クリスチャンのある人達は「互いに愛し合う」ことに重きを置き、クリスチャンが「一致」することに重荷を感じています。あるクリスチャン達は教理的正しさに重きを置き、聖書的でない教えから「信仰が守られる」ことに重荷を感じています。ある人はこれをUnifier VS Purifierと表現しています。「一致させる者」と「きよめ分かつ者」でしょうか。どちらも大事ですが、健全なバランスが必要ですね。
自分が学んだケンタッキーの保守的なバイブルスクールはまさに後者の典型で、「信仰を守る」ために自分達が「清く」あるための「分離主義」をとっていました。ケンタッキーの山の中で自分達のクリスチャンコミュニティを作り、農場を持ち、ほとんど自給自足で生活していたのです。町に買い物に行っても「世の人」とは必要最小限しか関わらない。ある時、音楽の先生に連れられて町へ行って、食事をしようとレストランに入ったのですが、室内でロックミュージックがかかっていたので、「ここはダメだ、出よう」と言われ連れ出されてしまいました!ロックはサタンの音楽という理解でした。これじゃ、伝道できないなと思いました。またあまりに保護的な環境にいると返って、世に出た時に、誘惑に弱くなる気もしました。
まあ、これは「対世俗」として距離を取る話ですが、「対クリスチャン」でもPurifierは厳しいです。私達のバイブルスクールは神学的にはアルメニアン・ウエスレアンで第二の転機としての「きよめ」を強調しています。ですから、それに反対したり軽視したりするクリスチャンの群れとは「距離」を取るのです。「カルビンの本を読むのは異端だ。」くらいの感じでした。
ここ数年、ハーベストタイムミニストリーズに出会い、目が開かれ、たくさんの恵みを頂きました。そこでは「聖書解釈は1つ、適応は多々ある」という理解です。基本、「デスペンゼーション」、「字義的解釈」です。特に終末論がしっかり整えられています。それで聖書がよく分かるし、助けになるのです。しかし、「聖書解釈は1つ」となると、そうでない人は「分かってない」と無意識に見下すかも知れません。例えば「患難期前携挙説」を取らない人は、「聖書的でない」ということになります。自分達のような解釈に立たない人たちとの「距離」を取るようになるでしょう。自分も最近、その傾向がありました。同じ解釈の者同士でいる方が気持ちいいからです。
そこで、聖書が言う「一致」、「互いに愛し合う」をどう実践していくのか、難しいところです。そこがチャレンジされています。そして、今度は「一致」を強調しすぎると「教理」に妥協が生じ、WCCのように超教派どころか、超宗教的協力まで行ってしまいます。一体、どこで線を引けばいいのでしょう。
クリスチャンVSノンクリスチャン
この区別をあまりしたくない人もいます。同じ創造主に造られた人間ですから、それも分かります。確かに神は全ての人を愛しています。全ての人を救いたいのです。(Iテモテ2:4)ただ、聖書は「救われる」、「救われない」の区別は明白につけています。(ヨハネ3:16—18)人は福音の3要素:1)イエスが私の罪のために死なれたこと。2)死んで葬られたこと。3)3日目に復活したこと、つまりイエスが神の子であり、救い主であることを信じるなら救われると言うことです。(Iコリント15:1−5、ローマ10:9)「生まれ変わり」を体験していないなら、その人を純粋にクリスチャンと呼ぶことは難しいです。(ヨハネ3:3)イエスを信じて生まれ変わり、聖霊を頂いているなら「兄弟」です。愛し合うべきです。
真の信仰VS異端
新約の記者たちは「間違った教え」に敏感でした。パウロに至っては異なった福音を伝えるものは「呪われよ」とまで言っています。(ガラテヤ1:8)ナイーブであってはなりません。キリスト教の仮面を被っていても以下の印が見られるなら「異端」です。
● イエスの神性の否定
● イエスの十字架のみによる救いの否定(救いの条件は信仰と恵みのみによる)
● 三位一体の否定
● 聖書が霊感を受けた「神のことば」であることを否定。
● 霊的リーダーの権威が聖書の権威よりも上になる
● 愛と恵みではなく、恐れで信徒を支配する
リベラル神学はイエスの神性を否定し、聖書の霊感を否定するので、「神学」とレッテルは付いているものの、クリスチャンと認定するのは難しいのではないでしょうか。「聖書をそのまま信じる必要は無い」とか、「これは聖書著者の創作した話し」だとか言っている人は、Born Againしているとは思えません。
クリスチャンの間で分裂をもたらす課題
聖書を「神のことば」と信じているクリスチャンの間にも色々な神学的な立場の違いがあります。それが分裂を起こす場合もあります。
● 聖霊のバプテスマの理解
● 異言、癒しといった霊の賜物に関しての理解、実践
● 幼児洗礼
● 終末論(携挙、千年王国、大艱難時代の理解や時系列)
● 最近はさらに、セカンドチャンス論やLGBT, 自衛戦争、妊娠中絶、安楽死など難しい現代的問題が加わっています。)
健全な考えとバランス
福音の3要素を信じて救われ、聖書を霊感された「神のことば」として信じ、キリストに従う生活をしている人なら「兄弟」として互いに愛し合い、同じキリストの体に属するものとして一致を目指してゆくべきでしょう。細かい教理の違いは「異端」でない限り、お互いにレスペクトする姿勢が必要でしょう。特に、聖書を信じていても終末論に関しては本当に様々です。
● イエスが再臨されること
● 悪(サタンとその勢力)が滅ぼされること
● 御国(新天新地)が樹立されること
の3点を信じているなら、兄弟として肩を組んでいいのではないでしょうか。
自分の寄って立つ神学的立場を理解し、表明することは大事です。しかし、同時にイエス様が強調された「一致」を求めることも重要です。
父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。 (ヨハネ17:21−23)
ここで分かるのは、「一致」は世への証だということです。また、伝道の観点からは、正しい「福音」が宣べ伝えられているなら、多少神学的立場が異なっても、動機が異なっていても、喜ぶべきでしょう。パウロはこう言っています。
人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。 (ピリピ1:15−18)
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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