2023年6月29日木曜日

日本文化が聖書の真理を妨げる(1)

 

日本人的謙遜?

先日、バイブルスタディグループでこの話題が出たので、深掘りしてみます。日本の美徳とされる「謙遜」が、聖書的に生きる妨げになってしまうことがあるのです。「まだまだ・・・」、「自分は出来てない」、「自分は救われた罪人に過ぎません」。日本人には良く響く言葉ですね。「ああ、あの人、謙遜だ」と思われるでしょう。

 

前回、「霊・魂・体の救い」について話しましたが、霊と魂をごっちゃにすることでさらに混乱し、「出来てない」意識が高まるのです。そして、救いの確信を持てない人も多いのです。「わたしなんか、『まだまだクリスチャン』だから胸張って天国にいける身分じゃない・・・」なんて思ってませんか。

 

もう一度、整理しましょう。霊においては、私たちは「すでに」義とされ、全うされています。つまり、完全に救われており、これに付け加えたり、変更したりすることはできないのです。

 

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。  (ローマ8:1)

 

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。  (ローマ8:33−34)

 

法的な判決はすでに下っています。キリストにあり「無罪」です。以前のブログ記事「クリスチャンは救われた罪人か?」で、詳しく説明しましたように、聖書では救われた人を「罪人」呼ばわりしている箇所はありません。ローマ5:8で「私たちが罪人であった時・・・」と言っていると言うことは、「今」は罪人ではないと言う事です。クリスチャンは「聖徒」であり「神の子供」です。放蕩息子は父の家に帰ったのです。もう、さ迷ってはいません。本線に戻ったのです。ズレ人(罪人=的を外している人)ではありません。「罪人」ラインのアダムの子孫から。「聖徒」のライン、キリストに属する「新人類」になっているのです。「新しく造られたもの」IIコリント5:17)です。

 

この辺りはしっかり押さえておきましょう。そうしないと、毎週、礼拝に来て「私は罪人です。お赦しください」とうなだれて、この祈りを繰り返し、いつまでたっても「救いの確信」を持てないままとなるのです。朝起きたら、宣言してください。「私は、神に愛されている神の子供です!」とそれが事実ですから。それ以外はサタンの声です。サタンにやられっぱなしではいけません。しっかり、対抗しましょう。その権威があります。

 

ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7)

 

一方、魂は、この地上では工事中です。sins(複数形)は犯します。ただ、もうその備えはあるので、聖霊に示されたら、その罪を告白し、備えられている「赦し」を頂きましょう。(Iヨハネ1:9)「神ご自身」が、あなたを全く聖なるものとしてくださいます。(Iテサロニケ5:23)そこに希望を置きましょう。

 

 

間違った聖書の引用

確かに神は「へりくだる」ことを求めておられます。(ミカ6:8)、(Iペテロ5:6)よく「謙遜な祈り」の模範として引用されるのはルカ18:9−14でしょう。「ほら、自分を罪人と認識する謙遜な人の祈りが、神に受け入れられるでしょ」と言うかも知れません。この箇所を注意深く見てみましょう。

 

人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。

                           (ルカ18:8)

このイエスの問いかけた質問の応答として、それでは、どんな人が救われるのかという文脈で話が展開しています。まず、この二人の対比の話は誰に対して語られたのでしょうか?

 

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。(ルカ18:9)

 

つまり、当時のパリサイ人たちです。彼らはアブラハムの子孫は皆、自動的に救われ、ましてや、律法を守っている自分たちは報酬がもらえるはずだと考えていたのです。つまり、自分が「罪人」であるという自己認識がなかった「救われていない」人々だったのです。それに対して、自分が「罪人」だとの認識を持って、憐れみを求めた取税人の方は、「義と認められて」、すなわち「救われて」帰路についたのだということですね。取税人の祈りは「救われる前」の罪人としての正しい自己認識を表していたのです。

 

私たちはキリストを信じて救われ、子としてくださる御霊を受けたのです。神との和解を得ています。神との関係が変わっています。私たちは御父を「裁き主」としてではなく、「アバ、父」と呼ぶのです。(ローマ8:15)

 

したがって、救われた私たちが「罪人」の祈り『神様、罪人の私をあわれんでください。』  をする必要はもはや、ないのです。神が見てくださっている私たちのステイタスは「罪人」ではなく、「聖徒」、「神の子供」です。天から聞こえてくる声は「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)なのです。びくびくした「罪人意識」で生きるのはやめましょう。

 

自己卑下の祈りは返って、神を悲しませます。それは、謙遜どころか、神のことばに対する不信であり、高慢でさえあるのです。

 


聖書的謙遜とは?

もちろん、神の前にへりくだることは大事です。しかし・・・

 

聖書的な「へりくだり」とは自分の力に頼らず、自分の判断に頼らず、「御言葉」が言っている通りを、信じ、従うことです

 

自分を単に卑下することは、聖書的ではありません。謙遜とは神の下に自分が砕かれることであり、つまり、それは、世の常識、また、自分の経験や、知恵で判断しないことです。むしろ、神が語っていることに従うことです。

 

プロの漁師であるペテロは一晩中、漁をして1匹も獲れなかったのです。しかし、大工の子であるイエスが「深みに漕ぎ出し、網を下ろしなさい」と言われたのです。ペテロはそれでも、「あなたがそう言われるなら・・」と従ったのです。これこそ、聖書的「謙遜」です。そのように感じても感じなくても、聖書が言っていることを、その通り「信じる」ことです。自分が砕かれていないとこれは出来ません。

 

しかし、あなたがたは「選ばれた種族」、「王である祭司」、「聖なる国民」、「神のものとされた民」です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。  

                         ( Iペテロ2:9)

 

どう感じようと、これが聖書の言う、あなたのアイデンディディです。高ぶる必要はありませんが、もう少し、聖書が言っているステイタスを確信して、堂々と生きてもいいのではないでしょうか。

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2023年6月22日木曜日

霊・魂・体の救い


霊と魂は同じ?

人間は肉体と非肉体(霊・魂)で出来ているという2元論を唱える人もいます。しかし、聖書は霊と魂を区別しているように思えます。

 

Iテサロニケ5:23−24

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたのたましいからだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。

 

ヘブル4:12

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましい、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

 

真理の御言葉は、「たましい」と「霊」の区別を明確にできると読むこともできます。

 

イエスの十字架上での出来事

イエスは十字架上で私達の罪の罰をフルに味わうために、神との交わりの断絶を体験されました。これが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)であり、これは受難のメシアが果たすべき役割として詩篇22:1の成就でもあったのです。一時的にではあれ、人間イエスは、本当に神からの断絶体験を味わったのです。その後、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って死なれました。この時点では「父よ」という呼びかけであり、親子の関係が回復されていることが分かります。そして、安心して霊を父に委ねられたのです。父はイエスの霊を受け取られました。つまり、霊は「義」とされ、「全うされた」ことを見ます。肉体の復活は、死後、三日目ですね。イエスの死が、私たちのモデルであれば、ここに「霊の救い」と「体の贖い」に時間差があることが分かります。同じような事が、私達の救いにおいても起こります。

 

救いにおける混乱

聖書を読むと、「この恵のゆえに、あなた方は、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と明確に救われた事実を記している箇所もあれば、「何とかして死者の復活に達したいのです。」(ピリピ3:10)と将来に希望をかけているような箇所もあるのです。一体、自分は救われているのか?まだ救われていないのか?と疑問を抱くのも無理ありませんね。実は、霊・魂・体の救いを、それぞれ理解することで「救いの全体像」が見えてくるのです。そこには時間差があるのです。ですから「救われて」いますが、「まだ完成していない」というのが真実です。それでは1つ1つ見ていきましょう。

 

 

霊の救い:罪の罰からの救い

 

霊は、信じた瞬間、義と認められ、全うされ、イエスと共に天のところにいる!

 

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 (エペソ2:4−6)

 

「霊の救い」はすでに完成しています。もはや罪に定められることはありません。(ローマ8:1)信者は、罪人ではなく、すでに「神の子供」とされています。(ヨハネ1:12)完成したものを裁くことも、貶めることもできません。もう私の霊はキリストと共に天上に座っています。信じた瞬間、聖霊が内住され、「御国」の相続が保証されています。(エペソ1:14)信じた人は、救いを失わないのです。(ヨハネ10:28、ヘブル13:5)

 

体の救い(贖い):罪の存在からの救い

体は再臨時に全うされ、贖われ、朽ちない体に復活する。

 

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。 Iコリント15:42−44)

 

        

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私  たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。 Iコリント15:51—53)

 

これは将来に起こる出来事で、まだ完成していません。しばらくは、病気をしたり、老いてゆく「朽ちる肉体」の中に留まっていなければなりません。しかし、「朽ちない体」に変えられることは、単なる希望的観測ではなく、将来に起こる確実な神の「約束」なのです。

 

 

魂の救い:罪の影響力からの救い

魂、すなわち地上の「私」(知・情・意)は、この地上にあって「工事中」です。試練を通ります。しかし、御霊が内側から私たちを変えてくださいます。

 

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(IIコリント3:18)

 

神は試練を通して訓練されることもあります。

 

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。 (ヘブル12:10)

 

でも心配は要りません。私たちは再臨時に全うされるのです。召された方の真実によって、そのようにして頂けるのです。

 

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。    

                      (Iテサロニケ5:23)

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

2023年6月15日木曜日

反キリストの帝国(2)

 反キリストの帝国(2)〜ダニエル書の預言から

 

ダニエル9:2426(新共同訳)

お前の民と聖なる都に対して七十週(490)が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し幻と預言は封じられ最も聖なる者に油が注がれる。 これを知り、目覚めよ。

 

エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから油注がれた君の到来まで七週 (49年)あり、また、六十二週(483)あって危機のうちに広場と堀は再建される。 

 

その六十二週のあと油注がれた者は不当に断たれ、都と聖所は次に来る指導者の民によって荒らされる。その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き荒廃は避けられない。 

 

62週と7週はつながっている!

今回、意図的に新共同訳を使ったのには訳がある。7週と62週はつながっているのだ。しかし、新改訳2017年版では7週と62週を完全に分けて訳しているので、時系列が滅茶苦茶になってしまい、意味が分からなくなっている。大変、残念。

 

New International Versionはこうなっている。ヘブル語の「週」という言葉は

「7」を意味するので、この訳は非常に正確と言える。

 

There will be seven “sevens”, and sixty-two “sevens”. (NIV)    

 

すなわち、7週x7年=49年 62週x7週=424年  

7+62週=49週=483年となる。

 

原語に忠実と言われているNew King James Versionでは、こうなっている。

 

To restore and build Jerusalem until Messiah the Prince, there shall be seven weeks and sixty-two weeks. (New KJV) 

 

そのまま日本に訳すと、「エルサレムの復興、メシアが来るまで7週と62週 (69週=483年)ある」ということになる。

 

はじめの69週はすでに起こった。

アルタクセルクセス王からネヘミヤにエルサレムの町の復興の許しが出た年紀元前445314日)から7週(49年)で町が復興し、さらに62週でイエスの地上での活動の時代となる。そして、メシアが断たれ(すなわち、イエスの十字架の死)、そして、ローマ軍のエルサレム侵入。

 

次に来る君主(ローマ皇帝)の民が、都と聖所を破壊する。(AD70) その終わりには洪水(大軍)が伴い、戦いの終わりまで荒廃が定められている。

 

その後、ブランクの時代(今の時代)。まだ最後の7週が始まっていない。

 

患難期7年間の根拠  69週プラス1週=70週

 

彼は一週の間(7年間)、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。

                   (ダニエル9:2527)

 

「彼」は文脈上、次に来る君主、すなわちローマ皇帝のことであり、終末時に現れるローマ人の末裔である反キリストのこととなる。反キリストはイスラエルの「多くの者」と安全保障条約を結ぶものと思われる。その条約の下、神殿が再建されるのではと考えられる。

 

最後の1週が起こるための2つの条件

1)契約の相手であるイスラエルが再建されている。

2)患難期中間(3年半)までに、神殿が再建され、捧げものが捧げられてい

  る。

 

「定められた破滅が荒らす者の上に降りかかる」

 

反キリストは滅ぼされる。ダニエル2章、7章、8章、そして、この9章で、また10章41−45で、反キリストの出現とその帝国という同じテーマが違う表現で繰り返し出てくる。そして、その最後は滅びであることも繰り返し述べられている。特に12章7節から13節では、反キリスト帝国の滅びの後に、迫害の時代が終わり、「休みに入る」、(12:13)すなわちメシア王国=千年王国が実現し、全ての事が成就(12:7)することが示唆されている。

 

「イスラエル建国」で駒が進んだ

1948年5月14日にイスラエル共和国の建国宣言。反キリストが契約を結ぶ相手ができたということ。現在、神殿建設の準備も進んでいるという。

 

   黙示録6章の封印を解く出来事は、ユダヤ人の多くが反キリストと安全保障契約を結ぶ時点で起こる。つまり、7年の患難期の始まり。

   これはダニエル9:27の70週目にあたる

 

さらに患難期前に起こると思われる「エゼキエル戦争」(エゼキエル書38章)も、現在のイランとイスラエルの緊張関係、強硬派の指導者と、孤立化が進むイスラエル、米国の中東における存在感の薄れを見るとき、現実化してきているように思える。中国が仲介して、中東の盟主サウジアラビアとイランの関係が回復。アブラハム合意で一度はイスラエルと親和的になった中東諸国が距離を取り、イスラエルが、さらに孤立化する傾向にある。また、トルコでエルドアン大統領が再選された事で、反欧米のロシア、イラン、トルコが、さらに連携を深める可能性が高まった。

 





==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

2023年6月8日木曜日

反キリストの帝国(1)

 

黙示録を理解するには旧約の預言を理解しなければなりません。また旧約の預言も黙示録が無いと尻切れトンボになってしまいます。預言?とあまり興味がない人がいるかも知れません。しかし、聖書の約3分の1(80%)が預言と言われています。聖書は単なる道徳の本ではありません。預言を通して人類歴史に神がどう働いているのか実際に見ることができるのです。黙示録には「反キリスト」なる人物が地上を支配し、王国を築くことが記されています。しかし、これは、すでに今から2600年ほど前に書かれたダニエル書に記されていたのです。

 

ダニエル2章 「巨像の夢」

ダニエルはネブカドネツアル王の見た「巨大な像」の夢を解き明かします。その像は・・・頭は純金、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。



第一帝国 頭は金:バビロン帝国

第二帝国 胸と両腕は銀:メディアとその属国であったペルシア。

     やがて2つ(両腕)がメド・ペルシア帝国となりペルシアが力を持

     つようになる。その通貨は銀だった。

第三帝国 腹とももが青銅:ギリシア帝国。アレクサンダー大王の死後、4人

     の王が立つが、結局、最終的に2つ、南の王エジプトのプトレマイ

     オス朝と、北の王シリアのセレウコス朝が残り両勢力が対抗し合う。     

     これに関して11章で詳細が描かれている。それで「両もも」。

第四帝国 鉄のように強い国。ローマ帝国。2本の足、つまり東西にローマ帝

     国は分裂する。さらに時間軸が進むと、終末の帝国の記述になる。「足」

     で表される第四の帝国はローマの末裔でありながら、終末の世界大

     の帝国を表している。足には10本の指があるように、終末の反キ

     リスト帝国は10の王からなる。しかし、その結束力はもろく、最

     終的には、3つが倒れ、7つの王国の連合体となる。

第五帝国 天の神が起こされる国。永遠に滅びない国(メシア王国)。1つの石

     が人手によらずに切り出され(天から来られるキリスト)、その像の

     鉄と粘土の足を粉々に砕く。反キリスト帝国は跡形もなくなる。聖

     徒たちがキリストと共に「御国=千年王国」を受け継ぐ。

 

ダニエル7章 「4頭の獣」

これらは海(異邦人の地)から上がってきた「大きな獣」(帝国)であり時系列的に出現している。前に見た「巨像」(歴史に現れる帝国)を違う描写で描いている。



第一の獣:獅子  バビロン帝国

第二の獣:熊   メド・ペルシャ帝国

第三の獣:豹   ギリシア帝国

第四の獣:前に現れたすべての獣と異なる。10本の角

 

この第四の獣が終末時に現れる「反キリスト帝国」だ。10の王国(支配エリア)からなるが、その中の1本の小さな角(7:8)が反キリストで、逆らう3本の角(王)が砕かれ、最終的に7人の王が反キリストに従う。この角は大言壮語し、大いに高ぶる。(7:8)角は「獣」と称されるが、この獣=反キリストは殺され、滅ぼされ、燃える火に投げ込まれることが預言されている。(7:11)これは黙示録の19:20に呼応している。

 

ダニエル7章の19節以下では第四の獣(反キリスト帝国)についてさらに詳しく述べている。「他のすべての獣と異なって」と、その特異性を強調している。単なる歴史に現れた「帝国」とは質とレベルが違うのだ。一部、ローマ帝国にかぶるところもあるが、「全土を食い尽くし」(7:23)と世界大の帝国であり残忍さも強調されている。また、21節「その角は聖徒たちに戦いを挑み、彼らに打ち勝った。」とあり、迫害が強まり、主の再臨(22節)までは殉教者が出ることも預言されている。25節には「反キリスト」的性格が描写されており、また反キリストによる激しい迫害期間が、「3年半」であることも分かる(25節)黙示録では13:5—6に「42ヶ月」というフレーズで、平行記事が書かれている。

 

ダニエル7:26−27節には反キリストの滅びと千年王国の成就が記されており、これは黙示録の19章の終わりから20章と連結している。

 

「聖徒たちが国を受け継ぐ時期が来た」(7:22)とある。「天国に行く」とはニュアンスが違う。ダニエル7章は4つの歴史上の帝国の話のコンテキストであり、「地上の国」の話をしていることに注意。7章は勝利宣言で終わっている。反キリスト帝国は滅ぼされ、聖徒たちが地上で「御国」を受け継ぐ。(黙示録20:6)

 

しかし、さばきが始まり、彼(反キリスト)の主権は奪われて、彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。 国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。

                     (ダニエル7:26−27)

 

 

ダニエル8章に見る反キリスト帝国

ダニエル7章23〜26節からは終末預言になっている。

 

彼らの治世(異邦人帝国)の終わりに、その背くものたちが行き着くところに至ったとき、(異邦人思考=反キリスト的なものの究極)横柄で策にたけた一人の王が立つ。(最終的で究極の反キリストなる人物)

 

歴史上、シリアのアンチコス・エピファネス、ローマ皇帝ネロ、ヒットラーのような「反キリスト的」人物はたくさん現れたが、最終的、究極の「反キリスト=The Beast」なる一人の人物が現れる。

 

この人物は「策にたけて」いるので、世界中を知らずして統制・支配してゆく。量子コンピューターとAIにより技術的には可能となってきている。反キリストは、最初、世界の諸問題を解決し、ヒーローとして活躍するだろう。

 

彼の力は強くなるが、自分の力によるのではない。(サタン『竜』が背後にいる。)

彼は驚くべき破壊を行なって成功し、有力者たちと聖なる民を滅ぼす。

 

サタンに操られる「反キリスト=獣」は、次第に本性を現し、世界の権力者を支配下に収める。そして、「聖なる民=イスラエルの民」を滅ぼしにかかる。聖なる民の存在が無くなり、霊的覚醒が無くなれば、再臨を阻止できる。再臨が無ければ、サタンは滅びを免れる。それで、患難期、サタンは聖なる民を絶滅すべく、激しく攻撃する。この時期、14万4千人のユダヤ人宣教師やエルサレムでの二人の証人の宣教活動でイエスをキリストと信じるユダヤ人が多く起こされるが、迫害も厳しく、多くは殉教するものと思われる。

 

狡猾さによって、その手で欺きを成し遂げ、心は高ぶり、平気で多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。

 

その特徴は「高慢」であり、神に公然と歯向かう姿勢である。(7:25)

 

しかし、人の手によらずに彼は砕かれる。

 

しかし、天から来られる再臨のキリストにより、滅ぼされる。

 

これはまだ、多くの日の後の事だから。

 

ダニエルは自分でも理解できない終末の預言を頂いたが、その預言は秘めておくよう告げられる(12:4)。黙示録ではヨハネは「預言のことばを封じてはならない。」(黙示22:10)と告げられる。「時が近づいているから」(黙示1:3)と言われた。

 

次回は、9章の「エルサレム」に対する70週の預言を見てみます。  

 

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2023年6月1日木曜日

黙示録早わかり

 黙示録は啓示録

       ギリシア語でアポカリュプシス、英訳はRevelation   動詞のRevealは暴露する、覆いを外すの意味。だから、黙示録は、神が明らかにしたメッセージ。「啓示録」が正しい訳だろう。

       この書を読むものは幸いである(3節)この表現は他の新約の書にはないユニークな表現。黙示録を読むものは「幸い」なのだ。

       時が近づいている! 主のお出でが近い今、読むべき。(ヤコブ5:8)

 

鍵となる聖句

「見よ、彼が雲に乗って来られる」(1:7)

キリストの再臨が大きなテーマ。再臨前に何が起こるかを記している。主イエスは必ず戻って来られる。そして、サタンに、悪に裁きをつける。最終的には完全なる神の支配=新天新地をもたらす。最終的なキリストの勝利の宣言。つまり、黙示録は「希望」のメッセージ。物語のハッピーエンドを告げる。

 

大きなテーマ:「獣の王国 VS 子羊の王国」

聖書は、歴史観:「神の国」と「サタンの国」、

      この2つのグローバリズムが展開されている。

 

       獣の王国:1)サタン 2)獣(反キリスト)

        3)偽預言者 4)大バビロン

       

       子羊の王国:1)神 2)子羊(キリスト) 

          3)聖霊 4)新しいエルサレム

 

黙示録のアウトライン

「そこであなたの見たこと、今あること、この後に起こることを書きしるせ。」   

                          (1:19)

        あなたの見たこと:1章

    今あること:2章—3章

        この後に起こること:4章から22章

                               (6章から18章は患難期の描写)

 

「黙示録」は終末論

       特に黙示録をどう読むかで、その人の神学的立場が明確になる。

 

       黙示録の字義的、時系列的解釈

                      VS

           黙示文学として比喩的解釈をする

 

  聖書の読み方で違いが出る

 

  1. 聖書の字義的・時系列的解釈

          著者の意図を探り当てる解釈

        時代背景(旧約、新約)を考慮する。誰が誰に宛てて書いているか?

     著者の動機などに注意を払う

    

    明らかに比喩のところは比喩として解釈

    それにより、文脈を無視した解釈・適応を避ける。

    黙示録の各章は「また」、「その後」で始まっており、時系列的に

    解釈するのが自然

 

       それに対して比喩的解釈では・・・  

    基本的に黙示文学なので、実際の歴史に当てはめられない。だから、

    そこに込められた現代的メッセージを受け取ればいい。その人の神学、

    聖書理解は、聖書預言、終末論で違いが明確になる。

  

 

「黙示録」解釈の立場

1.過去主義: 黙示録の内容は初代教会の時代に成就した。

2。精神主義: 実際の歴史ではなく、霊的原則。

3。未来主義: 大部分は未来に関する預言

  

 

イスラエルと教会の関係

 

デスペンゼーション神学では、イスラエルと教会に一貫した区別を設ける。これに対して、契約神学(置換神学)では、新約の教会に区別を設けず、イスラエルは霊的イスラエル(同じクリスチャン)として一括りにする。

            

しかし、そうすると聖書が「神のイスラエルに対する『召命』と『賜物』は変わらない。」と言っていることをどう解釈するのか?(ローマ11:29)

 

黙示録の患難時代ではイスラエルにフォーカスがある。もちろん、現在、個人的なイスラエル人の改心はある(メシアニックジューと呼ばれる人々)しかし、イスラエルの「国家」としての改心はキリストの地上再臨の直前に起こると考えられる。新天新地においてさえ、イスラエルのアイデンティティと特異性は維持されていると考えられる。(黙示録21:12)

 

聖書の書かれた目的は「神の栄光」

契約神学では、聖書の書かれた目的は「人類の救い」と考えるが、ディスペンゼーション神学では「神の栄光」と考える。実際、神の救いは「被造物全体の救い」であり、創世記から黙示録までは神の救いの壮大な回復物語となっている。

       

黙示録は66巻の集大成

       創世記に始まり、黙示録に終わる

       黙示録単体で読むのではなく、66巻の流れの中で読む。黙示録がないと、旧約預言が尻切れトンボになる。旧約預言と黙示録は相関関係にあり、一方を欠いてしまうと理解できなくなる。

       黙示録は旧約預言の成就(メシア王国)であると同時に、新しい新約の啓示(新天新地)でもある。

 

 

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com