霊と魂は同じ?
人間は肉体と非肉体(霊・魂)で出来ているという2元論を唱える人もいます。しかし、聖書は霊と魂を区別しているように思えます。
Iテサロニケ5:23−24
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。
ヘブル4:12
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
真理の御言葉は、「たましい」と「霊」の区別を明確にできると読むこともできます。
イエスの十字架上での出来事
イエスは十字架上で私達の罪の罰をフルに味わうために、神との交わりの断絶を体験されました。これが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)であり、これは受難のメシアが果たすべき役割として詩篇22:1の成就でもあったのです。一時的にではあれ、人間イエスは、本当に神からの断絶体験を味わったのです。その後、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って死なれました。この時点では「父よ」という呼びかけであり、親子の関係が回復されていることが分かります。そして、安心して霊を父に委ねられたのです。父はイエスの霊を受け取られました。つまり、霊は「義」とされ、「全うされた」ことを見ます。肉体の復活は、死後、三日目ですね。イエスの死が、私たちのモデルであれば、ここに「霊の救い」と「体の贖い」に時間差があることが分かります。同じような事が、私達の救いにおいても起こります。
救いにおける混乱
聖書を読むと、「この恵のゆえに、あなた方は、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と明確に救われた事実を記している箇所もあれば、「何とかして死者の復活に達したいのです。」(ピリピ3:10)と将来に希望をかけているような箇所もあるのです。一体、自分は救われているのか?まだ救われていないのか?と疑問を抱くのも無理ありませんね。実は、霊・魂・体の救いを、それぞれ理解することで「救いの全体像」が見えてくるのです。そこには時間差があるのです。ですから「救われて」いますが、「まだ完成していない」というのが真実です。それでは1つ1つ見ていきましょう。
霊の救い:罪の罰からの救い
霊は、信じた瞬間、義と認められ、全うされ、イエスと共に天のところにいる!
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 (エペソ2:4−6)
「霊の救い」はすでに完成しています。もはや罪に定められることはありません。(ローマ8:1)信者は、罪人ではなく、すでに「神の子供」とされています。(ヨハネ1:12)完成したものを裁くことも、貶めることもできません。もう私の霊はキリストと共に天上に座っています。信じた瞬間、聖霊が内住され、「御国」の相続が保証されています。(エペソ1:14)信じた人は、救いを失わないのです。(ヨハネ10:28、ヘブル13:5)
体の救い(贖い):罪の存在からの救い
体は再臨時に全うされ、贖われ、朽ちない体に復活する。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。 (Iコリント15:42−44)
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私 たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。 (Iコリント15:51—53)
これは将来に起こる出来事で、まだ完成していません。しばらくは、病気をしたり、老いてゆく「朽ちる肉体」の中に留まっていなければなりません。しかし、「朽ちない体」に変えられることは、単なる希望的観測ではなく、将来に起こる確実な神の「約束」なのです。
魂の救い:罪の影響力からの救い
魂、すなわち地上の「私」(知・情・意)は、この地上にあって「工事中」です。試練を通ります。しかし、御霊が内側から私たちを変えてくださいます。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(IIコリント3:18)
神は試練を通して訓練されることもあります。
肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。 (ヘブル12:10)
でも心配は要りません。私たちは再臨時に全うされるのです。召された方の真実によって、そのようにして頂けるのです。
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。
(Iテサロニケ5:23)
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執筆者:栗原一芳
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