2022年6月30日木曜日

キリストにあるアイデンティティ

 

「赦された罪人」は聖書的か?(2)

 

クリスチャンは「罪人」?それとも「聖徒」?

キリストにあっての正しいアイデンティティを持つことは極めて重要です。つまり、自分はキリストにあって「誰」なのかという自覚です。サタンは検察官です。常に私たちを罪に定めようとします。そして、「ほら、お前は汚れた罪人だから、そうやって罪を犯すんだ。何も変わっちゃいない。汚れたままだ。そんなお前には神も愛想つかしてるぞ、お前は失敗者だ、ダメなクリスチャンだ。裁かれるぞ!」しかし、キリストは私たちの弁護人です。(Iヨハネ2:1−2)もはや、キリストにあるものが罪に定められることは無いのです。

 

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。  (ローマ8:1)

 

罪に定められない人を「罪人」と呼ぶのはおかしいですね。サタンは不当に私達を「罪あり」としたいのです。しかし、こちらには弁護人であり、大祭司であるイエスがおられ、取り成して下さっているので有罪にはならないのです。(ローマ8:34)むしろ、圧倒的な勝利者です。(ローマ8:37)この御言葉を持って、サタンの攻めに反論しましょう。

 

私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは 、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。  (ローマ6:6−7)

 

「罪人」だから「罪を犯す」のです。自分が罪人と思っていたら、「どうせ自分は罪人なんだから・・」と罪を犯すのです。私たちは罪を犯す可能性を持った「聖徒」です。基本「聖徒」なのです。神を喜ばせたいと思っている「神の子供」なのです。聖書は私たちのステータスを明言しています。(Iペテロ2:9)ここには、罪人というニュアンスは全くありません。

 

あなた方は・・・・

  選ばれた種族

  王である祭司

  聖なる国民

  神のものとされた民




「義認」は救いの1つの側面です。神の義の付与です。法廷用語です。「新生」(Regeneration)は内側の変化です。新しい命(神の種)の付与です。キリストが来られたのは罪人を義と認めるだけではなく、罪自体を取り除くためであるとヨハネは明言しています。

 

あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。  Iヨハネ3:5)

 

 

クリスチャンは罪を犯さない?

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

                  (Iヨハネ3:8−9)

 

神から生まれたものが「罪人」でしょうか?神から生まれたもの(心から信仰に入ったもの)は、もはやキリストを否定するという最大の罪(SIN)を犯すことができません。(ヘブル10:29)この点、もはやサタンには同調しません。そもそも「罪=ハマルティア」は「的外れ」という意味で、脱線状態のことです。神を知らず、神を礼拝しない脱線状態から「本線」に戻されたのです。あなたが三位一体の神を礼拝しているなら、基本は「本線」を走る列車です。的は外れていないのです。

 

また聖霊に示された罪を犯しつづけることができません。神を喜ばせたいという思いが基調なのです。(クリスチャンなら故意にサタンを喜ばせようと思う人はいないでしょう。)神の愛に満たされている状態、すなわち、聖霊に満たされている状態では、故意に罪を犯せないし、犯さないのです。

 

ただ、現実、日常生活で罪(sins)を犯すことはあるのです。ではどうしてクリスチャン(聖徒)は現実、罪(キリストの律法=愛に反すること)を犯すことがあるのでしょう?何が起こっているのでしょうか?

 

  社会的未熟さや、無知のため 失礼で愛を欠く言動をすることがある。

 

  肉体の脆弱性:肉体そのものは悪では無いが、堕落の影響で「朽ちる肉体」となった。その結果、肉体に不快感や苦痛を与えることがある。加齢による記憶の喪失、膝や腰の痛み。病気によるストレス。空腹時や、生理、更年期などの時のイライラ。また仕事のストレスなどでメンタルのバランスが崩れている時、それらの時には、攻撃的になったり、批判的になりやすい。そのようにイエス様を愛していても、肉体の脆弱性から犯す罪がある。

 

  欲望にターゲットしたサタンの誘惑。人間の正常な欲求(食欲、性欲、生存欲、権力欲など)を逸脱したレベルへ向かわせる。イエスも誘惑に会った。誘惑に会うこと自体は罪ではない。記憶に残るこの世の価値観がキリストにある満足を侵害してゆく。もっと刺激的で楽しいことがあるように錯覚させられる。自分の立ち位置(キリストにあるアイデンティティ)を忘れ、揺るがされる。クリスチャンは誘惑に負けることもある。「一時的」にサタンの嘘に騙され、心が乱され、悪い思いや行動に出る可能性はある。ただし、「罪人」では無いので、告白して本線に戻ることができる。(Iヨハネ1:9)

 

  自己肯定感やセルフイメージへのサタンの攻撃。サタンは検察官。常に裁き、貶め「ダメ」な人間だと思わせる。クリスチャンに対してはもう権限が無いのに、権限を乱用してクリスチャンを攻めてくる。周りの人の言葉を用いて、落ち込ませることもある。「あんたは神の信頼を裏切った。神はもうあんたなんか愛しちゃいない。」と嘘を吹聴してくる。それに一時的に乗っかって信仰が揺らぐ可能性がある。

 

魂(地上でのクリスチャン)の救い(きよめ)は完成していません。きよさに与らせるため、霊の父は私達に試練を与えます。試練を通して訓練されます。(ヘブル12:9−10)常に主に頼ることを学ばされます。そうしてゆくうち、聖霊によりイエスの似姿へと変えられています。(IIコリント3:18)「聖徒」として整えられつつあります。「聖徒」だからとあぐらをかいているわけにはいきません。その意味でクリスチャンは「工事中」です。

 

常に謙遜に主に教えられつつ、主の前に歩むべきです。

 

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東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

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