他の人に遠慮して、意見を言わない日本人?
同じような格好をし、同じような喋り方をして、目立たないようにするのが今の若者らしいです。「出る杭は打たれる」とあるように、昔から日本人にはこの傾向がありますね。レストランに行って、「みんなと同じものでいいや」と言う海外では信じられない光景が見られるのも日本特有でしょうね。以前、アメリカで作られた個人伝道の映画で、教会の人がノンクリスチャンの家庭を訪問した時のことです。家のホストに「飲み物は何がいいですか?」と聞かれると「ああコーヒーにミルク、シュガーで・・・。」と堂々とリクエストしていたのが、とても印象に残っています。日本なら「お構いなく」と遠慮するか、「ああ何でも」とホストに決めさせるでしょうね。
また、大勢の人の前で自分の意見を述べるのも、気が引けます。アメリカのバイブルスクールで学んでいた時、英語のハンディもありますが、「日本人」なので、自ら手をあげて自分の意見を言うのが苦手でした。しかし、クラスメートのアメリカ人はどんどん手をあげて質問するのですが、その多くは私から見るとくだらない、分かりきった内容なのです。つまり、わざわざ質問するまでもないような内容です。それでも手をあげて堂々と質問します。質問する行為自体に意味があるようです。実際、実際、アメリカではClass participation(授業への参加、貢献度)が、成績のポイントになります。黙っていると参加意欲が無いとみなされます。ここでは「遠慮」は通用しないのです。
同調圧力
「和を持って、尊しとする」、「和」を大事にする日本人。極力、コンフリクトを避ける。そのため、多少意見が違っていても「あえて」言わない。それは美徳であると共に、こと人生の決断となると問題も生じてきます。
日本人の信仰の邪魔をするのが、この「同調圧力」です。個人伝道の際、最後の決断ができない人が迷うのが「でも、親が何と言うか?」「友達がどう思うか?」という事ではないでしょうか?若い頃、学生伝道をしていてよく、この問題に直面しました。一緒に働いていた宣教師が「あなたの心は何と言っていますか?あなたの心の言う通りに決断しなさい・」と励ましていたのが印象的でした。周りを気にして自分で決断できない人が多いのです。99%に同調していたい。確かに、1%のマイノリティに加入するのは勇気のいる事でしょう。
周りを気にする(空気を読む)ことは必ずしも悪いことではありません。周りの人の気持ちを理解し、配慮を示すことは愛でさえあります。しかし、誤解を生むこともあります。こんなことがありました。夏の宣教チームが来てキャンパスで伝道しました。当然、ある学生と個人的に親しくなります。何度も福音を伝えますが、その学生は拒んでいました。しかし、その宣教チームメンバーが明日帰るとなった時、「自分が『信じる』と言ったら喜ぶだろうな」と過剰な配慮ゆえに「信じます」と言ってしまったのです。もちろん、宣教チームのメンバーは大喜びで帰りましたが、帰国した後でわかったのは、その学生の決断は「他人を喜ばすための決断」で自分の決断ではなかったのです。
また、逆のケースもありました。ある国から来た宣教チームメンバーは「押し」が強く、個人伝道の最後で「いや」と言えず、とりあえず「信じます」と言ってしまった学生がいます。宣教チームの帰国後、私が電話してフォローアップしようとしたら、「あの時は、断れずに『信じる』と言ったが、実際は信じてないし、興味もない」とそっけなく断られてしまいました。
過剰な配慮は益を生みません。人生の決断は「自分の人生」の決断です。自分の心で決めた通りにした方がいいと思います。時には「人に従うより、神に従う」必要があります。(使徒5:29)
カミングアウト
自分がクリスチャンであることを、いつカミングアウトすべきか?いかがでしょうか?大半が未信者の日本で、クリスチャンであることをカミングアウトすることは、勇気がいるかも知れません。なるべく皆と同じでいたいという誘惑があります。自分は2通りやってみたことがあります。変人扱いされないため、なるべく最後まで言わない。最初に言っておく。自分の経験からは最初に言っておいた方がいいようです。その結果、証できるチャンスが増えます。最近は、家主さんとも仲良くなり、証をするチャンスもありました。営業で家に来る銀行や不動産の人にもトラクトを渡したりしています。
あなたがたは、世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
(マタイ5:14)
アリマタヤのヨセフは、十字架のイエスの引き渡しをピラトに願って許可されています。以前から信者だったようですが、サンヒドリン(ユダヤ最高議会)のメンバーだったこともあり、言い出しにくかったのでしょう。しかし、もうこの時にはカミングアウトして、イエスを自分のために新調した墓に葬ったのです。ちなみに埋葬の時、同席していたのは婦人たちで、男の弟子たちがそこにいた記録がありません。きっと恐れて家に閉じこもっていたのでしょう。女性の方が、勇気ありますね。お墓が空っぽだったのを発見したのも女性たちですね。
「御国」と「この世」とのどっち付かずが一番、苦しいのです。はっきりした方が楽です。そしてクリスチャンとしてのアイデンディディを聖書からしっかり確信することです。「アイデンティティ」や「主張」がはっきりしない人は周りに影響を与えることはできません。マスコミに影響を与えるオピニオンリーダーやインフルエンサーはキャラが立っている人(アイデンティティや主張がはっきりしている)が多いですね。クリスチャンは「地の塩」、「世の光」です。この世の有り様は過ぎ去るのです。いつまでも、この世に留まるのではありません。
「世と世の欲は過ぎ去ります。」(I ヨハネ2:17)
アッピールする自由
LGBT推進派の人たちは、カミングアウトして7色の旗を掲げて、パレードをして世間にアッピールしていますね。自分の立場を鮮明にしたり、アッピールすることは日本の憲法では保障(思想、信教の自由)されています。街頭で、「戦争反対」を叫んでいる人もいます。コロナ渦で、マスク反対を掲げて宣伝カーを走らせている人もいました。大勢に逆らうのは勇気がいりますが、そういう人もいました。クリスチャンも主張していいのです。今の時代、自分の確信や主張がないと、世に持って行かれます。
90年代にはジーザスマーチが流行り、私も参加して渋谷を練り歩いたことがあります。共産党がビラを配布している隣で、”Jesus Love You”のオレンジ色のビブを付けて聖書を配布したこともあります。それぞれが主張する自由があるのです。多様性やマイノリティがフォーカスされている時代、「霊的マイノリティ」であるクリスチャン、もっと大胆に、アッピールしてもいいのではないでしょうか?
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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