2024年1月31日水曜日

大淫婦の誘惑


教会組織からの離脱

ドイツの教会で、これまでに少年少女ら少なくとも2225人が性的虐待を受けていたことが明らかになりました。被害の実態調査をした研究者らは25日、1946年以降、ドイツにあるプロテスタントの複数の教会で少なくとも2225人の未成年者が、少なくとも1259人の聖職者らから性的虐待を受けていたと発表しました。被害者は65%が男性、35%が女性で、大半が当時13歳以下でした。加害者の40%は牧師で、多くは既婚の男性だということです。

(テレビ朝日 1月27日) 

 

カトリック内の性被害の問題は、ここ数年話題となっていたが、ついにプロテスタントまで。とは、言うものの、ドイツは基本的に国教会。役所で住民登録をするときに、宗教を書かされる。それはクリスチャンかどうかを調べるためで、キリスト教徒を表明すると、「宗教税」の対象となる。しかも、所得の10%と結構高いらしい。教会は金持ちになる。牧師の給料は国から支給される。牧師は公務員化する。そして、霊的に堕落する。それで、最近は「教会」から離脱する人が増えている。近年、38万人が離脱したそうだ。それは必ずしも「信仰」の破棄を意味しない。「教会」という「組織や制度」に嫌気がさしたためだろう。実は、ここ30年くらい、アメリカでも同様の現象が起こっている。聖書的な信仰を保つために「教会」という組織を離脱する動きだ。ある時期には年間100万人が離脱というニュースを聞いたことがある。

 

堕落した「教会」

「教会殺すにゃ、刃物は要らぬ。迫害やめて、金渡せ。」

 

初代クリスチャンたちはローマの迫害に遭っていた。しかし、彼らの信仰は純粋だった。

AD313にコンスタンティンがキリスト教を「公認」し、様々な優遇策を出した。そして、AD392にはキリスト教はローマ帝国の「国教」となった。それ以来、霊的な堕落が始まったのだ。中世カトリックでは、「新生」していない(つまり御霊を持たない)信徒はおろか、教会指導者までもが続出した。中世カトリック教皇の堕落ぶりを、垣間見てみよう。以下はHenry H Halley著「聖書ハンドブック」(p728-729)による。

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セルギウス3世(904−911)は、マロツィアという情婦を持っていた。彼女とその母テオドラ(ローマ元元老院議員の妻)と、その妹は「教皇の椅子を情夫と不義の子で満たし、教皇の宮廷を盗賊の巣窟とした」これは歴史上「売淫政治」あるいは、「売淫婦の統治」として知られている。

 

ヨハネス12世955−963は、マロツィアの孫にあたり、「あらゆる罪を犯した。地位の高低を問わず、処女、未亡人を犯し、父の情婦と同棲し、教皇宮廷を売淫の宿とした。」

 

ポファチウス7世(984−985)は「血と汚れに染まった悪の化身、神の宮に座したキリストの敵」と呼ばれた。

 

ベネディクトウス8世(1012−24)は白昼堂々と賄賂を使って教皇の位を買い取った。この事は「聖職売買」と呼ばれた。

 

ベネディクトウス9世(1033−45)、 「彼は罪悪においては、ヨハネス12世に劣らず、白昼、殺人や姦淫を行い、殉教者の墓に来る巡礼者より盗み・・・人々は彼をローマより追放した。」

 

クレメンス2世(1046−47)は、ドイツ皇帝ハインリッヒ3世から「聖職売買や私通の罪に汚れてないローマの聖職者が他に一人もいない」との理由から任命された。

 

 

なんとも凄まじい。生まれ変わっていない人物が「教会」の指導者になるとは何と恐ろしいことか。「霊的」な事をわきまえない人が「指導者」という「権威」を持ってしまっている。

当然、サタンはそれを利用する。そして、これは中世の話だけではない。プロテスタントというカテゴリーに入っていても、このドイツ国教会のような堕落がすでに始まっている。牧師が公務員なら、御霊を持たない牧師がいても不思議ではない。かの有名な○○神学校出ているという、「この世の資格」だけで、地位を得てしまうのだろう。そのうち、「福音派」と呼ばれる教会にも悪は浸透してくるだろう。「富」と「権威」は常に誘惑の手を差し伸べている。ラオデキア教会のように、教会堂は建っていても、キリストは戸の外に立っている(つまりキリストを追い出している)教会が増えてくるのだ。(黙示録3:20)

 

大淫婦の誘惑

以前にも述べたが、リベラル教会のネットワーク「世界教会協議会」(WCC) にクリスチャン全体の24%が加盟している(会員数5億6千万人)。準会員であるカトリック(全体の52%)を入れれば、クリスチャンと呼ばれる群れの76%がこれに該当することになる。世界のキリスト教会の7割以上が聖書からずれ始めている。WCCの宣教学では、キリスト教宣教の目的は宣教地の人々の「肉の必要」を満たす事であり、他宗教の人々を改宗させてはいけないというのだ。それは地元の宗教・文化に対して無礼なことと考えられている。宗教多元主義の流れの中で、「教会」もそれを支持する方向に動いている。大淫婦(黙示録17:3−6)の誘惑は「すでに」始まっている。

 

       人は皆生まれながら神の子。悔い改めは必要ない。単に気づけばいい。

       諸宗教の目指すところは同じ真理、同じ神。キリストのみを掲げるのは高慢。

       「罪」はない。「過ち」だ。

       地獄はない。結局、すべての人は救われるという万人救済論。

       新しい倫理観:婚前交渉、離婚、不倫、同性愛 それらは、 単にライフスタイルの問題。罪じゃない。

       自分の欲望のために「超能力、魔術、麻薬」(実は悪霊の力)などを使う。物質的豊かさと派手な生活。「金だけ、今だけ、自分だけ」思想。刹那的快楽主義

 

この偽りの「教会」(大淫婦)が、真の教会(エクレシア=イエスを証しする者の群れ)を迫害するようになる。

 

私は、この女が聖徒たちの血と、イエスの証人たちの血に酔っているのを見た。

(黙示17:6)

聖書は明言している。

 

もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

                              (ローマ8:9)

 

神のうちにいる者は「イエスが神の御子」であることを告白する。(ヨハネ4:16)

キリストを告白しない霊は「反キリスト」の霊なのだ。そして、その霊はすでに働いている。(ヨハネ4:3)信者は真理の御霊を頂いている。(ヨハネ14:16−17)しっかり偽りを見極めていきたいものだ。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年1月25日木曜日

主の霊が激しく下った!?


同じ聖霊の働きでも、旧約と新約では大きく違うのです。旧約での聖霊の働きをサムソンの例で見てみましょう。

 

それは物理的な力

主の霊は、ツォルアとエシュタオルの間の、マハネ・ダンで彼(サムソン)を揺り動かし始めた。                    (士師記14:25)

 

自分も若い頃、このように主の霊に揺り動かされたい。聖霊に振り回されたい。そのように主のために活躍したいと願ったことがあります。しかし、今は、それは違うのかなと思っています。

 

このとき、主の霊が激しく彼の上に下ったので、彼はまるで子やぎを引き裂くように、何も手に持たず獅子を引き裂いた。(士師記14:6)

 

旧約時代、主の霊はある仕事させるために一時的に下ったようです。新約時代には御霊は信者のうちに住み込みます。そして継続的な働きをします。このサムソンの場合、主の霊が下った結果、やったことは獅子を引き裂くことでした。あまり周りの人の祝福になるようなことではないですね。単に物理的な力だけです。

このような物理的な力は、その後も、ロバの顎の骨で千人を打ち殺したり(15:15)、町の門を担いて山の頂まで持って行ったり、(16:3)、ダゴンの神殿の柱を押し曲げ、神殿を崩壊させたり(17:30)・・ま、破壊的なもので、必ずしも建徳的とは言えません。


 

新約では聖霊が下った結果は宣教の拡大でした。(使徒1:8)福音を語る力となったのです。それは多くの人の益となり祝福になりました。

 

それは内なる性質に無関係

旧約では、その人のキャラクターに関係なく、一方的に神の霊が下り、その人をコントロールしたということです。新約では御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、誠実、柔和、自制ですね。(ガラテヤ5:22−23)ところがサムソンにはそのような性質はありません。宿敵ペリシテ人の女を好きになり、結婚したがります。それは愛ではなく、単なる欲望だったでしょう。また結婚式場で一悶着あったのですが、そこから帰宅するサムソンは喜び、平安、寛容どころか、フィアンセが裏切ったことで怒りに燃えていました。

 

怒りに燃えて父の家に帰った。サムソンの妻は、彼に付き添った客の一人のものとなった。(14:19−20)

 

しかも、親の反対を押し切りあれほど結婚したがった女性を置いて家に帰ってしまったのです。その程度の愛だったのです。また、この後、ガザの遊女と関係を持っています(16:1)。性的に自由奔放だったようです。そのようにサムソンはとても御霊に満たされた性質を持っていたとは思えません。それだけに、神が上からの圧力でコントロールする必要があったのかも知れません。何せ、これでも当時のイスラエルを救う「士師」だったのですから。(15:20)教会学校のヒーロー、サムソンですが、とんでもないキャラでした。このように旧約では神の霊は外部から激しく働きましたが、新約では内住の御霊が内側から働きます。しかも、「キリストの似姿」に変えてくださるという働きです。(II コリント3:18)

 

新約の殉教者

ローマの迫害下、クリスチャンたちは競技場に引き出され獅子と戦わせられました。彼らは迫害下でも信仰を否定しなかった「御霊」に満たされたクリスチャンたちでした。もし、サムソンと同じなら、御霊の力で、獅子を引き裂くこともできたでしょう。しかし、神は、そうなさらなかったのです。彼らは、獅子に引き裂かれるまま死んでいったのです。十字架の上で火破りにされた子供たちは賛美を歌いながら死んでいったというのです。彼らは一見、敗北者のようで、勝利者でした。「この世」と「死」に打ち勝っていたのです。彼らは「革命」や「暴力」で政府を転覆することをしませんでした。「再臨」と「復活」の信仰を持って待ち望んでいたのです。これこそ新約時代(十字架以降、聖霊降臨以降)のクリスチャンの強さだったのです。

 

クリスチャンの大会で「聖霊よ、激しく今、私に下ってください!」と祈る人もいます。しかし、一時的な興奮を体験するより、すでに内側に住んでおられる御霊を認識し、感謝し、日々の生活の中で淡々と御霊の実を実らせ、再臨と復活の信仰に生きることの方が大事なのではないでしょうか。初代のクリスチャンたちは「マラナタ」(主よ、来てください)と言葉を交わし、待ち望んでいたのです。サムソンのような激情や、物理的な力だけで地上天国をもたらすことはできません。今日、「やったら、やり返す」の戦争があちこちで行われています。真の平和は「平和の君」キリストの来臨までありません。

 

み言葉はこう語っています。

 

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、

 

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」

 

という一つのことばで全うされるのです。気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。私は言います。

 

御霊によって歩みなさい。

 

そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。

 

肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。

 

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

(ガラテヤ5:13−24)

 

サムソンは「肉」(自分の判断や欲望)で生きていましたが、御霊が上から(外部から)コントロールしたのです。しかし、新約時代には御霊は内に住み、実を結び、その人の内側から他の人の祝福のため影響を与えるのです。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年1月18日木曜日

キリスト教は難しい?

 

本質はトンデモ話

キリスト教と聞くと、十字架のついた三角屋根の会堂。黒い服を着た神父さん、あるいは、バチカンやローマ法皇、ミケランジェロの絵画などを思い浮かべるかも知れません。しかし、それらはいわば「外観」であって、中身「本質」ではありません。また、教会で説教を聞いても、「分からない」、「ピンとこない」「別世界の話のようだ」と思われるかも知れません。キリスト教は難しい?それは、はっきり言ってキリスト教の本質は「とんでも話」にあるからです。

 

1.      キリストは私たちの罪のために十字架で死んだ。

2.      墓に葬られ3日目によみがえって弟子たちに顕れた。

3.      その後、天に昇り、再び、地上に来られ悪を裁き、自ら王として全世界を治める。

 

これが中心的なメッセージです。日常生活をしている一般の常識人から見ると異次元の話でしょうね。多分、こう思うでしょう。

 

1.      なぜ、2000年前に十字架で死んだ人が俺の罪を贖えるのか?

2.      現代の常識で、墓に入った人が蘇るのか?バカバカしい。

3.      再び、天から来られる? SFの読みすぎでしょう。もうついていけない。

 

ところがイエスを救い主として信じる時、この3つのポイントに関して「アーメン!」と言えるようになるのです。だから、キリストを信じることは聖霊の御業なのです。フツーは起こり得ないのです。以前は、偶像に仕え、キリストが天から来られるなど夢にも思ったことのないテサロニケの人々は、変えられたのです。

 

また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。テサロニケ1:9−10)

 

つまり、教育や常識の延長線上では起こり得ないことが起こるのです。イエス御自身、これを「生まれ変わり」と表現なさいました。

 

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

 

だから、いくら勉強してもキリスト教の本質にはたどり着けません。信じて、御霊を頂いて、初めて聖書の内容が理解できるようになるのです。「信じる」ことによって生まれ変わらない限り聖書は永遠に謎のままでしょう。

 

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。コリント2:14)

 

 

聖書の世界観、歴史観

聖書を理解するには、聖書の世界観、歴史観を受け入れなければなりません。

聖書は「霊」の世界を是認します。聖書が言う「霊」の世界を認めないと、キリスト教の本質は理解できないのです。今の科学では、全ては物質に還元できるという「還元主義」が主流であり、「心」「や「意識」と言われるもでさえ「物質」である脳の働きにしか過ぎないという主張です。一方、聖書は語ります。

 

神は「霊」なのです。(ヨハネ4:24)聖書は霊的存在すなわち、神に使える御使い達、御使の反乱軍である「悪霊たち」、そのリーダーの「サタン」の存在を認めます。

 

霊なる神は、この物質世界を創造しました。聖書を読むには、この物質世界と霊的な世界の2面性があり、その2つは互いに影響し合っていることを前提にして読む必要があります。また、人間も同じで物質である肉体の他に「霊」と「魂」を持っています。ですから、キリスト教の救いは、詳細には「霊」「魂」「体」の救いの事を言っています。

 

歴史観としては、輪廻のような循環史観ではなく、はじめに神が天と地を創造し、人を創造し、しかし、人の罪ゆえに、死が入り、世界が呪われた。しかし、神は救い主を送って、十字架で宇宙の贖いを成し、再臨時に悪は滅ぼされ、キリストご自身が王として世界を治め、事は成就するというリニアル(ストーリーの初めがあり、終わりがあるドラマ)な史観であり、単に人類の終焉が来るという悲観論ではなく、再臨ゆえに希望に満ちた楽観論的史観となっているのです。「ハルマゲドン」がよく、第三次世界大戦や、人類終焉のシンボルとして引用されますが、聖書的には再臨のキリストが反キリスト勢力(悪)を滅ぼす喜ばしい出来事なのです。

 

善と悪に関しては、「光の国=神の国」と「闇の国=サタンの国」の対比と考えます。今はその2つが勢力を広げ合っています。いわば「霊の戦い」が起こっています。そこの対比は現在でも、神なき「この世」と、キリスト中心の「エクレシア(キリストを信じるものの群れ)」に見られます。

 

将来的には「獣の国=反キリスト世界帝国」と「千年王国=キリストが統治する世界」の対比が役に立ちます。黙示録に出てくる「獣」とは反キリストのことであり、いわば人となったサタンです。その悪の帝国がキリストの再臨によって滅ぼされた後に来るのが、対照的な「千年王国」です。ここでは人となった神、キリストが世界を治めるのです。逆に言えば、平和の君(Prince of Peace)である、キリストが世界を統治するまでは、真の世界平和は無いのです。

 

聖書の中心テーマ〜神の国の到来

聖書を単に道徳の本と考えると理解できなくなります。むしろ「光の国」と「闇の国」の対立のドラマです。この2つの国の特徴を対比してみましょう。

 

獣の国

⚫️ サタンのバックアップによって権力者となった「獣」が世界の支配者

⚫️ 世界は闇に覆われている。(不安と恐怖の象徴)

⚫️ あらゆる反キリスト的(悪魔的)価値観に満ちている。物質主義、快楽主義

  人権侵害、搾取、不正、抑圧、恐怖による支配など。

⚫️ 一部のエリートのために人が搾取され、使われる。

 

神の国   千年王国〜新天新地

⚫️ 神ご自身であるキリストが統治

⚫️ 光(神のご臨在)が世界を覆う  夜がない。

⚫️ 御霊の実に満ちる世界:愛、喜び、平安、寛容、誠実、親切、善意、誠実、

柔和、自制。

⚫️ 全ての人が生かされる。大切にされる。

 

「獣の国」の特徴は、今日すでに現れています。すでに始まっています。もちろん、結論は「神の国の到来」であり、ハッピーエンドです。偽りの王に蹂躙された王国に、真の王が戻ってくるというストーリーです。

 

聖書の中心人物、メシア

このハッピーエンドをもたらす主人公がメシア(キリスト=救い主)です。一般的にはキリストは4大聖人の一人とか、キリスト教という「宗教」の創始者だと思われています。しかし、ヘブル思想では「メシア」は、イスラエルを回復する政治的解放者です。「思い改め」が必要です。ヘブル思想は「天国待ち」思想ではなく、非常に地上的です。メシアは基本的に、この地上に王国をもたらす政治的な存在です。新約聖書ではキリストは「子羊」のイメージとして描かれていますが、実は新約でも政治的な存在であることは変わっていないのです。

 

それらの王たちは一つ思いとなり、自分たちの力と権威をその獣に委ねます。彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。(黙示録17:13−14)

 

終わりの時代に諸国の王が獣(反キリストなる人物)に権威を委ね、従うとあります。そして、子羊=キリストに戦いを挑むのです。しかし、子羊は勝利します。なぜなら、子羊は「主の主」、「王の王」だからです。この「主」とか「王」は宗教的な意味ではなく、文字通り政治的な王のことです。諸国の王の上に君臨する王という意味です。

 

黙示録ではキリストは「地上の王たちの支配者」(黙示1:5)と描写されています。また「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」(黙示録11:15)このようにわざわざ「地上の王」とか「この世の王国」と書いてあり、「天」の話ではなく、この「地上」の「この世」の話であることを強調しています。ヘブル的なメシア観が引き継がれています。ですからキリストを単なる教祖として「宗教世界」に閉じ込めてしまう訳にはいかないのです。ここを理解できないと聖書は理解できないのです。

 

聖書には「預言」が書かれており、地上の歴史と連動しています。聖書は古い書物ですが、聖書の内容はまだ終わっていないのです。世界統一宗教や世界統一政府によるデジタル管理社会のことも書かれています。繰り返し言いますが、聖書は単なる宗教・道徳・倫理の本ではないのです。

 

トンデモ話と言えば、そうでしょうが、「はじめに神が天と地を創造した。」(創世記1:1)という大前提を受け入れるなら、あり得る話となるのです。神が始めたドラマを神が終結します。

 

未信者に対しては誤解を招く用語は、正しく説明する必要があります。しかし、「分かり易く」を強調するあまり、トンデモ話(奇跡、霊の世界)を省いてしまうと本質を失い、単なる道徳・倫理になり、パワーを失います。福音は人生を変革する「力」です。キリストの十字架と復活を語らないと「福音」は伝わりません。

 

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

II コリント5:17)

 

クリスチャンになるとは教会員名簿に載ることではなく、新創造です。

 

大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)

 

本質は、今も生きておられるキリストに出会うことです。それこそが永遠の命です。

 

永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを(体験的に)知ることです。(ヨハネ17:3)


 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年1月11日木曜日

キリストは「ズレ人」を救うために来られた


ズレていると気持ち悪い

相手のネクタイがズレていると気になりませんか?ベルトの位置が中央でなく、左右にズレていても変ですね。高級料理屋に行って、お膳の上のお箸が斜めに置かれていたら気持ち悪くないですか?自分は几帳面なのか、デスクの上に置いてある本やペンが斜めだと気になって仕方ありません。まっすぐにしてから仕事に取り掛かります。

 

日本のビリーグラハムと言われた大衆説教者の本田弘慈師は、説教位置から見える「生け花」の位置がズレていると気になって説教に集中できないので、直させたという話を聞いたことがあります。

 

いつもの場所に鍵や財布がないと焦ります。あるべきモノが、あるべき場所に無いと、気持ち悪いですね。ズレることで楽しいのはスイカ割りくらいでしょう。

 

ズレていると問題が起きる

メガネがズレていると良く見えません。今はAIがありますが、一昔前だと写真のピントがズレているとボケ写真になり、せっかく恋人と撮った貴重な写真が台無しになります。時計の針が1時間ずれて遅れているとしたらどうでしょうか?学校や会社に遅刻して大変なことになります。それが1年に一度の入試試験の日なら、さらに悲惨です。家を建てる設計図の図面の線がズレていたとしたら、「こんな家を建てるはずじゃなかった!」ということになります。

 

ズレていると危険

時計の針ならまだしも、注射の針がずれていたら危険ですね。電車が線路からズレていれば脱線事故になります。高速道路を走っている車が、居眠り運転で車線をズレていれば、大事故につながります。ズレることは命に関わります。

 

「罪」とは「的ハズレ」

何でこんな話をしているかと言えば、聖書で言う罪、ギリシア語のハマルティアは「的外れ」すなわち、「ズレていること」なのです。よく未信者の方が「キリスト教は人を罪人呼ばわりする。別に銀行強盗やったり、人殺しをしてる訳でもないのに、罪人と呼ぶのはけしからん」と。あるいは、無差別殺人事件が起こると「何の罪もない人が事件に巻き込まれて殺された。なんと悲惨なことか・・」と言います。この「罪」という翻訳が誤解を招くのです。本来は「的外れ=ズレ」のことです。だから「罪人」というより、本来の意味的には「ズレ人」です。何がズレているのでしょう。神との関係においてズレているのです。あるべき位置、または関係にないのです。それは「不快な、気持ち悪い立ち位置」です。少なくも神の側から見たらそうなのです。ご自分が造った作品にそっぽを向かれている訳ですから。また「問題を起こす」または、「命にさえ関わる危険な立ち位置」であるということです。少なくとも創造主である神の目には、人の姿は、そう映っているのです。神の前にはすべての人が「ズレ人」なのです。だから、「そのままでは危ないぞ」と警告を告げておられるのです。ズレを指摘するのは、創造主が人(神の傑作品)を愛しておられるからです。幸せになって欲しいのです。破滅して欲しくないのです。

 

ズレの基準値

しかし、どうやってズレていることが分かるのでしょう。アーチェリーでは的があるので、そこを外れるとハマルティア(的外れ)となるのです。道路には中分離帯があり、ズレて対向車の車線に入らないようになっています。ズレを確認するには基準が必要です。

 

平衡感覚に問題がある人はまっすぐに歩いていると思っていてもズレていきます。そして「俺はズレてない!」と主張するかも知れません。しかし、まっすぐな線の上を歩かされたらズレていく自分が分かります。自分の基準は当てにならないのです。運転している人たちが、各人「これでいいのだ!」と基準を主張すれば、たちまち大混乱、交通事故でしょうね。そこで警視庁が作った客観的な基準と、それを明示した標識が必要になります。宇宙の創造主である神は聖書にそれを明示されました。人が歩むべき基準です。律法とも言います。ところがこの基準に照らされると人は皆、ズレ人であり、創造主の基準に達していないことが明白になったのです。

 

すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・

                (ローマ3:23)

 

つまり、すべての運転手は神の立てた標識の基準通りに運転できず、違反者であり、そのままでは「合格」とはみなされないということです。さらに深刻なのはズレの結果が「死」であるということです。

 

罪からくる報酬は死です。(ローマ6:23)

 

時速40キロ制限の曲がり角を80キロで飛ばしていれば、曲がりきれずにガードレールを飛び越して崖から落ちて死んでしまうでしょう。

 

キリストはズレ人を救うために来られた

問題は自分では、このシリアスなズレを解決できないということです。ひっくり返ったカメが自分の努力では元通りになれないように、この問題を解決するには他者の手が必要です。そこで創造主は、神の子、救い主キリストを地上に送り、この解決にあたりました。

 

キリスト・イエスはズレ人(罪人)を救うためにこの世に来られた。

                (テモテ1:15)

 

救いは道徳で達成するのではありません。「生まれ変わり」によります。キリストを信じる時に御霊(神の霊)が与えられます。自分が運転席に座っている限り、死ぬのです。しかし、御霊に運転席(自分のコントロールセンター)に座って頂くと、正しい道に導かれ、助かり生きるのです。

 

もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行い(自分の判断による自己努力)を殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊によって導かれる人は、だれでも神の子どもです。

(ローマ8:13−14)

 

王道に戻るメリット

太陽がさんさんと輝く道を「王道」と呼びましょう。神との正しい関係に入った人の歩みです。仲間と一緒にレースを走ります。(ヘブル12:1)この「王道」は明るく、先にある目的地(御国)が見えます。太陽の日差しで暖かいです。(ローマ5:5、コロサイ1:13)しかし、そこからズレて、脇道のビルの影に入っている人はどうでしょうか?そこは暗く、まっすぐな道が見えません。目的地が見えません。いや自分の位置さえ確認できません。そして日が差さず、寒いです。孤独です。「太陽なんかどこにあるのか!」と文句を言っているかも知れません。ビルの影にいる限り太陽は見えません。「王道」を仲間と歩いている人たちがビルの影にいる人を探して、手を差し伸べます。「こっちに来れば明るいよ、暖かいよ、一緒に王道を歩こうよ」と。ある人は「太陽なんかあるもんか、俺はアンタの言うことは信じない」と言うでしょう。ある人は「信じて」一歩を踏み出し、「王道」に戻ります。彼は言うでしょう「ああよかった、感謝です!」。あなたはどちらになりたいですか?先程の聖句には続きがあります。

 

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

 

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2024年1月4日木曜日

日本の霊的指導者

霊的国防

映画「帝都大戦」は、太平洋戦争末期、日本はもう軍事的力は尽きて降伏するしか選択肢の無い中、「日本の霊的指導者」なる僧侶が、日本の「霊的武装」をし、「霊的国防」をする(聞こえはいいが、敵国の指導者を呪い殺すというもの)という、まあ滑稽なB級カルト映画です。しかし、この「日本の霊的指導者」、「霊的武装」、「霊的国防」という言葉が妙に、心に残りました。今、日本の「霊的指導者」と言える人がいるでしょうか?「霊的国防」という考えをする人がい流でしょうか?

 

そして、思いを馳せたのは日蓮です。日蓮は「立正安国論」なる書を執筆し、文応元年7月16日に時の最高権力者、北条時頼に提出しています。当時は自然災害や外国からの襲来という日本の危機の中にありました。「立正安国論」とは「正しい教えによって安心安全な国を作る」という意味です。まあ、彼の主張は当時、流行っていた浄土宗という邪教ではなく、真のブッダの教えである「蓮華経」に帰依することにより政治的、宗教的混乱を鎮め、結果、自然災害や外国からの襲来から日本国が守られるというものでした。一僧侶が時の政府に、これを提出したのです。内容はともかく「日本の霊的指導者」ですね。間違ってはいますが、「霊的」に正すことが国の安定につながるという思想は、一理あるのではないでしょうか?

 

ちなみに、日本では、天皇は単なる「象徴」ではなく、現在も神事を司る国家的祭司の役割を果たしています。詳しくは宮内庁のこちらのページを。

 

https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html




 旧約の預言者〜国家レベルのメッセージ

日蓮に比較されるのが旧約のアモスです。彼は南朝ユダの牧者であり、職業的な預言者集団に属する預言者では無かったのですが、神に直接召されて北朝イスラエルで預言活動をしました。当時の社会は公義と正義が捨てられ(アモス5:7、6:12)、罪なき者の訴えも聞かれず(5:10)、賄賂が公然と要求され(5:12)暴虐に満ちていたのです(6:3)。アモスは、特に裕福な貴族階級を弾劾し、神に誠実に向かわなければ、イスラエルが敵の攻撃を受け、(6:14)、捕囚の運命にあることさえも訴えるのです。(4:23)神が災いを下されるのは、民が悔い改めて神に立ち返るためであり(4章)、民が神を求めるようになるためであり、それにより社会的にも癒され回復される(5:14−15)と語ったのです。

 

このように預言者は神に遣わされ、国家レベルの裁き、回復のメッセージを語っていたのです。また、ご存知のように、エリヤは悪王アハブに直接対峙しましたね。権力者に物申していたのです。エレミヤやミカは真実を語ったために権力者に迫害されました。しかし、長いモノに巻かれなかったのです。イエスご自身も当時の権力者であった祭司長、律法学者、ローマの総督などにも、怯まずに真実を、そしてやがてやってくる国の運命を語ったのです。

 

日本にもいた預言者〜内村鑑三

クリスチャンでない人でも、内村鑑三という名前は知っていますね。当時、「不敬事件」が一般紙に載り話題となったこともあるのでしょうが、単に聖書の講解だけではなく、当時の社会に対して預言者的発言をしていたのです。つまり、社会にインパクトを与えていた訳ですね。「キリスト者の戦争論」というブックレットはバルトと内村の「非戦論」を中心にディスカッションが進んでいきます。その中で「非戦論」の著者で文芸評論家の富岡幸一郎氏は、このように語っています。

 

「一般社会への発言ということでは、内村には確かに預言者的な部分があると思います。彼は晩年にオバデヤ書の講解をしつつ、豊かで資源があったエドムが滅びた理由を神への高慢としつつ、それを近代日本と重ね合わせています。日本がアジアへと勢力を拡大してゆく時代ですね。預言者というのは外に向かって語るわけで、教会は一般社会に対して語る言葉を持っているはずですし、またそれは求められていると思います。」(p.60

 

み言葉による「立正安国」

戦後、経済は発展し、技術は発達し、便利さのスピードは増大していますが、「幸せ度」はどうなんでしょうか。今、日本には「国家的」ビジョンがあるでしょうか?「これだ!」と言えるビジョンのないことが、若者の「国家」への期待や希望の低さ、また自殺率の高さに関係しているのではないでしょうか?政治家が自分の保身ばかりを気にしているなら、国は滅ぶでしょう。幻の無い民は滅ぶのです。経済や軍事力以外の面、すなわち「霊的」な分野で導いていく国家的な「霊的指導者」が必要なのではないでしょうか?

 

シナイ山でのイスラエル人は霊的指導者モーセの姿が見えなくなると堕落し、金の子牛礼拝に陥ったのです。カナン占領の際、あれほど神への忠実を誓ったイスラエルの民も、指導者ヨシュアや長老が死ぬと一気に堕落し、偶像礼拝に染まっていったのです。(ヨシュア24:31)「神の民」イスラエルでさえ、そうだったのです。

 

士師記では、民が神を離れ偶像礼拝に陥ると、隣国の敵が攻め入ってきました。そして苦痛の只中で神に叫ぶと、神が士師(霊的リーダー)を送り、士師によって外敵を倒し、民の平安を取り戻したのです。このパターンがなん度も出てきます。

 

つまり、国家の安全、安定と創造主なる神との関係(霊的分野での健全性)が大いに関係していたわけです。

 

わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。( II 歴代7:14)

 

21世紀、神がいないのが当たり前の世界で、そして、この日本で霊的側面を話すのは馬鹿らしいと卑下されるかも知れません。しかし、聖書的のメインメッセージは、キリストが諸国の王として戻ってこられ、この地を治めるのというものです。

 

「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。」

                         (黙示録11:15)

 

そうであれば、創造主なる神・キリストとの関係において「霊的武装」、「霊的国防」は意味を持ってきます。日蓮じゃないですが、創造主を離れているがゆえに、大患難時代の災害はやってくるのです。人が真の神を離れ、「獣」(経済・軍事・快楽に至上の価値を置く支配者)に従うから大災害に遭うのです。

 

真の意味で国を「霊的」に整えること、真の聖書の「教え」に立って、国の安全をもたらすことを考える必要があるのではないでしょうか?

 

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参考本


「キリスト者の戦争論」 岡山英雄 富岡幸一郎 地引網新書

 

「4世紀のコンスタンティン体制以降のキリスト教の意味を問わざるを得ません。それ以前は、国家によって迫害される立場であり、無抵抗、非暴力の「非戦」の立場を貫いていました。それが4世紀に大きく転換して「義戦論」がでてきたわけです。」(岡山氏 P.25)「戦争を肯定する『義戦論』は、4世紀にアウグスティヌスによって主張され、現代まで続いていますが、その極端なものが米国のキリスト教原理主義の戦争観では無いでしょうか。」(岡山氏 P.26


「コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認し、後に国教にまでなりますが、結局は滅亡してしまいます。地上の国家がたとえ自らを『キリスト教国家』と呼んでいたとしても、経済力と軍事力を至上の価値とするなら、それは神に背く行為であり、やがて滅亡してゆくということを示しています。(岡山氏P.43

 

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執筆者:栗原一芳