ズレていると気持ち悪い
相手のネクタイがズレていると気になりませんか?ベルトの位置が中央でなく、左右にズレていても変ですね。高級料理屋に行って、お膳の上のお箸が斜めに置かれていたら気持ち悪くないですか?自分は几帳面なのか、デスクの上に置いてある本やペンが斜めだと気になって仕方ありません。まっすぐにしてから仕事に取り掛かります。
日本のビリーグラハムと言われた大衆説教者の本田弘慈師は、説教位置から見える「生け花」の位置がズレていると気になって説教に集中できないので、直させたという話を聞いたことがあります。
いつもの場所に鍵や財布がないと焦ります。あるべきモノが、あるべき場所に無いと、気持ち悪いですね。ズレることで楽しいのはスイカ割りくらいでしょう。
ズレていると問題が起きる
メガネがズレていると良く見えません。今はAIがありますが、一昔前だと写真のピントがズレているとボケ写真になり、せっかく恋人と撮った貴重な写真が台無しになります。時計の針が1時間ずれて遅れているとしたらどうでしょうか?学校や会社に遅刻して大変なことになります。それが1年に一度の入試試験の日なら、さらに悲惨です。家を建てる設計図の図面の線がズレていたとしたら、「こんな家を建てるはずじゃなかった!」ということになります。
ズレていると危険
時計の針ならまだしも、注射の針がずれていたら危険ですね。電車が線路からズレていれば脱線事故になります。高速道路を走っている車が、居眠り運転で車線をズレていれば、大事故につながります。ズレることは命に関わります。
「罪」とは「的ハズレ」
何でこんな話をしているかと言えば、聖書で言う罪、ギリシア語のハマルティアは「的外れ」すなわち、「ズレていること」なのです。よく未信者の方が「キリスト教は人を罪人呼ばわりする。別に銀行強盗やったり、人殺しをしてる訳でもないのに、罪人と呼ぶのはけしからん」と。あるいは、無差別殺人事件が起こると「何の罪もない人が事件に巻き込まれて殺された。なんと悲惨なことか・・」と言います。この「罪」という翻訳が誤解を招くのです。本来は「的外れ=ズレ」のことです。だから「罪人」というより、本来の意味的には「ズレ人」です。何がズレているのでしょう。神との関係においてズレているのです。あるべき位置、または関係にないのです。それは「不快な、気持ち悪い立ち位置」です。少なくも神の側から見たらそうなのです。ご自分が造った作品にそっぽを向かれている訳ですから。また「問題を起こす」または、「命にさえ関わる危険な立ち位置」であるということです。少なくとも創造主である神の目には、人の姿は、そう映っているのです。神の前にはすべての人が「ズレ人」なのです。だから、「そのままでは危ないぞ」と警告を告げておられるのです。ズレを指摘するのは、創造主が人(神の傑作品)を愛しておられるからです。幸せになって欲しいのです。破滅して欲しくないのです。
ズレの基準値
しかし、どうやってズレていることが分かるのでしょう。アーチェリーでは的があるので、そこを外れるとハマルティア(的外れ)となるのです。道路には中分離帯があり、ズレて対向車の車線に入らないようになっています。ズレを確認するには基準が必要です。
平衡感覚に問題がある人はまっすぐに歩いていると思っていてもズレていきます。そして「俺はズレてない!」と主張するかも知れません。しかし、まっすぐな線の上を歩かされたらズレていく自分が分かります。自分の基準は当てにならないのです。運転している人たちが、各人「これでいいのだ!」と基準を主張すれば、たちまち大混乱、交通事故でしょうね。そこで警視庁が作った客観的な基準と、それを明示した標識が必要になります。宇宙の創造主である神は聖書にそれを明示されました。人が歩むべき基準です。律法とも言います。ところがこの基準に照らされると人は皆、ズレ人であり、創造主の基準に達していないことが明白になったのです。
すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・
(ローマ3:23)
つまり、すべての運転手は神の立てた標識の基準通りに運転できず、違反者であり、そのままでは「合格」とはみなされないということです。さらに深刻なのはズレの結果が「死」であるということです。
罪からくる報酬は死です。(ローマ6:23)
時速40キロ制限の曲がり角を80キロで飛ばしていれば、曲がりきれずにガードレールを飛び越して崖から落ちて死んでしまうでしょう。
キリストはズレ人を救うために来られた
問題は自分では、このシリアスなズレを解決できないということです。ひっくり返ったカメが自分の努力では元通りになれないように、この問題を解決するには他者の手が必要です。そこで創造主は、神の子、救い主キリストを地上に送り、この解決にあたりました。
キリスト・イエスはズレ人(罪人)を救うためにこの世に来られた。
(I テモテ1:15)
救いは道徳で達成するのではありません。「生まれ変わり」によります。キリストを信じる時に御霊(神の霊)が与えられます。自分が運転席に座っている限り、死ぬのです。しかし、御霊に運転席(自分のコントロールセンター)に座って頂くと、正しい道に導かれ、助かり生きるのです。
もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行い(自分の判断による自己努力)を殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊によって導かれる人は、だれでも神の子どもです。
(ローマ8:13−14)
王道に戻るメリット
太陽がさんさんと輝く道を「王道」と呼びましょう。神との正しい関係に入った人の歩みです。仲間と一緒にレースを走ります。(ヘブル12:1)この「王道」は明るく、先にある目的地(御国)が見えます。太陽の日差しで暖かいです。(ローマ5:5、コロサイ1:13)しかし、そこからズレて、脇道のビルの影に入っている人はどうでしょうか?そこは暗く、まっすぐな道が見えません。目的地が見えません。いや自分の位置さえ確認できません。そして日が差さず、寒いです。孤独です。「太陽なんかどこにあるのか!」と文句を言っているかも知れません。ビルの影にいる限り太陽は見えません。「王道」を仲間と歩いている人たちがビルの影にいる人を探して、手を差し伸べます。「こっちに来れば明るいよ、暖かいよ、一緒に王道を歩こうよ」と。ある人は「太陽なんかあるもんか、俺はアンタの言うことは信じない」と言うでしょう。ある人は「信じて」一歩を踏み出し、「王道」に戻ります。彼は言うでしょう「ああよかった、感謝です!」。あなたはどちらになりたいですか?先程の聖句には続きがあります。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
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執筆者:栗原一芳
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