2023年8月17日木曜日

地獄をどう考える?

 

地獄は苦しみの場所

聖書には地獄についての言及が53回もあります。「地獄」という存在を否定することはできないのです。イエスご自身も律法違反者は「燃えるゲヘナ」に投げ込まれるという表現をしています。(マタイ5:22、29−30)イエスご自身、地獄について多く言及しています。イエスが地上で活躍した時代のエルサレムには、実際にゲヘナ(ゴミ焼却場)がエルサレムの南(城壁の崖の下のヒノムの谷)にあったのです。常に火が消えず、蛆虫が湧いていたようです。首吊り自殺したユダも、最終的にここに落とされ、はらわたが出てしまいました。

 

イエスご自身がした「金持ちとラザロ」の話では、無慈悲な金持ちはシェオール(黄泉)で、苦しみを受け、暑さと渇きを体験しています。シェオールは一時的な拘留場とはいえ、苦しみもあるのです。最終的な地獄は「火の池」です。やはり「熱い」イメージがつきまとっています。悪魔、偽預言者、反キリストは、そこで「永遠」に苦しむことが明記されています。(黙示20:10)死んで魂が消滅してしまうという思想は聖書にはありません。

 

地獄が「苦しみの場所」であることは確かですが、「永遠に」苦しむということを、受け入れがたい人は多いのではないでしょうか。「火の池」とは何なのでしょうか?地獄をどう解釈するか、議論を呼ぶところです。ティム・ケラーは神を拒絶した人は、この人生で、すでに地獄の苦しみを体験し始めていると考えています。(つまり、場所というより状態のこと?)

 

地獄は神のいない場所?

罪の報酬は「死」です。(ローマ6:23)「死」とは神=命からの断絶です。イエスが十字架上で体験した苦しみ、「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」は、まさに死=神との断絶=地獄だったのです。罪の支払う報酬は「死」(ローマ6:23)です。イエスが私たちの身代わりに、その「死」を体験し、味わってくださったのです。神に見捨てられた場所。神のいない場所。それは想像もできないほど、恐ろしいところです。ヤクザが支配する町を想像してください。光が存在せず、暗黒の世界。治安は乱れ、道端で女性はレイプされ、子供らは麻薬に染まり、保安官も警察も機能しない町。悪い権力者が思うままに支配する町。何の希望もありません。救い主がいない町。救いは永遠に来ないのです。

 

ちなみに火の池に罪人が投げ込まれますが、(黙示21:8)そこには、「悪魔」も「獣=反キリスト」も「にせ預言者」も投げ込まれるのです。(黙示19:20、20:10)つまり、神はいないが、悪魔が永遠に同居する場所なのです。

 

その反対が新天新地で、まさに天と地の融合の場所。神の栄光が世界を照らします。神とともに、神の御顔を仰ぎ見ながら生活する場所なのです。これは対照的です。

 

イエスを信じ、イエスに従うものはイエスのいるところに行きます。(ヨハネ14:3)イエスの命に預からない者は、肉体の死後、魂の死(第二の死)を味わいます。神を拒み続けた人は、神のいない世界=悪魔の棲む「地獄」へ行くのです。神がいないとは、命がない、愛がない、秩序がない、正義がない、希望がない世界です。

 

黙示録の「火の池」とは?

黙示録に出てくる「火の池」が、最終的な「地獄」の姿です。永遠に火で苦しめられるのはあまりに酷なので、死んだら「無」になる、罪人の魂は、消滅すると考えるセブンスデーアドベンティストなどの教えがあります。しかし、刑罰は永遠であること、「苦しむ」主体が存続することが明記されています。(黙示20:10)

 

黙示20:14では、「火の池」とは「第二の死」とあります。もう一度、言いますが「死」とは分離のことです。「第一の死」は肉体と魂の分離、「第二の死」は神からの永遠の分離。(マタイ10:28)そう考えれば、「火の池」の「火」とは、文字通りの「火」ではなく、「渇き」、「苦しみ」を与える象徴であり、「火の池」=「第二の死」=「神と完全に分離された暗闇の世界に永遠に住むこと」と解釈できないでしょうか?

 

実際、火の池に「死」、と「ハデス」が投げ込まれており、人格の無い「死」が罰を受ける(死が苦しむ)というのは変なので、そこには「死」(そしてハデス)が永遠に「ある」という解釈の方が自然です。火の池に投げ込まれた「死」が燃えて滅びてしまうという事なら、火の池に投げ込まれた人の魂も消滅してしまうという論理になります。それに、そもそも「死」は燃えないです。むしろ、人が「死」(神からの分離状態)の中に、永遠に置かれる(「死」が永遠に存在する状態)という方が納得いきます。

 

「死」の反対は「命」です。新天新地は、神の御臨在があるところ、「命の木」がなるところ(黙示22:2)です。黙示録22:15では罪人は「外にとどめられる」と表現されています。ここでは火の池は出てこないのです。「都に入る者=命の木の実を食べる者」との対比で「外にとどめられる=死=神の臨在と命からの分離」となりますね。

 

よく考えてみると「硫黄の燃えている火の池」(黙示19:20)に、人間も永遠に存在することは不可能です。罪人は「朽ちない体」を持っていません。この地上の肉体を持った人間が永遠に火で焼かれることは不可能です。肉体は溶けるか、灰になってしまうからです。また、魂だけが残ったのであれば、火の熱さを感じる五感がありませんので無感覚です。

 

それなら地獄とは何でしょう。地獄とは「神からの永遠の断絶=神のいない世界に永遠に生き続ける」という事でしょう。神を拒絶し続ける人は、その望み通り、神のいない世界へ行くのです。「偶像を拝むもの、魔術を行うもの」(黙示21:8,22:15)すなわち、悪魔を崇めるものは、悪魔と永遠に同居することになるのです。彼らの選択です。そこで永遠に神に出会うことなく過ごすのでしょう。

 

神のお心

このテーマが語られると必ず、「どうして愛の神が人を地獄に送るのか?」という質問が出ます。神は人を地獄になんか送りたくないのです。もともと地獄はサタンとその悪霊たちのための裁きの場所として造られたのです。(マタイ2541)人のためではありません。そこに入る必要は無いのです。神の救いを拒み、サタンに追従する人は、自分の選択としてサタンの落ちるところに一緒に落とされるのです。しかし、神は一人でも救いたいのです。最後に神の切実なお心をお分かちします。

 

彼らにこう言え。『わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』         (エゼキエル33:11)

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。      

                    (ヨハネ3:16)

 

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。    

                    (テモテ2:4)

 

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。  

                    (II ペテロ3:9)

 

 

Word study

 

マタイ10:28「たましいも、からだもともに、ゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

 

滅ぼす 英語ではdestroy  ギリシア語ではἀπολέσαι (apolesai) 

ギリシア語を調べてみると・・・
Verb - Aorist Infinitive Active
Strong's 622: From apo and the base of olethros; to destroy fully, literally or figuratively.

とあり、「文字通りの意味」と「比喩的な表現」と両方に使われるとあります。

文字通り、「滅ぼす」だと、魂が消滅してしまうことになり、聖書の思想とは反しますね。「彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)

とありますから。サタンは最後に「滅ぼされる」」のですが、その意味は「ゲヘナで永遠に苦しみを受ける」ということであり、「消滅」ではありません。あるいは、神とクリスチャンの居るところからの「完全な隔離」です。つまり、「滅ぼす」とは「隔離され、苦しみを受ける」という意味に取った方が、納得がいきます。

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執筆者:栗原一芳

 

 

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