2024年1月4日木曜日

日本の霊的指導者

霊的国防

映画「帝都大戦」は、太平洋戦争末期、日本はもう軍事的力は尽きて降伏するしか選択肢の無い中、「日本の霊的指導者」なる僧侶が、日本の「霊的武装」をし、「霊的国防」をする(聞こえはいいが、敵国の指導者を呪い殺すというもの)という、まあ滑稽なB級カルト映画です。しかし、この「日本の霊的指導者」、「霊的武装」、「霊的国防」という言葉が妙に、心に残りました。今、日本の「霊的指導者」と言える人がいるでしょうか?「霊的国防」という考えをする人がい流でしょうか?

 

そして、思いを馳せたのは日蓮です。日蓮は「立正安国論」なる書を執筆し、文応元年7月16日に時の最高権力者、北条時頼に提出しています。当時は自然災害や外国からの襲来という日本の危機の中にありました。「立正安国論」とは「正しい教えによって安心安全な国を作る」という意味です。まあ、彼の主張は当時、流行っていた浄土宗という邪教ではなく、真のブッダの教えである「蓮華経」に帰依することにより政治的、宗教的混乱を鎮め、結果、自然災害や外国からの襲来から日本国が守られるというものでした。一僧侶が時の政府に、これを提出したのです。内容はともかく「日本の霊的指導者」ですね。間違ってはいますが、「霊的」に正すことが国の安定につながるという思想は、一理あるのではないでしょうか?

 

ちなみに、日本では、天皇は単なる「象徴」ではなく、現在も神事を司る国家的祭司の役割を果たしています。詳しくは宮内庁のこちらのページを。

 

https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html




 旧約の預言者〜国家レベルのメッセージ

日蓮に比較されるのが旧約のアモスです。彼は南朝ユダの牧者であり、職業的な預言者集団に属する預言者では無かったのですが、神に直接召されて北朝イスラエルで預言活動をしました。当時の社会は公義と正義が捨てられ(アモス5:7、6:12)、罪なき者の訴えも聞かれず(5:10)、賄賂が公然と要求され(5:12)暴虐に満ちていたのです(6:3)。アモスは、特に裕福な貴族階級を弾劾し、神に誠実に向かわなければ、イスラエルが敵の攻撃を受け、(6:14)、捕囚の運命にあることさえも訴えるのです。(4:23)神が災いを下されるのは、民が悔い改めて神に立ち返るためであり(4章)、民が神を求めるようになるためであり、それにより社会的にも癒され回復される(5:14−15)と語ったのです。

 

このように預言者は神に遣わされ、国家レベルの裁き、回復のメッセージを語っていたのです。また、ご存知のように、エリヤは悪王アハブに直接対峙しましたね。権力者に物申していたのです。エレミヤやミカは真実を語ったために権力者に迫害されました。しかし、長いモノに巻かれなかったのです。イエスご自身も当時の権力者であった祭司長、律法学者、ローマの総督などにも、怯まずに真実を、そしてやがてやってくる国の運命を語ったのです。

 

日本にもいた預言者〜内村鑑三

クリスチャンでない人でも、内村鑑三という名前は知っていますね。当時、「不敬事件」が一般紙に載り話題となったこともあるのでしょうが、単に聖書の講解だけではなく、当時の社会に対して預言者的発言をしていたのです。つまり、社会にインパクトを与えていた訳ですね。「キリスト者の戦争論」というブックレットはバルトと内村の「非戦論」を中心にディスカッションが進んでいきます。その中で「非戦論」の著者で文芸評論家の富岡幸一郎氏は、このように語っています。

 

「一般社会への発言ということでは、内村には確かに預言者的な部分があると思います。彼は晩年にオバデヤ書の講解をしつつ、豊かで資源があったエドムが滅びた理由を神への高慢としつつ、それを近代日本と重ね合わせています。日本がアジアへと勢力を拡大してゆく時代ですね。預言者というのは外に向かって語るわけで、教会は一般社会に対して語る言葉を持っているはずですし、またそれは求められていると思います。」(p.60

 

み言葉による「立正安国」

戦後、経済は発展し、技術は発達し、便利さのスピードは増大していますが、「幸せ度」はどうなんでしょうか。今、日本には「国家的」ビジョンがあるでしょうか?「これだ!」と言えるビジョンのないことが、若者の「国家」への期待や希望の低さ、また自殺率の高さに関係しているのではないでしょうか?政治家が自分の保身ばかりを気にしているなら、国は滅ぶでしょう。幻の無い民は滅ぶのです。経済や軍事力以外の面、すなわち「霊的」な分野で導いていく国家的な「霊的指導者」が必要なのではないでしょうか?

 

シナイ山でのイスラエル人は霊的指導者モーセの姿が見えなくなると堕落し、金の子牛礼拝に陥ったのです。カナン占領の際、あれほど神への忠実を誓ったイスラエルの民も、指導者ヨシュアや長老が死ぬと一気に堕落し、偶像礼拝に染まっていったのです。(ヨシュア24:31)「神の民」イスラエルでさえ、そうだったのです。

 

士師記では、民が神を離れ偶像礼拝に陥ると、隣国の敵が攻め入ってきました。そして苦痛の只中で神に叫ぶと、神が士師(霊的リーダー)を送り、士師によって外敵を倒し、民の平安を取り戻したのです。このパターンがなん度も出てきます。

 

つまり、国家の安全、安定と創造主なる神との関係(霊的分野での健全性)が大いに関係していたわけです。

 

わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。( II 歴代7:14)

 

21世紀、神がいないのが当たり前の世界で、そして、この日本で霊的側面を話すのは馬鹿らしいと卑下されるかも知れません。しかし、聖書的のメインメッセージは、キリストが諸国の王として戻ってこられ、この地を治めるのというものです。

 

「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。」

                         (黙示録11:15)

 

そうであれば、創造主なる神・キリストとの関係において「霊的武装」、「霊的国防」は意味を持ってきます。日蓮じゃないですが、創造主を離れているがゆえに、大患難時代の災害はやってくるのです。人が真の神を離れ、「獣」(経済・軍事・快楽に至上の価値を置く支配者)に従うから大災害に遭うのです。

 

真の意味で国を「霊的」に整えること、真の聖書の「教え」に立って、国の安全をもたらすことを考える必要があるのではないでしょうか?

 

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参考本


「キリスト者の戦争論」 岡山英雄 富岡幸一郎 地引網新書

 

「4世紀のコンスタンティン体制以降のキリスト教の意味を問わざるを得ません。それ以前は、国家によって迫害される立場であり、無抵抗、非暴力の「非戦」の立場を貫いていました。それが4世紀に大きく転換して「義戦論」がでてきたわけです。」(岡山氏 P.25)「戦争を肯定する『義戦論』は、4世紀にアウグスティヌスによって主張され、現代まで続いていますが、その極端なものが米国のキリスト教原理主義の戦争観では無いでしょうか。」(岡山氏 P.26


「コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認し、後に国教にまでなりますが、結局は滅亡してしまいます。地上の国家がたとえ自らを『キリスト教国家』と呼んでいたとしても、経済力と軍事力を至上の価値とするなら、それは神に背く行為であり、やがて滅亡してゆくということを示しています。(岡山氏P.43

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

 

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