2024年1月25日木曜日

主の霊が激しく下った!?


同じ聖霊の働きでも、旧約と新約では大きく違うのです。旧約での聖霊の働きをサムソンの例で見てみましょう。

 

それは物理的な力

主の霊は、ツォルアとエシュタオルの間の、マハネ・ダンで彼(サムソン)を揺り動かし始めた。                    (士師記14:25)

 

自分も若い頃、このように主の霊に揺り動かされたい。聖霊に振り回されたい。そのように主のために活躍したいと願ったことがあります。しかし、今は、それは違うのかなと思っています。

 

このとき、主の霊が激しく彼の上に下ったので、彼はまるで子やぎを引き裂くように、何も手に持たず獅子を引き裂いた。(士師記14:6)

 

旧約時代、主の霊はある仕事させるために一時的に下ったようです。新約時代には御霊は信者のうちに住み込みます。そして継続的な働きをします。このサムソンの場合、主の霊が下った結果、やったことは獅子を引き裂くことでした。あまり周りの人の祝福になるようなことではないですね。単に物理的な力だけです。

このような物理的な力は、その後も、ロバの顎の骨で千人を打ち殺したり(15:15)、町の門を担いて山の頂まで持って行ったり、(16:3)、ダゴンの神殿の柱を押し曲げ、神殿を崩壊させたり(17:30)・・ま、破壊的なもので、必ずしも建徳的とは言えません。


 

新約では聖霊が下った結果は宣教の拡大でした。(使徒1:8)福音を語る力となったのです。それは多くの人の益となり祝福になりました。

 

それは内なる性質に無関係

旧約では、その人のキャラクターに関係なく、一方的に神の霊が下り、その人をコントロールしたということです。新約では御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、誠実、柔和、自制ですね。(ガラテヤ5:22−23)ところがサムソンにはそのような性質はありません。宿敵ペリシテ人の女を好きになり、結婚したがります。それは愛ではなく、単なる欲望だったでしょう。また結婚式場で一悶着あったのですが、そこから帰宅するサムソンは喜び、平安、寛容どころか、フィアンセが裏切ったことで怒りに燃えていました。

 

怒りに燃えて父の家に帰った。サムソンの妻は、彼に付き添った客の一人のものとなった。(14:19−20)

 

しかも、親の反対を押し切りあれほど結婚したがった女性を置いて家に帰ってしまったのです。その程度の愛だったのです。また、この後、ガザの遊女と関係を持っています(16:1)。性的に自由奔放だったようです。そのようにサムソンはとても御霊に満たされた性質を持っていたとは思えません。それだけに、神が上からの圧力でコントロールする必要があったのかも知れません。何せ、これでも当時のイスラエルを救う「士師」だったのですから。(15:20)教会学校のヒーロー、サムソンですが、とんでもないキャラでした。このように旧約では神の霊は外部から激しく働きましたが、新約では内住の御霊が内側から働きます。しかも、「キリストの似姿」に変えてくださるという働きです。(II コリント3:18)

 

新約の殉教者

ローマの迫害下、クリスチャンたちは競技場に引き出され獅子と戦わせられました。彼らは迫害下でも信仰を否定しなかった「御霊」に満たされたクリスチャンたちでした。もし、サムソンと同じなら、御霊の力で、獅子を引き裂くこともできたでしょう。しかし、神は、そうなさらなかったのです。彼らは、獅子に引き裂かれるまま死んでいったのです。十字架の上で火破りにされた子供たちは賛美を歌いながら死んでいったというのです。彼らは一見、敗北者のようで、勝利者でした。「この世」と「死」に打ち勝っていたのです。彼らは「革命」や「暴力」で政府を転覆することをしませんでした。「再臨」と「復活」の信仰を持って待ち望んでいたのです。これこそ新約時代(十字架以降、聖霊降臨以降)のクリスチャンの強さだったのです。

 

クリスチャンの大会で「聖霊よ、激しく今、私に下ってください!」と祈る人もいます。しかし、一時的な興奮を体験するより、すでに内側に住んでおられる御霊を認識し、感謝し、日々の生活の中で淡々と御霊の実を実らせ、再臨と復活の信仰に生きることの方が大事なのではないでしょうか。初代のクリスチャンたちは「マラナタ」(主よ、来てください)と言葉を交わし、待ち望んでいたのです。サムソンのような激情や、物理的な力だけで地上天国をもたらすことはできません。今日、「やったら、やり返す」の戦争があちこちで行われています。真の平和は「平和の君」キリストの来臨までありません。

 

み言葉はこう語っています。

 

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、

 

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」

 

という一つのことばで全うされるのです。気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。私は言います。

 

御霊によって歩みなさい。

 

そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。

 

肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。

 

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

(ガラテヤ5:13−24)

 

サムソンは「肉」(自分の判断や欲望)で生きていましたが、御霊が上から(外部から)コントロールしたのです。しかし、新約時代には御霊は内に住み、実を結び、その人の内側から他の人の祝福のため影響を与えるのです。

 

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執筆者:栗原一芳

 

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