2024年8月29日木曜日

「オーガニックチャーチへのガイドブック」 その2


使徒は教会をコントロールしない

 バイオラは日常的な「教会=エクレシア」活動と宣教の働き、すなわちチャーチプランティングをそれぞれ違う働きとして分けている。これはローカルパスターと使徒(チャーチプラ

ンター)の区別にも通じる。使徒的ワーカーは1つ所に留まらず、巡回する働き人であり、文化の批判、福音の宣教、チャーチプランティングする者。働きの領域は1つの教会ではなく、その地方全体。教会は地域限定。教会はそこに定着し、生活するコミュニティ。使徒は巡回者、旅人、開拓者、諸教会に仕える者。

 

その役割区分を理解していたので、新約の教会は使徒をコントロールしないし、使徒も教会をコントロールしなかった。しかし、チャーチプランティングの働き(教会ではなく、使徒的

宣教的働き)に関してはリードをとり、働きのチームを管理した。


 

オーガニックチャーチは〇〇ではない!

家々で「教会」を始めるとき、キリストを中心としないと脱線してゆくことも警告している。ただ単に家で集まれば聖書的な教会というわけではない。以下はバイオラに言わせると真の教会ではない。

 

1. ある関心事(ホームスクール、終末論など)で集まるグループ。

 

2. 制度的教会でやっていることをただ、家でやっている集まり。

 

3. リーダーの個性でひっぱるパーソナルカルト。

 

4. 個人の祝福だけを求める自己中心的な集まり。Bless me club.

 

5. 制度的教会から傷を受けた人たちの傷のなめ合い的、批判的集まり。指導されることを極度に嫌う人の集まり。

 

6. 単なるソーシャルクラブ。などなど。

 

 

それゆえ、エクレシアでは、継続的に神の永遠の目的、救いの歴史、聖書の全体的テーマを教えられる必要がある。



オーガニックチャーチについて学ぶ

 

ここからは実践的な話になる。ゼロからどうスタートするか?

 

1. オーガニックチャーチがこの地区に起こるよう祈る。

 

2. 伝道の賜物があれば、未信者と友達となり、伝道する。

 

3. クリスチャンの友人にオーガニックチャーチについての本を渡し読んでもらう。

 

4. それについて定期的に集い、ディスカッションする。

 

5. チャーチプランターを招いてリトリートをしさらに学ぶ。

 

(つづく)

 

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東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

 

 

2024年8月22日木曜日

「オーガニックチャーチへのガイド」 その1

 

元々の英題はfinding organic church – a comprehensive guide to starting and sustaining 

authentic Christian communitiesとなっている。現在はOrganic church Plantingとタイトルが

変更されている。

 

「ペイガン クリスチャニティ?」で問題提起がなされた。果たして、現在、見られるような教会は新約聖書が言うところの教会だろうかと。研究の結果、今日の教会のあり方(建物を含めて)は、ほとんど異教やカトリックからの借り物で聖書的根拠がないことが示されている。

 

次のReimagining Churchで、それでは聖書が示すあるべき「教会」の姿とはどんなものなのかを再イメージしてゆく。特に、シングルパスター(1つの教会を牧会する1人の専門職フルタイムとしての牧師)と儀式としての日曜礼拝を聖書には無い概念として批判してゆく。

 

そして、このPlanting Organic Churchでは、実際、オーガニックチャーチをどう始めて、どうキープしたらいいのかについて自分の体験も交えて語っている。

 

本のはじめの部分ではオーガニックチャーチとは何かを確認する。それは、「顔と顔とを合わせる、全員参加のオープンな集いであり、階級的リーダーはなく、集いの頭としてイエス・キリストだけを中心に置く」。それはライフスタイルであり、命なので、人々がイエスに出会うことにより、自然に生まれるとする。

 

新約教会はこうして始まった

当初、生活を分かち合うコミュニティであった教会が、階級的なトップダウンの組織へと変貌していった。だから、教会の中心であるイエスキリスト以外の要素を取り除いてゆくことが必要であるという。バイオラ氏によると、新約の教会は以下のようにして始まったという。

 

1.  パウロは使徒(チャーチプランター)であったが、一人でやったのではなく、アクラとプ

リスキラなど多くのヘルパーに囲まれチームとして開拓した。

 

2. 使徒は平均、6ヶ月新しい信者と時間を過ごし、クリスチャン生活の基礎を教えた。儀式やルーティンに陥ることなく、人間的なリードに頼らず、キリストを中心とした全員参加のオープンな集いをどう持ったらいいかを指導した。

 

3. 長くも3年(エペソのケース)教会の土台作りをすると、使徒はそこを去っていく。あまり説教が多すぎると、信徒の参加を妨げてしまうという。土台つくりが終わったら説教をやめて、そこを去る。

 

4. その後、必要に応じて訪問、励まし、問題への対処のガイドなどをするが、あくまで個々の教会の独立性を認め、「自分」の教会にしない。フランチャイズしない。意思決定はその教会の信徒にゆだねられている。使徒の目的は、「いなくなる」こと。

 

(続く)

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執筆者:栗原一芳

 

 

2024年8月15日木曜日

教会を再イメージする その4


パウロの手紙は牧師宛ではなく、教会宛

パウロの手紙は牧師宛ではなく、教会あてである。(テモテやテトスは牧師ではなく使徒仲間)パウロの手紙には「兄弟」という言葉は134回、長老は5回出てくるが、牧師という言葉は1回しか出てこない。教会の課題は教会全体(兄弟姉妹)で重荷を負ったのであって、一人の職業牧師がしていたのではない。

 

神のリーダシップのお考えは、ちょうど三位一体がそうであるように、functional, relational, organic, and communal。初代教会のリーダーが支配的でないなら、当然、礼拝の仕方も私達が

今日見ているものとは違っていたという。

 

全ての人が神の声を聞けるなら、牧師の一方的なメッセージだけでなく、もっと「お互いに」の要素があっただろう。バイオラは1)1教会に1人の職業牧師 と2)儀式としての日曜礼拝を非聖書的と考える。それにもかかわらず、結構ラディカルなクリスチャンさえ、この2つにはタッチしないと言っている。バイオラの結論はこの2つを止めること。

 

「お互いに教会」をはじめること。それには教会の「刷新」では間に合わず、(あるいは、ハウスチャーチといっても、制度的教会でやっている礼拝儀式のミニ版を家でやるだけでは何も本質は変わらないとし)教会革命が必要と提唱するのである。

 

 

○○先生の教会?

職業牧師が導く教会、それは結局、誰々先生の教会となる。ある一個人の牧師のミニストリーの延長となる。(当然、そこではその先生のパーソナリティがものを言う)しかし、これは新約の「お互いに教会」を妨げる。プロの教職者がいるだけで、即、信徒を受身にしてしまい、

自動的にプロに頼るようにさせてしまう。そういういう環境をつくってしまうという。

 

我々も便宜上、つい、「ああ、あの○○先生の教会ね」と言ってしまうが、これは、全く非聖書的である。唯一「キリストの教会」なのである。そして、教会には権威者や階級制度はない。イエスは教会のあり方は、この世のありかたと逆行することを明白に語った。(マタ20:25-28)教会のフランチャイズもありえない。1つ1つの教会はそこに集まった人たちの個性でユニークなものとなる。

 

1つのシティに1つの教会

第1世紀の教会は一つのシティに1つの教会であり、(コリントの教会、エペソの教会)いわゆる教団はなかった。バイオラによれば、教会の分裂は3Cに始まった教職者・信徒の分化から始まったとする。神学教育を受けた専門家がリードする教会。専門に学んだ知識ゆえに、神学的理由での分化が始まる。バイオラは、教団とは人の作ったものと宣言する。

 

 

この本の最後には、よくある質問、反論への応答が聖書引用と共につけられている。今のところ英語しかないが、是非、一読をお勧めする。

 

次回からは、オーガニックチャーチの実践編としてのバイオラ著「Planting Organic Church」(邦訳無し)から考察する。

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執筆者:栗原一芳

 

2024年8月8日木曜日

教会を再イメージする その3

 

牧師のワンマン運転教会

 今回は教会のリーダーシップについてバイオラの見解を見てみよう。まず、今日の教会における牧師というポジションにメスを入れる。彼の疑問はこうだ。

 

新約聖書に

 

1) フルタイムで教会から給料をもらう牧師という職業が見出せるだろうか?

 

2) 毎週毎週、何十年も同じ会衆に向かって説教している一人の牧師を見出せるだろうか?

 

教会のミニストリーを一人の牧師に負わせてしまうことは聖書的だろうか?

聖書はつねに「お互いに」教会を描いている。ワンマンショーはありえない。

新約聖書はシングルパスター(一人の職業牧師が教会のほとんどのミニストリー業務をする)の存在を否定しているという。またポジション、ステイタスとしての長老もありえないと。では、なぜ、今日、職業牧師が存在するのだろうか?信徒にとって、お金を払ってでも、自分が犠牲を払わず、牧師が他の人に仕えること(ミニストリー)を背負ってくれれば楽である。聖書的理由がないなら、唯一の理由は信徒にとって「便利」だからということになる。これにより、専門家である牧師が執り行う日曜礼拝という儀式に参加するゲストとしての一般信徒という構造ができあがる。日曜礼拝に忠実に参加し、献金をしていれば、一応の「任務」を果たしているという意識が信徒のうちに作られてしまう。

 

この慣性は非常に強く、動き出している汽車を止められないように、今日、職業牧師制度をとりやめることは非常に難しい。牧師のほうも、その職業を辞めても他の職を見つけるには難しい。しかし、一人の牧師に重荷を負わせることで(神は決してそれを願ってない)牧師は燃え尽き、性的罪を犯しやすくなる。つまり、牧師もかわいそうだというわけだ。給料をもらえば、その「対価」として、「仕事」として教会の働きをあれこれせざるを得なくなる。

 

ポジションではなく賜物

聖書に長老や執事といったポジションが書かれているだろうと反論する人もいる。

 

バイオラはこう解釈している。

 

長老(プレスビター)は単に経験ある年上のクリスチャン。文字通り長老。執事(ダイアコニー)は仕える人、つまりお助けマン

 

さらにこれらはポジションではなく、(新約時代はけっしてポジションではなかった。それは3C過ぎ、コンスタンティンの時代から入り込んだ、聖職者・

信徒の分割から来ている。)つねに機能として表現されている。つまり仕えている人魂を養っている人預言をしている人伝道をしている人それらが教会の皆に認められ、されに使徒に認定された。教会に、始めからポジション

としていたのではない。自然に数年かけて、育て上げられてくるのだと

(エルサレム教会の場合、誕生から少なくも14年たってから長老が任命され

ている。使徒14:23)つまり、はじめに牧師ありきではない。神学校に行って資格を取って、牧師のポジションを取得するのではない。

 

地域教会牧師と使徒の違い

ただし、これはバイオラの牧師と使徒の働きの区分を理解しないとわからない。確かに、エペソ4:11によると「キリストご自身がある人を使徒、・・・ある人を牧師また教師としてお立てになった。」とあり、使徒と牧師は同一人物ではないと取るのが自然だろう。使徒は今でいう、チャーチプランターであり、諸教会に経済的にサポートされながら、巡回しながら伝道し、教え(パウロは長くても2年)、教会の土台を築く人。一方、牧師(正確には、牧者)は長老の一人でローカルチャーチ(すなわち一定の場所)で魂を牧する人。通常、教える賜物も兼ね備える。決して「牧師先生」という他の信徒と区別されるような別格な存在、あるいは専門職ではなかった。そして、彼らは教会のミニストリーを独占しなかった。

 

使徒がプラントしたチャーチから数年かけて、長老が育ってきている。また、この長老は教会のために代表して意思決定をすることもなかった。新約の教会

の意思決定はすべての兄弟姉妹が携わった教会全体の出来事であった。

 

使徒はそれぞれの都市の教会に複数の長老(すでにその働きをしていた人々)

を任命した。つまりチーム牧会だったわけだ。CEO牧師、大教会の主幹牧師

なども存在しなかった。長老は基本的に世俗の仕事を持つ家庭人であった。

 

(つづく)

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2024年8月1日木曜日

教会を再イメージする」その2

 

新約の教会は「お互いに」教会

 新約の教会には「教会に行く」「church service 礼拝という儀式に行く」というコンセプトがなかったという。教会が始め生み出されるための「伝道集会」というものは確かにあったが、教会の通常の集まりは「信徒」の集まりであり、プロフェッショナルによる説教を中心とした

礼拝儀式ではなかったという。初代教会を特徴づけるしるしは、「お互いに」(新約では60回以上使われている言葉)というコンセプトであった。

 

神の言葉を語ることに関しても、例えばパウロは「あなたがたはみなが、かわるがわる預言できるのであって。。。」(Iコリ14:31)と言っている。預言だけでなく、様々な霊的賜物が「自由」に教会の徳を高めるため使われるべきと薦められている。コリントの教会の集まりにおける混乱があったこと自体が、当時の教会が人間のプログラムによって統制されていなかったことの証拠でもある。(そして、神は秩序の神であるとパウロは言い、人間の権威やプログラムではなく、神が聖霊によって秩序をもって、導くことを示唆している。)ともあれ、この「お互いに」コンセプトが信徒の成長に大きく貢献するとバイオラは考えている。

 

しかし、それに反して多くの典型的な制度的教会では信徒を「成長」させる手段は牧師や教会学校の先生によって学問的に準備され、一方的に語られるメッセージだけに限られてしまっており、結果、人生の変革を見ることが少ないことを指摘している。最後にバイオラが指摘する、


 

教会が健全に機能しているときに見られる要素

教会が健全に機能しているときに見られる要素を紹介しよう。

 

 - Interdependence instead of independence

  (孤立ではなく、健全な相互依存「お互いに」教会)

 

  - Wholeness instead of fragmentation

  (断片的であるより、全体的、包括的)

 

  - participation instead of spectatorship

  (お客さんでなく、全員参加型)

 

  - connectedness instead of isolation

  (孤独でなく、結び合うこと)

 

  - solidarity instead of individualism

  (個人主義でなく、団結、連帯)

 

  - spontaneity instead of institutionalization

  (ガチガチの制度ではなく、聖霊による自由さ、柔軟さがある)

 

  - relationship instead of programs.

  (プログラムより人間関係)

 

 - servitude instead of dominance

  (支配でなく、仕える態度)

 

 - enrichment instead of insecurity

  (権威や恐れによる押さえつけでなく、個人を解放し、豊かにする)

 

 - freedom instead of bondage

  (縛り付けることより自由さ)

 

 - community instead of corporation

  (組織というよりコミュニティ)

 

- bonding instead of detachment.

(バラバラでなく、絆があること)

 

(つづく)

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執筆者:栗原一芳