すでに提唱されていたオーガニック・チャーチ
最近、友人が「世界一わかりやすい内村鑑三の無教会主義」(真のエクレシア形成を目指して)という本を紹介してくれました。シンプルにポイントだけをまとめてくれているので、読みやすいし、分かりやすいので是非、オススメです。以下、本の引用を中心にお分かちします。現代、アメリカでのオーガニック・チャーチ推進者のフランク・バイオラはInstitutional church(制度的・組織的教会)に対する概念としてオーガニック・チャーチを挙げています。そう言う意味では「無教会主義」は「オーガニック・チャーチ」なのです。
「無教会」という言葉が誤解を招きますが、ご存知のように、内村鑑三が「無教会」という時、教会(エクレシア)を否定しているのではなく、組織的・制度的教会を否定しているのです。
「内村は1893年発行の『基督信徒の慰』で「無教会」という言葉を生み出し、1901年には同名の雑誌『無教会』で「無教会主義」として、その概念を最初に提唱しました。(P.14)
オーガニック・チャーチの概念は新しいものではなく、日本でも、すでに1901年から内村が提唱していたことになります。
内村が「無教会主義」を提唱するに至った経緯として・・・
1. 日本の天皇崇拝への反対姿勢
2. 教会でのネガティブな経験
3. 制度主義と外国人宣教師への反対姿勢
が、きっかけとなったといいます。1に関しては天皇崇拝に反対する姿勢が、ナショナリズムから独立した信仰へと向かわせました。2に関しては「聖職者の間での嫉妬や敵意・・・教会員の間での不品行、不誠実、不公正、そして不信」(P17)を体験した事で、組織的教会にうんざりしたという事でしょう。どうしても多く集めると、組織・運営が必要となり、それが「組織悪」を生むことになります。
3に関しては、「宣教する側」としての先進国・欧米の宣教師と「宣教される側」の後進国の日本という構造です。どうしても力関係、上下関係ができてしまいます。無意識的にも意識的にも福音プラス欧米文化を押し付けてくる傾向があったのでしょう。
「内村は西洋帝国主義を不快に感じ、西方キリスト教会における教派の分裂や大衆伝道と改宗の強調は、日本の文化に当てはまらないと考えていました。」(P.19)
そして、内村が打ち出した方向はいわば「キリスト道」だったのです。
「無教会は日本人のクリスチャンとしての自分に向けて歩くように言われた『道』であると、内村は強く信じていました。(p.17-18)
人の組織より、生きる「道」としてのキリスト信仰を選び、内村は、制度的教会から離れていったのです。
無教会主義の5つの神学的特徴
1. 信仰のみによる救い
2. 制度主義・教派主義・礼典・サクラメントの撤廃
3. 本来のエクレシアと現在の教会の区別
4. 宇宙の教会として無教会信者の教会
5. 2つのJ (Jesus & Japan)
「宇宙の教会」については説明が必要ですね。内村はキリストの究極的かつ単一の体としての普遍的教会を求めていました。(P.25)
内村自身、このように書いています。
「『無教会』は教会の無いものの教会であります。即ち、家の無いものの合宿所ともいうべきものであります。即ち、心霊上の養育院か孤児院のようなものであります。無教会の『無』の字は、『ナイ』と読むべきものでありまして、『無にする』とか『無視する』とかいう意味ではありません。」(P.25)
無教会主義は教派ではなく、「根本的キリスト教」への回帰であり、教会の真の姿を実現しようとするものであったのです。組織や政府のような教会ではなく、家族のような兄弟姉妹の集まり(エクレシア)を目指したのです。
組織的教団教派に違和感を感じ、それらに属さない、いや、属せない信者たちは、「教会」を持たない信者となるわけです。そして、「教会」を持たない者(さまよう信者)にとっての居場所が「宇宙の教会」だと言うのです。神の造られた大宇宙がいわば、教会堂なのであり、説教者は神御自身だと言うわけです。(P.33)
ちなみに、初代クリスチャンたちの「キリスト道」はコンスタンティン皇帝がAD313にキリスト教を公認して以来、「キリスト教」という宗教に変質してしまったのです。純粋な信仰を持つものが制度的・組織的教会に違和感を感じるのは、ある意味、当然とも言えるのではないでしょうか。
エクレシア体験
この本の著者、中村氏はフラー神学大学院で学んでいる時、「コイノニア」と呼ばれるバイブルスタディグループに参加していたと言います。そこで夕食を共にし、参加者の相互交流を行い、信仰の課題を共有し、共に聖書から学び、祈り課題を分かち合い、お互いのために祈っていたのです。彼曰く、「このコイノニアこそ、妻や私がもっとも真のエクレシアの形成を体験した場所の1つでした。」(P.62)
ちなみに、この交わりは無教会主義とは直接関係がなかったそうですが、本質は同じものだったのです。今、私たちがやっている「TMCエクレシア」も同じですね。メンバーは、コロナ渦を通過しても人数は減りませんでした。それだけの「魅力」があるからでしょう。真に、この「エクレシア体験」をしたものは、その魅力に取り憑かれてしまいます。
宣教の視点から見るオーガニック・チャーチ
以前のブログ記事で紹介したデータですが、キリスト教系学校の学生・卒業生や聖書の読者、キリスト教社会福祉事業所の関係者、クリスチャン作家の読者など、「現実的に教会に繋がっていたりしなくとも、キリスト教に対して好意的な人」が「30%以上」いるそうです。これは励まされる数字です。
また、教会に所属はしないが、キリスト教に愛着や親近感を持ち、個人的には信仰を持ちつつも組織的な所属をしない人々=「所属なき信仰者」が、かなりの数いるという事です。これはチャンスです。これらの人々は、信者ですが、組織としての教会には興味がないし、教団や教派にも興味がないのです。
宗教的要素をなるべく排除した「キリスト中心のコミュニティ作り」つまりは、オーガニック・チャーチが求められているのではないでしょうか。もともと、教会は会堂や組織ではなく、「キリストの体」であり、「キリストの充満」です。(エペソ1:23)
90年代でしたか?牧師、ビジネスマンが協力して日本人のキリスト教に対する意識調査をやったことがあります。それは、「エリヤ会」と名付けられ、その報告が発表されました。「どうして教会に来ないのですか?」の質問に「縛られたくない」がもっとも多い答えだったと記憶しています。多くの人(特に男性は)教会に行くと献金や日曜礼拝厳守と、色々規定があり、守るのが面倒だと思っているのでしょう。そんな事だけでキリストを遠ざけてしまっているとしたら大変、残念です。
「無教会主義はミッシオ・デイ(神の宣教)の具現化であり、それを推し進める奉仕活動を委ねられている。」(P.63)
今後の日本宣教の視点からも、オーガニック・チャーチ推進を再考してみる必要があるのでは無いでしょうか?具体的には以前のブログで書いた、インターネットによる講解メッセージと地上のスモールグループによる分かち合いという形態でしょうか?具体的には課題は多いですが、方向性は間違っていないと思います。
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オススメ本
「世界一わかりやすい内村鑑三の無教会主義」 中村友彦 著
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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