クリスラムとは?
クリスラムとはキリスト教とイスラム教の両立が可能であるという主張であり、同時にキリスト教徒とイスラム教徒でいられるという主張です。ローマ教皇
フランシスコは、2015年9月24日、マンハッタンのパトリック大聖堂での演説で、この思想を支持し、世界統一宗教を目指すことを明らかにしたとか。また、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教を1つの屋根の下に集めた「1つの家」建設計画がドイツの首都ベルリンで進行中という話も。このクリスラムに福音派の著名な牧師も賛同していると言う話も聞いています。世界統一宗教に向けた動きでしょうかね。
キリスト教は「三位一体」教
よく同じ1神教として同じものに括られますが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の神は同じなのでしょうか?イスラム教ではイエスは預言者の一人として認知されていますが、神ではありません。神はアラー以外に無いのです。キリスト教は一神教というより、正確には「三位一体教」です。イエスは父なる神、聖霊なる神と共に「神」そのものなのです。大きな違いですね。クリスチャニティ・ツデイの調査では「神は他の宗教の礼拝も受け入れる」が福音派で56%。半数以上が他宗教を認める動きに。しかし、聖書では「この方以外に誰によっても救いはない!」(使徒4:12)と明言しているのです。「そりゃ、排他的すぎる」という事で、福音派の中でさえ、聖書信仰の土台はすでに崩されつつあります。
イエス・キリストは被造物?
クリスチャニティ・ツデイの調査によると43%は「イエスは偉大な教師ではあるが、神では無い」と思っているというのです。これは歴史的論争の中で退けられた異端アリウス主義と同じ主張です。この数字が本当なら、もはや「福音派」とは言えないし、クリスチャンとも言えないでしょう。イエスを被造物と考える「エホバの証人」を異端扱いできなくなります。私が大学の頃、流行っていた作家、遠藤周作や神学者の八木誠一などの著書には「イエスは神ではなく、ただの人だが、人に寄り添う哀れみ深いお方だ」という主張がなされていました。しかし、それらはいわゆる現代哲学の影響を受けた「自由主義神学」の流れで、「仕方ないな」と思っていましたが、なんと今回は、福音派のクリスチャンが、このような事を言い出したことは由々しき事態です。
苦肉の三位一体論
確かに、三位一体は人間の頭では理解できません。これを説明するため、いろいろ苦肉の策が取られてきました。今日でもこのような説明があります。「水は個体、液体、気体に変化しますが、同じH2Oですね。同じように神は3つの形がありますが、同じ神なのです。」これは分かりやすいのですが、注意が必要です。「時に個体、時に液体、時に気体として現れる」を適用すると「神は時に、父として、時に御子(人間)として、時に聖霊として現れる」となり、これは
サベリウス主義という異端思想になってしまいます。人間の理性でスッキリ分かろうとすると逆に、異端的になってしまいます。聖書では三位一体の神が同時に現れている箇所があるのです。
イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 (マタイ3:16−17)
そして、3人の別の神々がいる(多神教)という教えも、聖書は支持していません。確かに創世記1:1、「はじめに神が天と地を創造した」の「神」はエロヒームで複数形ですし、1:26では人間の創造に当たって「われわれの似姿に造ろう」と神は仰せられています。しかし、申命記6:4では「主は唯一である。」英語では” The Lord is one”. となっています。また有名な大宣教命令で、
「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け・・」(マタイ28:19)、英語では”in the name of the Father, and of the Son and of the Holy Spirit”でNameは単数形になっています。普通、3人の名前であれば、namesですよね。したがって3つのご人格(神格?)で1つの神の考えがサポートされています。
イエスは神なのか?
これはキリスト教の救いの重要な部分と連結しています。なぜなら、イエスが単なる人間なら、我々と同じく罪人であり(ローマ3:23)、自分の罪からの報酬である死を受けるだけで、他人の救いの贖いをすることはできないのです。(ローマ6:23)イエスは聖霊によって妊めるマリヤより生まれたので、アダムの原罪を引き継いでいないのです。また、人の罪を赦す権威を持っているのは神だけなので、(ルカ5:21)中風の人を癒し、「罪の赦し」の宣言をしたということは、ご自身を「神」と宣言されたことと同じなのです。
パウロもローマ書の冒頭(ローマ1:3−4)でイエスの神人両性について説明しています。ヨハネの福音書は、イエスが神であることを証言することにフォーカスを置いています。(ヨハネ20:31)ここでの「神の御子」とは、本質において「神」であるとの意味です。
また、ヨハネ福音書の冒頭にはこうあります。
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
(ヨハネ1:1—3)
イエスご自身、ユダヤ人との論争の中で、はっきり神性を証言します。
わたしと父とは一つです。 *「1つ」とは、同一の本質の意
(ヨハネ10:30)
ヨハネの手紙にはこうあります。
私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。 (Iヨハネ5:20)
かなり明白に語っていますね。さらに使徒の働きの中でルカはこう述べています。
神が、ご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。 (使徒20:28)
血を流したのは誰でしょう。イエス様ですね。ここでは「神がご自分の血を持って買い取られた(贖われた)」と言っています。つまり、イエスは神ということです。
このように聖書的にはイエスが神であることは明白なのです。第1世紀にはグノーシスという霊肉2元論の異端が流行っていました。霊は善、物質は悪という教えです。肉体は悪なのです。イエスが神なら罪深い肉体を持つはずがないとして、人となったイエスを否定したのです。今とは逆ですね。ヨハネは、「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちは反キリストである」と明言しています。(IIヨハネ7節)
つまり、聖書的にはイエスは人となった神であり、100%神であり、100%人なのです。そして、聖書の神は「三位一体」なのです。
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執筆者:栗原一芳
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