2022年11月24日木曜日

キリスト教は三位一体教!

 

クリスラムとは?

クリスラムとはキリスト教とイスラム教の両立が可能であるという主張であり、同時にキリスト教徒とイスラム教徒でいられるという主張です。ローマ教皇

フランシスコは、2015年9月24日、マンハッタンのパトリック大聖堂での演説で、この思想を支持し、世界統一宗教を目指すことを明らかにしたとか。また、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教を1つの屋根の下に集めた「1つの家」建設計画がドイツの首都ベルリンで進行中という話も。このクリスラムに福音派の著名な牧師も賛同していると言う話も聞いています。世界統一宗教に向けた動きでしょうかね。

 

キリスト教は「三位一体」教

よく同じ1神教として同じものに括られますが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の神は同じなのでしょうか?イスラム教ではイエスは預言者の一人として認知されていますが、神ではありません。神はアラー以外に無いのです。キリスト教は一神教というより、正確には「三位一体教」です。イエスは父なる神、聖霊なる神と共に「神」そのものなのです。大きな違いですね。クリスチャニティ・ツデイの調査では「神は他の宗教の礼拝も受け入れる」が福音派で56%。半数以上が他宗教を認める動きに。しかし、聖書では「この方以外に誰によっても救いはない!」(使徒4:12)と明言しているのです。「そりゃ、排他的すぎる」という事で、福音派の中でさえ、聖書信仰の土台はすでに崩されつつあります。

 

イエス・キリストは被造物?

クリスチャニティ・ツデイの調査によると43%は「イエスは偉大な教師ではあるが、神では無い」と思っているというのです。これは歴史的論争の中で退けられた異端アリウス主義と同じ主張です。この数字が本当なら、もはや「福音派」とは言えないし、クリスチャンとも言えないでしょう。イエスを被造物と考える「エホバの証人」を異端扱いできなくなります。私が大学の頃、流行っていた作家、遠藤周作や神学者の八木誠一などの著書には「イエスは神ではなく、ただの人だが、人に寄り添う哀れみ深いお方だ」という主張がなされていました。しかし、それらはいわゆる現代哲学の影響を受けた「自由主義神学」の流れで、「仕方ないな」と思っていましたが、なんと今回は、福音派のクリスチャンが、このような事を言い出したことは由々しき事態です。

苦肉の三位一体論

確かに、三位一体は人間の頭では理解できません。これを説明するため、いろいろ苦肉の策が取られてきました。今日でもこのような説明があります。「水は個体、液体、気体に変化しますが、同じH2Oですね。同じように神は3つの形がありますが、同じ神なのです。」これは分かりやすいのですが、注意が必要です。「時に個体、時に液体、時に気体として現れる」を適用すると「神は時に、父として、時に御子(人間)として、時に聖霊として現れる」となり、これは

サベリウス主義という異端思想になってしまいます。人間の理性でスッキリ分かろうとすると逆に、異端的になってしまいます。聖書では三位一体の神が同時に現れている箇所があるのです。

 

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」     (マタイ3:16−17)

 

そして、3人の別の神々がいる(多神教)という教えも、聖書は支持していません。確かに創世記1:1、「はじめに神が天と地を創造した」の「神」はエロヒームで複数形ですし、1:26では人間の創造に当たって「われわれの似姿に造ろう」と神は仰せられています。しかし、申命記6:4では「主は唯一である。」英語では” The Lord is one”. となっています。また有名な大宣教命令で、

「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け・・」(マタイ28:19)、英語では”in the name of the Father, and of the Son and of the Holy Spirit”Nameは単数形になっています。普通、3人の名前であれば、namesですよね。したがって3つのご人格(神格?)で1つの神の考えがサポートされています。

 

 

イエスは神なのか?

これはキリスト教の救いの重要な部分と連結しています。なぜなら、イエスが単なる人間なら、我々と同じく罪人であり(ローマ3:23)、自分の罪からの報酬である死を受けるだけで、他人の救いの贖いをすることはできないのです。(ローマ6:23)イエスは聖霊によって妊めるマリヤより生まれたので、アダムの原罪を引き継いでいないのです。また、人の罪を赦す権威を持っているのは神だけなので、(ルカ5:21)中風の人を癒し、「罪の赦し」の宣言をしたということは、ご自身を「神」と宣言されたことと同じなのです。

 

パウロもローマ書の冒頭(ローマ1:3−4)でイエスの神人両性について説明しています。ヨハネの福音書は、イエスが神であることを証言することにフォーカスを置いています。(ヨハネ20:31)ここでの「神の御子」とは、本質において「神」であるとの意味です。

 

また、ヨハネ福音書の冒頭にはこうあります。

 

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

                 (ヨハネ1:1—3)

 

イエスご自身、ユダヤ人との論争の中で、はっきり神性を証言します。

 

わたしと父とは一つです。 *「1つ」とは、同一の本質の意

                 (ヨハネ10:30)

 

ヨハネの手紙にはこうあります。

 

私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。 Iヨハネ5:20)

 

かなり明白に語っていますね。さらに使徒の働きの中でルカはこう述べています。

 

神が、ご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。  (使徒20:28)

 

血を流したのは誰でしょう。イエス様ですね。ここでは「神がご自分の血を持って買い取られた(贖われた)」と言っています。つまり、イエスは神ということです。

 

このように聖書的にはイエスが神であることは明白なのです。第1世紀にはグノーシスという霊肉2元論の異端が流行っていました。霊は善、物質は悪という教えです。肉体は悪なのです。イエスが神なら罪深い肉体を持つはずがないとして、人となったイエスを否定したのです。今とは逆ですね。ヨハネは、「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちは反キリストである」と明言しています。(IIヨハネ7節)

 

つまり、聖書的にはイエスは人となった神であり、100%神であり、100%人なのです。そして、聖書の神は「三位一体」なのです。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2022年11月17日木曜日

花嫁を迎えに来る花婿  


ヨハネ14:2−3

わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

 

コロナで結婚式が延期されてしまったカップルが大勢いたことでしょう。どんなにか、結婚式を待ちわびたことでしょうか?キリストと教会(私たちクリスチャン)は結婚関係に例えられていますね。

 

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。

                     (エペソ5:31−32)

 

ヨハネが福音書で、カナの婚礼を最初に持ってきているのには意図があるように思えます。それは、キリストのミニストリーの意図がそこにあるからです。キリストは花嫁を探しに地上に来られ、花嫁をサタンの手から贖い出し、再び繋ぎ合わせ婚約関係とし、そして、最終的に天で、結婚式をあげ、花嫁と1つとなるのです。サタンの邪魔が入らない「キリスト」と「教会」の蜜月期間、それこそ「千年王国」における「婚礼=セレブレーション」期間なのです。救いの歴史はそこに向かって動いています。

 

ガリラヤの結婚式のしきたり

このように結婚のしきたりと救いのしきたりが重なっています。ヨハネ14章も、当時の結婚のしきたりを背景にしているのです。イエスも弟子たちもガリラヤ人だったのです。ガリラヤの文化的背景を前提として話し合っていたのです。ですから、当時のガリラヤ地方の結婚のしきたりを理解することが重要なのです。ヨハネ14章でイエス様が言っていることは、ガリラヤ人の弟子たちにはピンときたのですが、私たちは背景を知らないと十分に理解できません。幸いな事に、最近の考古学研究で明らかになってきました。

 

1.イスラエルでは13歳で男子は成人を迎える。男女共、その年齢になると、親同士で息子、娘の結婚の相手を探し始める。「いいなずけ」の関係にする。

 

2.相手が見つかると、町の門(公共の場所、大勢の人の前、特に長老たちの前)で「婚約」する。長老が承認することで正式なものとなった。男性は女性に儀式用のワインカップを渡す。女性がそのカップを受ければ、婚約成立となる。選択権は女性にある。婚約は、実 質的な結婚を意味し、他の人と付き合うことは許されない排他的な関係に入ることになる。(雅歌2:16)

 

3.花婿の父は、花嫁の父に育ててくれた感謝として「花嫁料」を払う。

 

4.婚約してから最低1年間は離れて暮らす。花婿は住まいや家具を用意する。通常は父の家に建て増しをする。花嫁は花嫁衣裳や花婿の衣類などを用意する。花嫁は花婿がいつ迎えに来るか分からない。日時は知らされない。結婚式は突然起こるイベント。花嫁は、いつ花婿が来てもいいように準備して待っている。

 

5.用意ができると、花婿が花嫁を迎えに行く。ただし、その日は花婿の父しか知らない。花 婿の父が許しを出し、花婿は花嫁を迎えに行く。当時のガリラヤでは、通常、父が息子に伝えるのは、真夜中だった。

 

6.夜中、ないし、明け方、花婿は友人たちと群れをなして出てゆく。ショーファーいう角笛を鳴らし町中を進む。結婚式に招待している人々を起こすためでもある。

 

7.それを聞いた花嫁は目覚め、迎えが来たことを知る。

 

8.花婿は花嫁の家には入らない。花嫁が家の外に出て花婿と出会う。1年ぶりの再会となる。感激のシーン。

 

9.友人たちが家の前に出てきた花嫁をイス付きの台に担ぎ上げて、父の家まで連れて行く。花嫁は地面から引き上げられ、台に乗せられ、父の元に運ばれる。事実、古代ガリラヤで「花嫁を、父の元へ飛んで連れていく」という言い回しがあった。

 

8.花婿は花嫁を連れて、父の家に帰る。そして結婚式(婚姻)をあげ祝福される。通常、祝宴(披露宴)は7日間続いた。ついに、二人は一緒に住み1つとなる。

 

 

ガリラヤの結婚の霊的解釈〜(キリストと教会の関係)

それでは、これをキリストと教会という関係に置き換えて見てみましょう。

 

1.      イエスは地上に花嫁を探すために来られた。

2.      イエスは地上生活において結婚しなかった。

3.      なぜなら、教会がキリストの花嫁だから。

4.      イエスは花嫁料として十字架で血を流し、罪の代価を払った。

5.      最後の晩餐、過越の祭の食事でのワインは、一体となる「血の契約」。

6.      血の契約の盃を受けるか、受けないかは本人次第。キリストを救い主として信じるかどうかは私たちの選択にかかる。信じる時に婚約成立。

7.      イエスは十字架の御業を終え、復活し、天に戻られた。地上を離れた。

8.      今、キリストの花嫁である教会は、婚約状態ではあるが、物理的にキリストと同居してはいない。

9.      キリストは天で住まいを用意している。地では教会は結婚式に備え、清められるプロセス(聖化の過程)にいる。もう他の偶像に心奪われることはできない。

10.人の子の到来(携挙)の日時は、御父だけが知っている。(マタイ24:36)その時が来ると、花嫁を迎えに、キリストは天から下って来る。「夜中の盗人」のように来る!当時のガリラヤでは文字通り、夜中に来た。

11.携挙の詳細はIテサロニケ4:16−17にある。

 

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

花婿が途中まで来られるように、キリストも空中まで来られる。ラッパが鳴る。花嫁が台に担がれて運ばれたように、私たちも地上から「引き上げられ」キリストのおられる空中まで運ばれる。「引き上げられ」(ギリシア語でハルパゾー)は「引っこ抜く」を意味する。そして、天(父の家)に連れていかれる。

 

10。その後、花嫁の家(地上)には戻らず、天の父の家に行く。


11。そして、天にてキリストと教会の結婚式が行われる。

           (黙示19:7−8)


12。黙示録19:9の披露宴(婚宴)は、サタンの邪魔のない、キリストと教会の蜜月期間祝いの期間、すなわち、千年王国のことと思われる。


13。新天新地では教会は単なる花嫁ではなく、「子羊の」(黙示21:9)と呼ばれている。新天新地が始まる前の時点で、結婚式が行われるという事だ。

 

これを背景に考えるとヨハネ14:2−3が見えてきます。

 

わたしの父の家(天)には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたし(花婿)が行って、あなたがた(花嫁)に場所を用意したら、また来て(再臨)、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。 (地上には戻らない)

 

主を待ち望む生き方

最近は聖書の超自然的な事象(いわゆるトンデモ話)を削除する傾向があるようです。しかし、私達は、弟子達が信じたように、信じるべきです。イエス様自身「わたしは来る」と約束されたのです。パウロもペテロも明確にキリストの再臨を語っているのです。ですから、大胆に、はっきりと「再臨、携挙」について語るべきなのではないでしょうか。終末時には「再臨」の教理は侮られるのです。聖書はこう言って警告しています。

 

まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。                   (IIテサロニケ2:3)

 

まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」   

                         (Iペテロ3:3—4)

 

聖書は背教が起こると言っています。今日、その通りになって来ています。真の信仰者は常に「レムナント=残されたもの」であり、それは常に少数派なのです。イスラエルがバアル礼拝に走った時代、神は「バアルに膝をかがめぬ7000人を残している」と約束されました。私たちはシンプルに聖書の言葉を信じ、聖書が言っている通りに、主のお出でを、待ち望んで行きましょう。

 

あなたがたに場所を用意したら、「また来て」、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

 

参考資料 

「御怒りの前に」

https://rumble.com/v1emb1h-85021541.html

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2022年11月10日木曜日

エクレシアの実践


TMCエクレシアは「意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ」を目指しています。ここでのスモールグループとは「キリスト中心のコミュニティ=エクレシア」という観点で話を展開していきます。

 

今後、スモールグループのファシリテーターを考えている人や、すでにやっている人に、私達の体験からお話しさせて頂きます。

 

喋りすぎない!

牧師、宣教師などメッセージをすることに慣れている方々にはチャレンジです。

しかし、これを守れない人はスモールグループのファシリテーターとしては相応しくありません。

 

会話を独占しない。いかに、喋らないか、いかに他の人に喋らせるかが「鍵」なのです。

 

それは他のメンバーに対する「愛」でもあります。自分が会話を独占することは、他の人の会話のチャンスを奪っていることでもあります。熱心な人ほど長く話してしまう傾向があるでしょう。説教を始めるのは最悪です。スモールグループでは他の人を生かすことにフォーカスすべきです。「一回分は短く、しかし何度でも発言できる」をスモールグループカルチャーにしましょう。「全員参加型」を目指しましょう。そういう私自身もいつも誘惑です。自分の知っている聖書知識を「教え」たくなるのです。もちろん、適切にティーチングを入れることは必要です。しかし、スモールグループでは、「お互いに」がキーワードです。ここが「集会」と大きく違うところです。

 

「スモールグループ」は「集会」ではない!

単に場所を変えて「家」でやればいいのではないのです。スモールグループは「家庭集会」ではありません。根本的に違うのです。

 

メインは「プログラム」ではありません。主にあって集まっている「人々」です。主たる目的は主の臨在の中で一緒に時間を過ごすことで、プログラムを「無事」こなすことではありません。

 

「意味ある人間関係」を築くことにフォーカスしてください。多くの場合、家庭集会は牧師が語るメッセージがメインです。聴衆は黙って聞いています。教会の礼拝と基本変わりません。牧師がいないとメインディッシュが無いも同然です。スモールグループの目標は、牧師や宣教師がいなくなることです。つまり、彼ら自身で御言葉から学び、「分かち合い」を中心として続けられるようになることです。関わる必要があれば、最小限、ポジションとしてではなく、「信頼関係」で関わるべきです。

 

また、集会ではないので、人数を集める事が目的ではありません。実際、スモールグループをやってみると人数が多すぎると機能しない事が分かってきます。

スモールグループダイナミックスの限界は7名と言われています。私達の経験からは6名までが限界でしょうか。実際、深い会話をするには4名くらいがベストです。特にカフェやレストランで行う場合、席取りが大変です。また周囲がやかましいので、6名以上になると相手の声が聞こえづらくなり、会話の意欲が削がれます。エクレシアでは人数より「深さ」です。むしろ、少人数の群が沢山できることが理想です。

 

兄弟姉妹として交わる

特に日本人クリスチャンは「先生」からメッセージを聞くことに慣れてしまっていて、自分から発言することは訓練されないと難しいかも知れません。牧師や宣教師がスモールグループをやる場合、しつこいようですが、喋りすぎないでください!そうすると「話す側」と、黙って「聞く側」に分かれてしまいます。また兄弟姉妹の中に「牧師先生」として入ってくると、信徒は構えてしまうでしょう。「先生」より「〇〇さん」と呼ばれるようにすることが大事です。

 

距離を作らず、「等身大」で、同じ「仲間」意識を作ることが大事です。Leader set a temperature (リーダーが温度を設定する)という英語のフレーズがあります。

 

リーダーが高圧的で権威的なら、どうしても堅い雰囲気になり、開放的というより閉鎖的になるでしょう。「自分がこんなことを言ったら先生はどう思われるだろうか?」と心配するようでは、開放的なディスカッションは望めません。分かち合いの時に「し〜ん」としていたら「失敗」したと思ってください。主の前にへりくだり、自らの失敗も分かち合える兄弟の一人として参加するのです。

 

聖霊の導きの中で

しかし、同時に「沈黙」に意味がある場合があります。メンバーが御言葉を味わったり、神の声を聞こうとしている場合があります。

 

沈黙を恐れて沈黙を埋めるため、喋ってはいけません。

 

ファシリテーターも神に聞いてください。全ては聖霊の導きの中で行われるべきです。

 

弟子を育てる

このようなスモールグループは弟子訓練の「場」とも言えます。弟子訓練は「弟子訓練コース」のテキストを終えることではないのです。伝道学を学んでも実際に外に出て「失われている魂」に出会い、触れなければ意味がないのです。講壇から「伝道」を語っても、伝道している姿を見せなければ、単なる言葉に終わってしまいます。弟子訓練も他の人との交わりの中で、愛において、仕える事において成長していなければ空しいのです。

 

どれくらい御言葉によって、「変えられている」のかが重要です。

 

礼拝説教だけでは成長するのには十分ではありません。スモールグループで「お互いに」を実践する事。さらに、できれば「個人的」に時間を過ごす事が望ましいのです。ホープチャペルのラルフモア氏は「一緒にコーヒーを飲む」ことを勧めています。一緒に時間を過ごすことです。等身大の付き合いをすることです。弟子たちはイエス様と「一緒」に時間を過ごしたのです。説教を聞くだけの「お客さん」から、どうしたら「キリストの弟子」と変えられる事ができるのかにフォーカスすべきでしょう。イエス様は「教え」、自ら「実践し」、今度は弟子たちと「一緒にやり」、最後は弟子たちだけで「送り出した」のです。

 

なるべくシンプル

長く続けるためには、シンプルであることをお勧めします。

 

誰もができるフォーマット。無理しない。どうしても削れないものだけ残しましょう。

 

TMCエクレシアでは3つだけです。

1。近況報告 

2。分かち合い式バイブルスタディ

3。祈祷課題を出しての祈り合い。

 

初めての人が多い場合は、お互いを知るためのオープニングクエスチョンをしばらくやることをお勧めします。趣味、行ってみたい場所、小学校の思い出など、毎回ファシリテーターが質問を考えてきて皆に質問します。いろいろ良いテキストもあるでしょうが、聖書そのものを使うことをお勧めします。聖書のある本を取り上げ、継続して少しずつ共に学んでいく事をお勧めします。御言葉には力があるのです。

 

適切な解説

TMCエクレシアではただ食事会をやっていた時期があります。それでも意味はありますが、メンバーから「聖書を開きましょう」と声がありバイブルスタディが始まりました。初めは、その箇所から自由に感想を言い合ったのですが、その箇所を正確に理解(正しい解釈)してから、感想、コメント、適用があるべきだと思うようになりました。そこで、私たちはハーベストタイム出版の「クレイ聖書解説コレクション」を使うようになりました。その聖書箇所の解説をファシリテーターが読み、背景を知った上でディスカッションが始まります。

ハーベストの中川氏が言うように、

 

まず正しい「解釈」、そして個人的な「適用」となります。

 

お父さん的な存在。

アメリカのオーガニックチャーチ推進者のフランク・バイオラ氏は、「イエス様だけが頭、エクレシアメンバーは完全なフラットな関係」を主張し、賛美リーダーの存在、霊的アカウンタビリティの関係(霊的お兄さん)さえ否定します。

しかし、先程述べたように初代教会には「監督」「長老」「執事」といったエクレシアでリーダーシップを取る人たちはいたのです。私達TMCの経験からも、完全フラットでは動きません。

 

音頭をとる人が必要です。グループにはリーダーは必要です。

 

ただし、権威を振るうのではなく、皆に仕える僕として。サーバントリーダーです。それぞれのエクレシアにはリーダーがいるべきです。また、複数のエクレシアをいい意味で「監督」する「お父さん」的な存在がいるのが望ましいと思います。「お父さん」はメンバーのため毎日、祈ります。

 

TMCエクレシアは、「全員参加型」です。持ち回りでメンバーが司会を勤めます。司会者がその時間を導きます。初めは皆さんの「近況報告」をお聞きします。そして、「本日の聖書箇所」を読んで、司会者がその箇所の「クレイ聖書解説」を読みます。そして自由なディスカッションの時間になります。そこで私は、メンバーから出た質問に答えたり、必要と思われるティーチングを入れたりします。しかし、極力、出しゃばらないようにします。「〇〇先生の集会」ではなく、メンバー「皆の」エクレシアであることを目指します。皆が「オーナーシップ」を持つ事が必要なのです。マイクロ マネージしてはいけません。あえて自分が参加せず、メンバー同士が自由に交わり(食事会など)を持つこともあります。それが望ましいのです。

 

エクレシアは生命体

エクレシアは組織や制度ではありません。キリストの体、生命体です。成長する生きた神の神殿です。TMCエクレシアは「意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ」を目指します。

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。  (エペソ1:23)

 

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。 あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。  (エペソ2:19−22)

 

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2022年11月3日木曜日

エクレシアの可能性(2)

 

エクレシアの祝福

「スモールグループ」と「集会」は違います。TMCエクレシアは「意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ」を目指しています。実際、コミュニティができているので、各人の「居場所」があるのです。憩いの場、癒しの場となっているのです。特にコロナ渦、ステイホームになって一人暮らしの人は孤独感を感じていました。たとえzoomでも、会社の会議とは違う、主を愛する仲間と定期的に会うことは励ましです。エクレシアでは心開ける「交わり」があり、分かち合い式の「バイブルスタディ」で毎回、目が開かれます。み言葉が生きて刺さってきます。自分の言葉で正直にコメントを分かち合うので、心に残るのです。その週のアクションポイントも語り合います。これを機に年間の聖書通読を始めた方もいます。

 

1つの懸念は内輪の「仲良しグループ」になって、伝道しなくなることですが、参加くださっている方々は「伝道スピリット」を持っている方が大半です。家族や友人の名前をあげ、皆で祈り合います。上司に聖書を渡したり、職場の同僚を教会に誘ったりしています。とても励まされます。エクレシアは「祈り」と「伝道」の基地ともなっているのです。

 

教会の本質

TMCは、2003年、「いつでも、どこでも、誰にても始められる教会」を提唱していたバプテスト宣教団のチャーリー・ウイリアムさんと、一緒に始めました。その頃から私は、ホープチャペル所沢に参加し始めていました。ハワイ、ホープチャペルの創始者のラルフ・モア氏からも色々刺激を受けました。最近、ラルフ氏は「スコアボードを変える」すなわち、教会の成長の基準を「人数」ではなく、「弟子作り」に変えること、またメガチャーチからマイクロチャーチへ方向転換することを提唱しています。アメリカでも若い牧師達の間で、そのようなムーブメントが動いているようです。

 

どうしても「教会」というと、「三角屋根に十字架が立っている会堂」、「日曜10時からの礼拝」、「専属牧師と礼拝説教」というイメージで、この3点セットが無いと「教会」と認定されないかのようです。本質から考えてみましょう。

 

1)エクレシアはキリストの体、キリストの充満。召し出された群れ。人々。・・

  であるなら「会堂」が必須なのではなく、「キリストの弟子たち」が必須な

  のです。会堂を否定しているのではありません。集まるところがあれば、

  それなりに利用価値はあります。ただ、会堂がないと「教会=エクレシア」

  が無いのではありません。

 

2)「礼拝」は本来、10時からの「プログラム」ではなく、心の態度です。 

  (ローマ12−1−2、ヨハネ4:24)。逆に言えば、キリストへの献身の

  思いが無いのに、大きな会堂の礼拝に出席して2時間、座席を温めていて

  も何の意味もないということです。特定の「会堂」に集わなければ礼拝が

  出来ないわけでもありません。(ヨハネ4:21)実際、初代教会では「家々」

  で集っていました。会堂に行ったのは、そこでしか聖書(旧約聖書)を読

  めなかったからです。今のように家々に66巻の聖書が置いてあるわけで

  はありませんでした。新約はまだ編纂されていないし、使徒たちの手紙を

  回覧していた時代です。また旧約の巻物も会堂に安置され、安息日ごとに

  トーラー(モーセ五書)と預言書が読まれていたのです。

 

  会堂に集っての礼拝が始まったのはローマ皇帝コンスタンティンがバシリ

  ア(会堂)を建設し、そこで礼拝することを強要したからです。また、礼

  拝開始時間の日曜の朝10時は、アメリアの農夫たちのスケジュールに合

  わせたもので、何ら聖書的根拠がある訳ではありません。

 

3)初代教会には「牧師」という職業は無かったのです。聖書的には、すべて

  主にある兄弟姉妹で、賜物に従って「牧者」(牧師ではない)や伝道者、預

  言者がいて信徒に仕えていたのです。(エペソ4:11)ちなみに、この時

  期は、まだ「新約聖書」が編纂されていないこと、教会の土台を据えると

  いう特別な時代であったことを認識する必要があります。特に「使徒」と

 「預言者」は教会の土台であり(エペソ2:20)、土台が据えられた「今」、

  それらの職が必要なくなったと考えられます。

 

  現在の教会の説教のスタイル(信徒が前方だけに集中できるよう設計され

  た長椅子に座り、前方のステージにある講壇から語る牧師の一方的なメッ

  セージを聞くというスタイル)は、ギリシアの哲学者たちのスタイルを取

  り入れた中世カトリックのミサに起源があります。宗教改革以降も装飾品

  は取り去られたものの、このスタイルが堅持されているのです。しかし、

  初代教会では家々で集まり、長老(牧師先生ではない!)がお世話役でし

  た。特定な人が毎回語る長い説教を聞くスタイルではなく、信徒同士の分

  かち合いスタイルだったのです。そこには「牧師先生」という特別な

  ステイタスはありませんでした。救われたものたちは一緒にいたのです。

 「共に」「一緒に」「お互いに」がキーワードなのです。つまり、「コミュニテ

  ィ」です。ペンテコステの日に弟子となったものが三千人いましたが、そ

  れぞれ、家々の「コミュニティ」に属して、その「交わり」の中で育てら

  れていったのです。3000人の集う大教会を建てたのではありません。

  そして、家々でやっていたことはシンプルです。

 

  彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈り

  をしていた。  (使徒2:42)

 

将来の教会(エクレシア)の可能性

「三角屋根に十字架が立っている会堂」、「日曜10時からの礼拝」、「専属牧師と礼拝説教」という3点セットは実は本質的なものではないことが分かってきます。本質的なものを変えないで、どういう可能性があるでしょうか?

 

1.会堂がなくても、エクレシアでありうる。キリスト中心のコミュニティが

  あれば、カフェでも、オンラインでもいいことになる。ただ、集まる場所

  があれば、それなりに活用できる。ただ、初めに会堂ありきではない。

 

2.日曜朝10時でなくても、礼拝は可能。都会のライフスタイルに合わせて

  (深夜働いている人もいる)都合の良い時間に集まることは可能。サンデ

  ークリスチャン的マインドを避けるために、あえて週日の夜、職場近くで

  集まることも意味がある。

 

3.神学校出た「牧師先生」でなくてもエクレシアをお世話することは可能

  「兄貴」的な人が「牧者」として皆に仕えることができるし、「教える」賜

  物がある人は兄弟として教えればいい。現在はいろいろ良いツール(クレ

  イ聖書解説コレクションなど)があるので、そういうものを活用すること

  も可能。初代教会には「長老」、「監督」や「執事」(Iテモテ3章、5:

  17)という役割はあったので、全くフラットで指導者がいなかったわけ

  ではない。ただし、それらの指導者は群に仕える僕であることを忘れては

  ならない。(マタイ20:25−26)

 

正しい教理を教えることは大事です。雑談会ではないので、しっかり学んだ、教える賜物のある人が「兄貴」「お父さん」的に関わることが理想です。

 

そろそろ、教会のビジネスモデル自体を変える時なのではないでしょうか。身軽になって「本質」にフォーカスしましょう。不必要な儀式やルール、宗教的要素を排除して「本質」に迫りましょう。イエスがおられるところは、魅力的なのです。

 

教会(エクレシア)はキリストの体です。生命体です。生きているのです。キリストが生きている限り、エクレシアは死なないのです。人間的努力でエクレシアを「生き残らせる」のではありません。エクレシアがエクレシアであれば、生き残るのです。そして、繁殖するのです。

 

何か可能性が見えてきませんか?

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com