エクレシアの祝福
「スモールグループ」と「集会」は違います。TMCエクレシアは「意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ」を目指しています。実際、コミュニティができているので、各人の「居場所」があるのです。憩いの場、癒しの場となっているのです。特にコロナ渦、ステイホームになって一人暮らしの人は孤独感を感じていました。たとえzoomでも、会社の会議とは違う、主を愛する仲間と定期的に会うことは励ましです。エクレシアでは心開ける「交わり」があり、分かち合い式の「バイブルスタディ」で毎回、目が開かれます。み言葉が生きて刺さってきます。自分の言葉で正直にコメントを分かち合うので、心に残るのです。その週のアクションポイントも語り合います。これを機に年間の聖書通読を始めた方もいます。
1つの懸念は内輪の「仲良しグループ」になって、伝道しなくなることですが、参加くださっている方々は「伝道スピリット」を持っている方が大半です。家族や友人の名前をあげ、皆で祈り合います。上司に聖書を渡したり、職場の同僚を教会に誘ったりしています。とても励まされます。エクレシアは「祈り」と「伝道」の基地ともなっているのです。
教会の本質
TMCは、2003年、「いつでも、どこでも、誰にても始められる教会」を提唱していたバプテスト宣教団のチャーリー・ウイリアムさんと、一緒に始めました。その頃から私は、ホープチャペル所沢に参加し始めていました。ハワイ、ホープチャペルの創始者のラルフ・モア氏からも色々刺激を受けました。最近、ラルフ氏は「スコアボードを変える」すなわち、教会の成長の基準を「人数」ではなく、「弟子作り」に変えること、またメガチャーチからマイクロチャーチへ方向転換することを提唱しています。アメリカでも若い牧師達の間で、そのようなムーブメントが動いているようです。
どうしても「教会」というと、「三角屋根に十字架が立っている会堂」、「日曜10時からの礼拝」、「専属牧師と礼拝説教」というイメージで、この3点セットが無いと「教会」と認定されないかのようです。本質から考えてみましょう。
1)エクレシアはキリストの体、キリストの充満。召し出された群れ。人々。・・
であるなら「会堂」が必須なのではなく、「キリストの弟子たち」が必須な
のです。会堂を否定しているのではありません。集まるところがあれば、
それなりに利用価値はあります。ただ、会堂がないと「教会=エクレシア」
が無いのではありません。
2)「礼拝」は本来、10時からの「プログラム」ではなく、心の態度です。
(ローマ12−1−2、ヨハネ4:24)。逆に言えば、キリストへの献身の
思いが無いのに、大きな会堂の礼拝に出席して2時間、座席を温めていて
も何の意味もないということです。特定の「会堂」に集わなければ礼拝が
出来ないわけでもありません。(ヨハネ4:21)実際、初代教会では「家々」
で集っていました。会堂に行ったのは、そこでしか聖書(旧約聖書)を読
めなかったからです。今のように家々に66巻の聖書が置いてあるわけで
はありませんでした。新約はまだ編纂されていないし、使徒たちの手紙を
回覧していた時代です。また旧約の巻物も会堂に安置され、安息日ごとに
トーラー(モーセ五書)と預言書が読まれていたのです。
会堂に集っての礼拝が始まったのはローマ皇帝コンスタンティンがバシリ
ア(会堂)を建設し、そこで礼拝することを強要したからです。また、礼
拝開始時間の日曜の朝10時は、アメリアの農夫たちのスケジュールに合
わせたもので、何ら聖書的根拠がある訳ではありません。
3)初代教会には「牧師」という職業は無かったのです。聖書的には、すべて
主にある兄弟姉妹で、賜物に従って「牧者」(牧師ではない)や伝道者、預
言者がいて信徒に仕えていたのです。(エペソ4:11)ちなみに、この時
期は、まだ「新約聖書」が編纂されていないこと、教会の土台を据えると
いう特別な時代であったことを認識する必要があります。特に「使徒」と
「預言者」は教会の土台であり(エペソ2:20)、土台が据えられた「今」、
それらの職が必要なくなったと考えられます。
現在の教会の説教のスタイル(信徒が前方だけに集中できるよう設計され
た長椅子に座り、前方のステージにある講壇から語る牧師の一方的なメッ
セージを聞くというスタイル)は、ギリシアの哲学者たちのスタイルを取
り入れた中世カトリックのミサに起源があります。宗教改革以降も装飾品
は取り去られたものの、このスタイルが堅持されているのです。しかし、
初代教会では家々で集まり、長老(牧師先生ではない!)がお世話役でし
た。特定な人が毎回語る長い説教を聞くスタイルではなく、信徒同士の分
かち合いスタイルだったのです。そこには「牧師先生」という特別な
ステイタスはありませんでした。救われたものたちは一緒にいたのです。
「共に」「一緒に」「お互いに」がキーワードなのです。つまり、「コミュニテ
ィ」です。ペンテコステの日に弟子となったものが三千人いましたが、そ
れぞれ、家々の「コミュニティ」に属して、その「交わり」の中で育てら
れていったのです。3000人の集う大教会を建てたのではありません。
そして、家々でやっていたことはシンプルです。
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈り
をしていた。 (使徒2:42)
将来の教会(エクレシア)の可能性
「三角屋根に十字架が立っている会堂」、「日曜10時からの礼拝」、「専属牧師と礼拝説教」という3点セットは実は本質的なものではないことが分かってきます。本質的なものを変えないで、どういう可能性があるでしょうか?
1.会堂がなくても、エクレシアでありうる。キリスト中心のコミュニティが
あれば、カフェでも、オンラインでもいいことになる。ただ、集まる場所
があれば、それなりに活用できる。ただ、初めに会堂ありきではない。
2.日曜朝10時でなくても、礼拝は可能。都会のライフスタイルに合わせて
(深夜働いている人もいる)都合の良い時間に集まることは可能。サンデ
ークリスチャン的マインドを避けるために、あえて週日の夜、職場近くで
集まることも意味がある。
3.神学校出た「牧師先生」でなくてもエクレシアをお世話することは可能。
「兄貴」的な人が「牧者」として皆に仕えることができるし、「教える」賜
物がある人は兄弟として教えればいい。現在はいろいろ良いツール(クレ
イ聖書解説コレクションなど)があるので、そういうものを活用すること
も可能。初代教会には「長老」、「監督」や「執事」(Iテモテ3章、5:
17)という役割はあったので、全くフラットで指導者がいなかったわけ
ではない。ただし、それらの指導者は群に仕える僕であることを忘れては
ならない。(マタイ20:25−26)
正しい教理を教えることは大事です。雑談会ではないので、しっかり学んだ、教える賜物のある人が「兄貴」「お父さん」的に関わることが理想です。
そろそろ、教会のビジネスモデル自体を変える時なのではないでしょうか。身軽になって「本質」にフォーカスしましょう。不必要な儀式やルール、宗教的要素を排除して「本質」に迫りましょう。イエスがおられるところは、魅力的なのです。
教会(エクレシア)はキリストの体です。生命体です。生きているのです。キリストが生きている限り、エクレシアは死なないのです。人間的努力でエクレシアを「生き残らせる」のではありません。エクレシアがエクレシアであれば、生き残るのです。そして、繁殖するのです。
何か可能性が見えてきませんか?
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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