パウロの手紙は牧師宛ではなく、教会宛
パウロの手紙は牧師宛ではなく、教会あてである。(テモテやテトスは牧師ではなく使徒仲間)パウロの手紙には「兄弟」という言葉は134回、長老は5回出てくるが、牧師という言葉は1回しか出てこない。教会の課題は教会全体(兄弟姉妹)で重荷を負ったのであって、一人の職業牧師がしていたのではない。
神のリーダシップのお考えは、ちょうど三位一体がそうであるように、functional, relational, organic, and communal。初代教会のリーダーが支配的でないなら、当然、礼拝の仕方も私達が
今日見ているものとは違っていたという。
全ての人が神の声を聞けるなら、牧師の一方的なメッセージだけでなく、もっと「お互いに」の要素があっただろう。バイオラは1)1教会に1人の職業牧師 と2)儀式としての日曜礼拝を非聖書的と考える。それにもかかわらず、結構ラディカルなクリスチャンさえ、この2つにはタッチしないと言っている。バイオラの結論はこの2つを止めること。
「お互いに教会」をはじめること。それには教会の「刷新」では間に合わず、(あるいは、ハウスチャーチといっても、制度的教会でやっている礼拝儀式のミニ版を家でやるだけでは何も本質は変わらないとし)教会革命が必要と提唱するのである。
○○先生の教会?
職業牧師が導く教会、それは結局、誰々先生の教会となる。ある一個人の牧師のミニストリーの延長となる。(当然、そこではその先生のパーソナリティがものを言う)しかし、これは新約の「お互いに教会」を妨げる。プロの教職者がいるだけで、即、信徒を受身にしてしまい、
自動的にプロに頼るようにさせてしまう。そういういう環境をつくってしまうという。
我々も便宜上、つい、「ああ、あの○○先生の教会ね」と言ってしまうが、これは、全く非聖書的である。唯一「キリストの教会」なのである。そして、教会には権威者や階級制度はない。イエスは教会のあり方は、この世のありかたと逆行することを明白に語った。(マタ20:25-28)教会のフランチャイズもありえない。1つ1つの教会はそこに集まった人たちの個性でユニークなものとなる。
1つのシティに1つの教会
第1世紀の教会は一つのシティに1つの教会であり、(コリントの教会、エペソの教会)いわゆる教団はなかった。バイオラによれば、教会の分裂は3Cに始まった教職者・信徒の分化から始まったとする。神学教育を受けた専門家がリードする教会。専門に学んだ知識ゆえに、神学的理由での分化が始まる。バイオラは、教団とは人の作ったものと宣言する。
この本の最後には、よくある質問、反論への応答が聖書引用と共につけられている。今のところ英語しかないが、是非、一読をお勧めする。
次回からは、オーガニックチャーチの実践編としてのバイオラ著「Planting Organic Church」(邦訳無し)から考察する。
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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