQ肯定への流れがすでに広まっている。「進歩的」なインテリ達はこう言うだろう。
「聖書の時代遅れの古臭い価値観は捨て去ろう。神はいない。王はいない。俺たちがルールを決める。新しい世界は俺たちが立ち上げる。」
実際は「進歩」ではなく、大昔から有った聞き慣れた神への反逆思想だ。それでバベルの塔は崩され、世界は洪水で滅び、ソドムには火と硫黄が降った。不敬虔な者への見せしめを忘れてはならない。(IIペテロ2:6)
道徳教育では解決できない
日本では再び、教育に「道徳」が盛り込まれた。しかも、採点対象になっているそうだ。いじめや自殺防止対策に道徳教育が復活ということか? 果たして、これでいじめ対策になるのだろうか?「道徳」で命の尊さを教えられるのか?
学校では、当たり前に「進化論」が教えられている。無神論を前提とした、進化論、すなわち、「弱肉強食」、「適者生存」を教えながら、「いじめ」はいけない、「殺人」はいけないと教える矛盾。正に上にあげたInconsistencies (一貫性がないこと)だ。これでは説得力に欠ける。生徒の「どうして人を殺してはいけないのですか?」の質問に答えられない。創造主を無視していながら、いきなり、「命は大事」、「人権は大事」、「いじめは悪い」という理論。根拠がない。無神論的世界観では解決はないのだ。人は偶然と進化の産物ではなく、神の似姿に創造主によって丁寧に造られたから尊いのだ。創造主がいる「世界観」から出発しなければ、「命」「人権」は説明つかないのだ。
Jesus saves!
この時代、聖霊の働きによって「救われる」人々はいる。今も「イエス様で救われる」のだ。少数派だろうけど、イエスに真剣に従いたいという「弟子」たちも起こされている。恐れるなかれ「小さな群れ」よ。バアルに膝をかがめない「レムナント」が残されている。また、御国の前味を味わえる「エクレシア」が存在している。キリストの体が消えてしまった訳ではない。だから、あまり数字に惑わされる事なく、忠実に福音の種を蒔き、決心した人を「キリストの弟子」として育てていればいい。
1)終わりの日に、背教が起こることは想定内。
どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。
(IIテサロニケ2:3)
* 「背教」とは、「キリスト教徒」と名乗る人々の中から実質、主イエスを否定する者達が出ることを指す。
2)ますます「自分」、「お金」、「神より今の快楽」を愛する時代になる。
終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。
(IIテモテ3:1—5)
3)すべきことは忠実に、み言葉を伝えること。
神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
(IIテモテ4:1−5)
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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