「赦された罪人」は聖書的か?
「私たちは『赦された罪人』です。肉体にある限り罪は犯します。天国に行くまでは完全にはなれません。」
よく聞くフレーズです。そして、納得がいく説明のように思えます。罪を犯してしまう現実の自分をよく描写しているように思うからです。しかし、これは本当に聖書的でしょうか?
聖書を読む限り、信じて新生したクリスチャンを「罪人」呼ばわりしている箇所はありません。確かに、パウロは「私は罪人のかしらです。」と宣言しましたが、(Iテモテ1:15)コンテキストを見れば分かりますね。以前クリスチャンを迫害していた、まさに「罪人のかしら」であるパウロを救うためにキリストが世に来られたと言っている箇所であり、救われた後も「罪人」です、と言っているのではありません。あの問題多いコリントの教会のクリスチャンたちをパウロは「聖徒」と呼んでいます。(Iコリント1:2)「赦された罪人たちよ」とは言っていません。
肉体が罪の根源?
「肉体にある限り罪を犯す。」とすれば、肉体が悪ということになり、1世紀に流行った異端のグノーシス主義と同じ主張になりますね。肉体や物質世界を造った神は悪い神ということになります。聖書の主張は創造時、すべてが「非常に良かった」のです。(創世記1:31)肉体自体が悪いのではありません。それに付随する食欲、性欲、排泄欲も、それ自体悪いものではありません。そうであれば、「生めよ、増えよ、地に満ちよ!」と神は言われなかったでしょう。復活のイエスは肉体を持っており、焼いた魚まで召し上がっています。(ルカ24:42−43)
「赦された罪人」に託されたニュアンスは、自分は昔のまま。何も変わらない汚れた「罪人」。だけれど、十字架によって「赦されている」という事でしょう。
一見、謙遜で正しいようですが、本当に「何も変わらないまま」でしょうか?
以前と変わらない「罪人」?
イエスは「新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:3)と言われました。そしてイエスを信じるものは新しく生まれる(新生体験)のです。イエスを信じる者は「新しく造られた者」(IIコリント5:17)です。古いものは過ぎ去っているので、古いまま(元のまま)ではありません。
さらに、信者は「神の御住まい」、「神の宮」(エペソ2:21−22)とあります。キリストがうちに住まわれているのに、以前と変わらぬ「罪人」と言えるでしょうか。(コロサイ1:27)さらにローマ書では、「罪から解放されて、義の奴隷となった」(ローマ6:18、22、8:1)と明言しています。
イエスを信じて「神の子供」となったので、(ヨハネ1:12)信者の内には御霊が住むようになったのです。(ローマ8:15)天国へ行ったら「神の子供」になるのでありません。この聖句が示すように、この地上で信者は聖霊を宿す「神の子供」です。その御霊ご自身が私たちを「罪人」ではなく、「神の子」であることを証明してくださっているのです。(ローマ8:16)奴隷ではなく、「神の子供」なので、キリストと共に「御国の共同相続人」になっているのです。(ローマ8:17)
(つづく)
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執筆者:栗原一芳
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