「神は愛」はキリスト教だけ?!
「神は愛です。」(Iヨハネ4:16)実はこのステートメントは大変大胆であり、ユニークなのです。ニューヨークのリディーマー教会のティム・ケラー牧師はキリスト教だけが、はっきり「神は愛」と宣言していると述べています。確かに、「ブッダが愛」とは「アラーが愛」とか聞いたことがありませんね。ビーナスなど「性愛」の女神はいても、自分を犠牲にするアガペーの愛を持った神は聖書の神だけなのです。ちなみに、「お釈迦様の慈悲」とか「慈悲深い菩薩」などの仏教における「救い主」の概念は、1世紀、使徒トマスによるインド宣教の影響を受けて仏教が取り入れたものでカウントできません。オリジナルの仏教は「無神、無霊魂」で、救いや愛とは関係のない「哲学」でした。
作家の三浦綾子さんは「愛とは自分の一番大切なものを人にやってしまうことだ。」と言いました。神はその一人子を世に送り、罪人のために十字架にかけたのです。ここに愛があるのです。(Iヨハネ4:10)神が弟子の足を洗う「仕える愛」を示されたのです。(ヨハネ13:4−5)これは凄い事なのです。
愛は人格間に起こる
キリスト教では人は「交わりの中」に救われるのです。(Iヨハネ1:3)神は三位一体の神であり、父、御子、御霊はお互いにコミュニケーションを交し、愛し合っています。つまりコミュニティ(家族)なのです。従って教会(エクレシア)とはキリストの体であり、エクレシアは、神(三位一体)の家族の拡張家族なのです。新約聖書では「お互いに」という言葉が60回以上出てきます。とても大事な概念なのです。お互いに愛し仕えるのです。ひとりぼっちのクリスチャンはありえません。
「交わり」の中に救われ、「交わり」の中で育てられます。神は見たものはいませんが、私たちが互いに愛し合うなら、「神の愛」はそこに全うされるのです。(Iヨハネ4:12)そこで体験できるのです。神はいるのですが、神は愛なので、愛のないものに神は分からないのです。(Iヨハネ4:8)神は単にForce(力)ではなく、itという哲学的な真理やモノではありません。神は人格(神格?)を持っておられ、人格的な「関係」を持たれる方です。哲学書の中には神はいないのです。
先行する神の愛
はじめに神が天と地を創造しました。そして、人を土から造り息を吹き込み、生けるものにしました。(創世記2:7)「存在」において神が最初にアクションしたのです。「愛」においても同じです。「愛」の起源は神です。愛は神から出ているのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛したのです。(Iヨハネ4:10)私達がお願いする前から、神が先回りして罪人を愛し、なだめの捧げ物としての御子を遣わしたのです。ここに愛があるのです。(Iヨハネ4:10)私たちが「良い子」になったから愛してくださったのでしょうか?いいえ、私たちがまだ罪人であった時、にです。この聖句が明言しています。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たち のために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
(ローマ5:8)
「赦し」が先、それから「教え」
ザアカイの例(ルカ19章)
ザアカイはイチジク桑の木の上でイエス様がお通りになるのを見ていました。イエス様はこう言ったでしょうか?
「ザアカイ、お前が盗人なのは知っている。財産の半分を貧しい人に、脅し取ったものは4倍にして返しなさい。そうしたらお前の家に泊まってあげる。」
いえ、何と「ザアカイ急いで降りてきなさい、わたしは今日、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。
名前を呼ばれたザアカイはびっくりです。当時、収税人や売春婦は「罪人」のカテゴリーであり、パリサイ人は絶対に彼らの家の敷居をくぐらなかったのです。「あなたの家に泊まる」とはザアカイを愛し、赦し、受け入れたという意味です。もちろん、ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えました。愛が先です。赦しが先です。もう心が開かれましたね。道々、仲良く肩を組んでお話しされたかも知れません。自宅でザアカイは人に言われたわけでもないのに、自ら「財産の半分を貧しい人に、脅し取ったものは4倍にして返します。」と宣言したのです。
放蕩息子の例(ルカ15章)
弟は父が死ぬ前から財産をくれと失礼な要求をしました。父は「とんでもない、ここで3年しっかり働いたらあげよう。」とは言わずに財産を分けてやりました。おそらく、父は息子が放蕩するのを知っていたでしょう。それでも行かせました。戻ってきた時、「だから言わんこっちゃない。バカ息子めが、今後は奴隷として働いて渡した財産を返済しろ!」と言ったでしょうか?そう言っても良かったのです。正しい判断じゃないでしょうか?しかし、父は息子が帰ってきたことを喜び、迎え入れたのです。パーティまで開催したのです。父の元に帰ってきた(悔い改め=方向転換)したのを見ただけで満足したのです。愛が先です。赦しが先です。もう心が開かれました。こんなにまで歓迎された息子はきっと、その後、父のために「喜んで」仕え、働いたでしょうね。
姦淫の女の例(ヨハネ8章)
姦淫の現場で捕まった女は石打ちにされようとしていました。イエスはこう言ったでしょうか。「そうだお前は罪を犯した汚れた女だ。そういう商売をやめてまともになったら赦してあげよう。」いいえ、むしろ
「わたしもあなたにさばきを下さない。」と宣言しました。女は驚いたでしょうね。そして、安心したでしょうね。もともとパリサイ人の仕組んだ囮で捕まったのかも知れません。ともあれ、女はイエスに愛され、赦され、受け入れられたことが分かったのです。心が開いたのです。そのあとに「これからは、決して罪を犯してはなりません。」と教えられました。もちろん女は心から「はい」と答えたでしょうね。「教え」が先ではなく、「赦し」が先だったのです。教えや裁きが先だと人々は心を閉ざし、頑なになってしまいます。
この愛が人生を変革する!
これが神の愛です。この愛に感動してヒッピーやヤクザもクリスチャンになりました。この愛が人の人生を変革するのです。この先行する愛を語るから「福音」なのです。他の宗教のように「行い」によって到達できる「救い」とは違うのです。また、私たちの「奉仕」量で神の愛の「量」が変わるのでもありません。イエス様を信じているなら、あなたはもう「愛され」「赦され」「受け入れられて」いるのです!だから神のために働きたいと思うのです。
愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです 。(Iヨハネ4:7−10)
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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