なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
(ローマ10:9−10)
私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。 (IIコリント5:10)
これらの聖句を、現実生活の中で、どう解釈適用したらいいのでしょうか?
ケース1
会社で朝礼の時、神棚に向かって礼をさせられる。別に信じているわけじゃないので、形だけ従って、波風立てないようにしたい。そんなことで論議してもクリスチャンの評判を落とすだけで得にならない?
ケース2
東北の被災地のお宅をクリスチャンボランティアが掃除しに行った時、いきなり掃除を始めたクリスチャン達に、家の主人が怒って言った。「線香の1本もあげてから始められないのか!」ご主人は奥さんを津波で亡くされていた。その夜、宿舎に帰り、クリスチャン達の論議が2手に分かれて盛り上がった。1つのグループは、「仏教の宗教行事をクリスチャンはすべきでない」と言い、もう一方は「線香をあげることが愛を示す行為だ」と主張した。別に仏教徒になる訳じゃないし、形だけ線香をあげて相手が喜ぶなら、それでいいんじゃないかという意見。この場合、愛を示すとはどういうことだろうか?
ケース3
数年前、映画「沈黙」が話題になった。「踏み絵」を踏むことをどう思うか?「踏絵」は、偶像だから、心で信じていれば形だけ「踏絵」をしても構わない?形だけとはどういうことか?キチジローのように、嘘をついてでも迫害を生き延び、後で時代が変わってから多くの人に伝道する方が、結局はいいのではないか?
ケース4
キリスト教禁教のイランでインターネットを通してクリスチャンになった人がいる。聖書には「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」(ローマ10:10)とあるがどう実行したらいいのだろうか?告白して死刑か?言わないで潜伏しながらイスラムの文化の中に留まりながら、密かに伝道するのがいいのか?アメリカに亡命して信仰生活を公にするのがいいか?しかし、そうすると国内のイラン人に対する伝道のチャンスを失ってしまう。
あなたならどう考えます? 結論が一方的に語られることより、こういったテーマを正直に語り合えることの方が大切ですね。スモールグループなどで、話し合ってみてください。
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東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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