2024年9月26日木曜日

オーガニックチャーチの誤解

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

ここから教会の本質を模索するため、制度的教会、組織的教会から離れて、いわゆるオーガニックチャーチを求める人達がいます。それは正しい方向性だと思いますが、何事でも極端に行き過ぎる事もあります。大事なことは聖書的であるという事です。

 

完全に「フラット」という訳ではない

米国のオーガニックチャーチの推進者、フランク・バイオラの著作を読むと、イエス・キリストだけが教会の頭であり、エクレシアメンバーは完全にフラットという印象を受けます。彼の著作には大変影響を受けましたが、同意できない点もあります。バイオラは、霊的に成熟した人が若いクリスチャンを助けるようなSpiritual Accountability (霊的にチェックし合う関係)を否定するし、賛美リーダーの存在すら否定するのです。しかし、聖書を読んでみると、長老、監督という教会のリーダーシップの役が明記されており、それらの役を任命するようにパウロは勧めているし、その資格についても書かれているのです。(Iテモテ3章、テトス1章)

 

「聖霊のみによって導かれる」は、聞こえはいいのですが、人の集まりにはリーダー的存在は必要です。ただ、そのリーダーはサーバントリーダー(仕える僕)でなければならないのは言うまでもありません。特に日本のコンテキストでは、世話人がいないと動かないようです。

 

第一世紀の教会が理想という訳でもない

確かに、313年のミラノ勅令でキリスト教が公認宗教になって以来、(特にコンスタンチン皇帝によって)純粋な信仰形態が変質されていったことは事実です。しかし、パウロの時代の教会でも、コリントの教会のように「問題のデパート」というような教会もあったのは事実です。黙示録2章—3章の7つの教会を見ても、主キリストから「お褒めの言葉」と共に「お叱りの言葉」も頂いていますね。単純に第1世紀の教会だからいいという訳ではないのです。聖霊に導かれつつ進んではいましたが、信徒たちは罪を犯すし、教会運営も試行錯誤でした。実際、使徒6章のような問題も生じていたのです。初代教会に学ぶべきところは大きいです。しかし、初代教会といえども、完全な教会ではなかったのです。

 

初代教会をマネしなければならない訳ではない

教会はペンテコステ(使徒2章)の日に始まったと言われます。誕生したのはエルサレムであり、最初の信徒たちは12弟子を含め、基本、ユダヤ人でした。

当時の問題はユダヤ教(律法主義)との葛藤であり、迫害はまずユダヤ人から始まったのです。このような状況と今の日本とは当然、環境が違います。また使徒2章に見られる「原始共産主義=私物を持たない」的な生活を現代に適応することもできません。聖書に書いてあるからといって「聖なる口づけをもって挨拶」(Iコリント16:20)を実践している教会は無いでしょう。また礼拝に参加する女性が被り物をしている(Iコリント11:6)教会も少ないでしょう。慎重に当時の文化的なものと聖書的命令とを見極める必要があります。

 

名前を変えればいい訳ではない

いくら牧師を「牧仕」に言い換えても、「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28)というキリストのマインドセットがないなら意味がないのは当然です。場所を家に移しても牧師のメッセージ中心の集会なら「ハウスチャーチ」ではなく伝統的な「家庭集会」と何ら変わらないでしょう。オーガニックチャーチと名付ければいい訳ではなく、「本質」があるかどうかなのです。会堂で集まっていても限りなくオーガニックに近い教会もあります。新約で言う「お互いに」を実践するスタイルがあるかどうかが1つの重要な鍵です。牧師のワンマンショーではいけません。

 

以前も書きましたが、特に牧師、宣教師の方々がオーガニックチャーチを始めるときに大事なのは「いかに喋らないか」と言うことです。メッセージする事に慣れているので黙っているのは難しいのです。しかし、「お互いに」教会で大事なことは、いかにメンバーが自主的に積極的に参加するかなのです。これには忍耐と知恵と決意が必要です。ある時、婦人たちがオーガニックチャーチを始めたいというので助けに行ったことがあります。いつものスタイル(分かち合い形式)でバイブルスタディをやろうとしてのですが、その婦人たちはあまりにも「先生」からメッセージを聞くことに慣れていて、自分から喋ってくれませんでした。わたしも新参者でまだ信頼関係が築けてなかったこともあるでしょう。意味ある人間関係を築くには忍耐と時間がかかります。

 

 

義務感はいらないが、献身は必要

オーガニックチャーチでカフェやレストランで会っているとなると、「気楽で気軽な」イメージがあるでしょう。そして、「行きたい時に行けばいいや」的な気持ちになりがちです。しかし、コミットして参加することはメンバーに対しての「愛」なのです。義務感は必要ないですが、キリストの弟子となるにはキリストへの、そしてキリストの体であるエクレシアへの献身は必要です。英語では「コミットメント」と言いますね。メンバーが常に出入りしていたら、そこにコミュニティを築くことは難しいでしょう。TMCエクエシアでは「意味ある人間関係と祈りで深まり、広がるキリスト中心のコミュニティ」を掲げています。意味ある人間関係を築くには、コミットメントを持った関わりが必要になってきます。愛とはコミットメントとも言えます。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2024年9月19日木曜日

「オーガニックチャーチを考える」


今回のおすすめ本

Missional Renaissance – changing the scorecard for the CHURCH

By Reggie McNeal

 

Missional Communityという考え

教会というより、Missional Communityという表現が最近よく使われる。特に日本の教会の場合、信仰持つ事で家族との軋轢も生まれ、あちこちから個人が集まって教会を形成しているケースが多い。しかも、電車に乗って日曜礼拝に集うとなると、教会堂が存在する地域コミュニティとの関係が薄くなる。励ましの場としての合同礼拝や聖書からのティーチングは、日曜にやるにしても、週日、生活の場でクリスチャンが少人数で集まり、深い交わりを持ち励まし合い、生活圏でクリスチャンの影響を周りに及ぼしてゆく「場」がどうしても必要になってくる。ホープチャペルのラルフモア師は、これをミニチャーチと呼んで推進している。

 

上に挙げた本は「この世」に置かれた「使命を持った」クリスチャンの集まりとしての宣教的コミュニティを提案している。キリスト教が文化となり、習慣化して、自らの運営にフォーカスしているあり方から、使命をもって地元コミュニティへのインカーネーション(受肉)してゆく方向性が必要なのではないか?

 

教会開拓は1教会、1会堂、1牧師を目指してきた。しかし、それのビジネスモデルが難しくなっている。伝統的教会が衰退する中で、この本は教会の新たな方向性を示している。

 

 

教会のあり方を変革する  The change of mindset on CHURCH  

 

- Kingdom focused  神の国指向  生活の場、社会、世界が舞台。

 

- Connectors     組織の会員という考えより、人々を結びつける方向性

 

- Program to people  プログラムから人へフォーカスを移す。

 

- Attractional to Incarnational 魅力あるプログラムでこちらに引っ張り込むのではなく、コミュニティに出て行って、そのただ中で影響を与える。著者は地元少年野球のコーチとして奉仕することや、NPOなどで地域奉仕活動に参加することを勧めている。

 

- Proclamation to Demonstration 説教より、行いで見せていく

 

- Institutional to Organic  制度的教会から生命体としての教会へ。

 

- From church job to Kingdom assignment 神の奉仕は教会内の奉仕、仕事という考えから、神の国を広めるため、この世に使命をもって遣わされているという意識。この世の仕事の再評価。

 

- Life is mission trip 信仰生活は日曜だけでなく、生き方そのもの。生活、人生そのものが神と共に歩む宣教旅行。

 

- The way of life それは生き方そのもの

 

- From Worship service to Service as worship

日曜朝の礼拝という儀式から、人々に仕えることが礼拝という意識へ。実際、礼拝は24 hours/7daysであるべき。(ローマ12:1−2)

 

オーガニックチャーチの特徴
著者によるとオーガニックチャーチの特徴は・・・

 

- Decentralized 中央集権ではない

 

- Simple シンプル

 

- not membership driven 会員制度を強調しない

 

- synched with normal life routines 日常生活と同期している

 

- not dependent on clergy  教職者に頼らない

 

- focused on the spiritual development of the participants 活動の多さよりも参加者の霊的成長にフォーカスする。

 

- The people are the church. (not “attending the church”, not “going to the church” nor “supporting the church”. 教会は「人々」なので、「教会に出席する」「教会に行く」「教会をサポートする」という言い方はしない。

 

TMCの場合は・・・

例えば、私達のTMCでは、カフェや、zoomで定期的に集っている。エクレシアは「教会」と訳されるが、新約では会堂の意味で使われたことは一度もない。常に人々を指している。1つの場所で人数を増やすことを目的とせず、深い、正直な関係を築くことを目的としている。多くても8人。一人の牧師が常にメッセージするということをしない。(新約聖書にその例は見出せない)宣教師がいても、ビジネスマンが進行役を勤める。カフェや、レストランという日常の雰囲気の中で、分かち合いが為され、食事をし、聖書が開かれ、祈り合う。プログラムはいたってシンプルでフレキシブル。新来会者がいれば、その人の話を聞いて終わる事もある。先生と呼ばれる人はいない。正直になれる安心感がある。集うのはビジネスパーソンなので、必然的に会社の話やビジネス戦略の話も出る。日常生活にシンクロしている。特別なマスクをつけなくていい。変に霊的に繕わなくていい。

 

みことばが開かれ、1)気になったところ、心に留まったところを分かち合う。2)疑問に思えるところを分かち合う 3)アクションポイントが示されれば分かち合う。全ての人が参加し、コメントを言う。一方的に聞いたメッセージより心に残る。時々、ノンクリスチャンも参加する。彼らも自由に聖書の言葉から感じた事を分かち合う。最後は、実生活での必要を分かち合い、祈り合う。ビジネスの成功も祈る。仕事関係で出会うノンクリスチャンのためにも祈る。そのような中で参加者は解放され、霊的成長を体験する。自分にとっての霊的命のオアシスとなる。人生を共に歩む「友」が与えられる。定期の集まり以外でも、お互い自由に会って交わったり遊んだりする。

 

参加者からのコメント:

🔵 まさに、心のオアシスです。」

🔵 「ここだけですよ、心を開けるのは」

🔵 定期的に御言葉を学び、互いに祈りあえる仲間が与えられていることに感謝して

      います。」

🔵 聖書の教えるエクレシアについて再考し、自分の中で再構築することが出来ました。また

      社会人クリスチャンの様々な仲間が増えたことも感謝です。」

🔵 書を新しい角度から学ぶ事が出来たり、社会人として、社会で働く上でも

   勉強になっているという事です。」

 

東京メトロコミュニティ(TMC)のモットーは、

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ」。

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

2024年9月12日木曜日

フランク・バイオラを読んで


いままで、アメリカのオーガニックチャーチ推進者のフランク・バイオラの教会革命シリーズの数冊をご紹介した。どういう感想を持たれただろうか?私はかなり影響されたものの、やはり100%同意できない部分もある。

 

教会のリーダーについて

キリスト中心でなければならないことはよく分かる。人間的要素を排除しなければならない事も分かる。しかし、集まって礼拝するとき、意図的にリーダーを立てないというのはどうなのだろうか?バイオラは、ファシリテーターさえ立てるべきでないとする。しかし、完全フラットということが現実的だろうか?人間が集まるところにはリーダー的役割をする人は必要だし、群れを牧する人は必要だ。自然とそれが、サーバントリーダーになるのではないだろうか。リーダーが存在すること自体が悪いのではなく、リーダーの質ではないだろうか。集会を牛耳ったり、自分のカリスマだけでひっぱってゆくのはマズいだろうが、サーバントリーダーは聖書的だろう。またサーバントリーダーならチームを大事にするので、おのずとチームリーダーシップの形を取るのではないだろうか。

 

歴史を見ると、やはりビジョンが与えられたリーダーが、その時代の様々なムーブメントを起こしてきたことは事実である。神がモーセやヨシュアを用いたように、神はある人を召し、ビジョンを与え、リーダーとしての賜物を与え、群れを導くことをさせるのではないだろうか。ただ、独走しないように、そのリーダーを取り巻くアカウンタビリティを持つ仲間のリーダーたちがいる必要がある。与えられたビジョンを吟味する人々が必要だろう。ちなみに、バイオラは「完全フラット、キリストのみに権威あり」を主張するあまり、霊的アカウンタビリティの関係(つまり、霊的上下関係に発展しかねない)をも否定する。ここも議論されるところだろう。

 

バイオラは教会の決定は「全員」ですべきで、トップダウンはありえないとする。しかし、モーセの出エジプトのように、緊急時に決断を下し、民を導くこともありだろう。常にデモクラティックに皆の意見をまとめてという訳ではない。バイオラを読んでいると、リーダーシップが「使徒」に集中してしまい、ローカルチャーチのパスターは全く権威がなくなってしまうようだ。逆にこれも危険ではないか?

 

賛美リーダーについて

バイオラは賛美リーダーや専属のワーシップチームが礼拝を導くことに反対している。確かに聖霊がすべての信者に住まわれており、賛美もすべての信徒に与えられているだろう。しかし、賜物を持った人が賛美リードすることが聖書的でないとは思えない。旧約時代には、訓練された「歌うたい」達が礼拝で奉仕した。確かに大教会の場合、プロ的なミュージシャンによるショー的なワーシップになる可能性は否定できないが、だからワーシップチームは要らないという論法にはなるまい。礼拝の中で、預言や賛美が自由にできる時間を設けるなど、フレキシブルなワーシップの時間にすることはワーシップチームを持ちながらも十分できるのではないだろうか?音楽によるワーシップの場合、やはり音楽の技術ある人がやらないと(例えば、ギターのコードをまともに押さえられないなど)礼拝の障害となってしまうこともあるうる。最高の賛美を捧げるためには、「信仰心」が第一ではあるが、ある程度の「技術」も必要となってくる。

 

大教会、既存教会について

私は大教会や既存教会の良さもあると思っている。大教会はとにかく、リソース経済、人材)がある。災害時の支援などはアクションが起こしやすい。教団があるがゆえに、全国に散らばる教会との連絡が取りやすい。ハウスチャーチの場合、独立していることが多いので、どこにどういう教会があるのかわかりにくい。また、既存教会は、目立つので求めている人が教会を探しやすい。商店街のお店が看板を出しているので何の店かわかるように、教会に看板があり宣伝がされていると「ああ、キリスト教の教会」と分かりやすいメリットがある。また、個人の家のハウスチャーチの場合、プライバシーのこともあり、公に宣伝する難しさがある。不特定多数の人が集う礼拝は、公共の場で礼拝を持つ事には良い面がある。

 

私は東京都心のような場所では資金があるなら、大教会方式(N Y市のRedeemer教会のような・・)。あるいは正反対の職場近くのカフェなどで持つ、スモールグループ的な方式かどちらかが有効と考えている。中途半端なサイズの既存教会は逆に難しくなるのではと予想している。いずれにしても最後は召しなので、どういう形で教会形成するのか、主に聞いていくしかない。私個人としては「エクレシアは小さくシンプルに、ミニストリーは多くの人を巻き込んで、大きく」をお勧めしたい。

 

都心での「キリストの体=エクレシア」の表現

バイオラの本を読んで思うのは、こうでなければならないと思っているキリスト教・教会の伝統のかなりの部分は聖書的根拠がないということ。いわば、新約の口伝律法。ならば、それらに捉われず、自由に変えられる「余地」があるということ。この点がバイオラの本が大きく貢献したところだろう。もっと自由で、柔軟で良いのだ。キリスト教への誤解を取り除き、教会のあり方を大胆に変えることで、この時代に切り込んでゆくことは可能なのではないかという希望さえ湧き上がってくる。教会が大組織となるより、「キリストの体」的表現、つまり、「人生と生活を分かち合うコミュニティ」を実践すること、神の国の祝福が教会の壁を越えて社会に流れ出す事、「日曜クリスチャン」から「365日の主」への転換(聖と俗の垣根を外すこと)が行われてゆくとするなら、エキサイティングな事である。日本の教会は衰退期に入っているという。しかし、神のエクレシアは生命体なので「死なない」のだ。組織、教団、しきたり、伝統は廃れるだろう。しかし、キリストの体=エクレシアは死なない。

 

私たちTMCとしては、都心で「キリストの体」がどう表せるのだろうということを模索してきている。多様なシティ・ライフスタイルの中で、日曜朝10時半のプログラムだけが選択肢であれば、都心のマジョリティを排除することになる。これで「すべての人を弟子とせよ」という大宣教命令を実現できるのだろうか?聖書的根拠のない「こうでなければならない」から解放されて、もっとオーディエンスにフォーカスし、オーディエンスに合わせたスタイルのフレキシブルな「キリストの体=エクレシア」の表現があってもいいのではないか?

 


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東京メトロ・コミュニティ

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執筆者:栗原一芳

2024年9月5日木曜日

「オーガニックチャーチ ガイドブック」 その3

 続けて、フランク・バイオラ著の「Organic Church Planting」から見ていこう。


始めるのは簡単、継続は困難 

実際、始めてみると、親密な関係ゆえに、お互い傷つくこともある。また、始めの蜜月のステージから倦怠期やドライな時期を通らされることもある。教会を去る人も出るなど、バイオラの体験からリアルな面も紹介している。やはり収穫を待つ農夫のような忍耐深さも必要。主に取り扱われる謙遜さが必要としている。そう簡単ではないのだ。始めるのは比較的簡単、でも維持することは難しいと告白している。まさにオーガニックなので、人の成長に時間をかけねばならないし、エネルギーを要するのだ。

 

バイオラのブログで書かれていたことだが、オーガニックチャーチでは「お客さん」でいられない。家を開放して「集まり」を持つことには犠牲が伴う。まして、食事を出すようなことをしていれば、さらに負担は増える。フルタイムで仕事をしながら、ミニストリーもやることになる。無理をしていると続かなくなる。既存の教会で「お客さん」でいる方が気楽だとなってしまい、既存の教会に戻ってしまう人もいるらしい。また、既存の教会からエクソダスして、オーガニックチャーチに希望を託したものの、人間関係で悩み、まったく信仰を捨ててしまうケースや、関わりを拒み、あえて「一匹狼クリスチャン」を選ぶ人も出てくるという。このような現実面も知っておく必要がある。

 

また、オーガニックチャーチでは「教会員制度」がないので、ある意味出入り自由。気楽に入れるが、気楽に出て行ってしまう。しかし、コミュニティを築くには、コアメンバーのコミットメントが必要になる。


 

オーガニックチャーチでは、集まって何をするのか?

以下はバイオラのOrganic Church Plantingで示されている内容。

 

1. ソングリーダー無しで、賛美する。(各人に与えられた賛美を大切にするゆえ、意図的にソングリーダーを立てない。これには異論がある人もいるだろう。バイオラはこの件に思い入れがあって1章を費やしているが、ここでは深入りしない。)*

 

2. 分かち合い。ライフストーリー、好きな聖句とその理由など。

 

3. 時折、みことばからのメッセージも必要。(特に教会が若い段階では)

(ただし、メッセージの後、皆での分かち合いを入れること。)

 

4. 一緒に食事する。食べることはファミリーイベント

 

5. 一緒に楽しいことをする。FUN お泊り会や、スポーツイベントなど。

 

 

4.5.は、最近はやりのアルファを思い起こさせる。いずれにしても、これらの要素は大事であろう。単なる勉強会にしないことだ。地道に継続的に時間を過ごせば、親密さは増す。やがて心の秘密まで話せる仲間となれば、それは魅力的なものとなる。それには時間がかかる。そして、単なるソーシャルクラブにならないために、徹底的にキリストを中心にする必要がある。

 

最後にこのように締めくくられている。「神の国は新しい種類のクリスチャンワーカーを是が非でも必要とされている。それは正直で、律法的ではなく、エリート主義でなく、分派主義でなく、宗教的でない、宗教ゲームをしない人。」アーメン!

 


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*バイオラは賛美リーダーを不要とするが、自分はこの点に関しては異なる意見を持っている。これについては後日、記事をアップします。

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執筆者:栗原一芳