2024年9月12日木曜日

フランク・バイオラを読んで


いままで、アメリカのオーガニックチャーチ推進者のフランク・バイオラの教会革命シリーズの数冊をご紹介した。どういう感想を持たれただろうか?私はかなり影響されたものの、やはり100%同意できない部分もある。

 

教会のリーダーについて

キリスト中心でなければならないことはよく分かる。人間的要素を排除しなければならない事も分かる。しかし、集まって礼拝するとき、意図的にリーダーを立てないというのはどうなのだろうか?バイオラは、ファシリテーターさえ立てるべきでないとする。しかし、完全フラットということが現実的だろうか?人間が集まるところにはリーダー的役割をする人は必要だし、群れを牧する人は必要だ。自然とそれが、サーバントリーダーになるのではないだろうか。リーダーが存在すること自体が悪いのではなく、リーダーの質ではないだろうか。集会を牛耳ったり、自分のカリスマだけでひっぱってゆくのはマズいだろうが、サーバントリーダーは聖書的だろう。またサーバントリーダーならチームを大事にするので、おのずとチームリーダーシップの形を取るのではないだろうか。

 

歴史を見ると、やはりビジョンが与えられたリーダーが、その時代の様々なムーブメントを起こしてきたことは事実である。神がモーセやヨシュアを用いたように、神はある人を召し、ビジョンを与え、リーダーとしての賜物を与え、群れを導くことをさせるのではないだろうか。ただ、独走しないように、そのリーダーを取り巻くアカウンタビリティを持つ仲間のリーダーたちがいる必要がある。与えられたビジョンを吟味する人々が必要だろう。ちなみに、バイオラは「完全フラット、キリストのみに権威あり」を主張するあまり、霊的アカウンタビリティの関係(つまり、霊的上下関係に発展しかねない)をも否定する。ここも議論されるところだろう。

 

バイオラは教会の決定は「全員」ですべきで、トップダウンはありえないとする。しかし、モーセの出エジプトのように、緊急時に決断を下し、民を導くこともありだろう。常にデモクラティックに皆の意見をまとめてという訳ではない。バイオラを読んでいると、リーダーシップが「使徒」に集中してしまい、ローカルチャーチのパスターは全く権威がなくなってしまうようだ。逆にこれも危険ではないか?

 

賛美リーダーについて

バイオラは賛美リーダーや専属のワーシップチームが礼拝を導くことに反対している。確かに聖霊がすべての信者に住まわれており、賛美もすべての信徒に与えられているだろう。しかし、賜物を持った人が賛美リードすることが聖書的でないとは思えない。旧約時代には、訓練された「歌うたい」達が礼拝で奉仕した。確かに大教会の場合、プロ的なミュージシャンによるショー的なワーシップになる可能性は否定できないが、だからワーシップチームは要らないという論法にはなるまい。礼拝の中で、預言や賛美が自由にできる時間を設けるなど、フレキシブルなワーシップの時間にすることはワーシップチームを持ちながらも十分できるのではないだろうか?音楽によるワーシップの場合、やはり音楽の技術ある人がやらないと(例えば、ギターのコードをまともに押さえられないなど)礼拝の障害となってしまうこともあるうる。最高の賛美を捧げるためには、「信仰心」が第一ではあるが、ある程度の「技術」も必要となってくる。

 

大教会、既存教会について

私は大教会や既存教会の良さもあると思っている。大教会はとにかく、リソース経済、人材)がある。災害時の支援などはアクションが起こしやすい。教団があるがゆえに、全国に散らばる教会との連絡が取りやすい。ハウスチャーチの場合、独立していることが多いので、どこにどういう教会があるのかわかりにくい。また、既存教会は、目立つので求めている人が教会を探しやすい。商店街のお店が看板を出しているので何の店かわかるように、教会に看板があり宣伝がされていると「ああ、キリスト教の教会」と分かりやすいメリットがある。また、個人の家のハウスチャーチの場合、プライバシーのこともあり、公に宣伝する難しさがある。不特定多数の人が集う礼拝は、公共の場で礼拝を持つ事には良い面がある。

 

私は東京都心のような場所では資金があるなら、大教会方式(N Y市のRedeemer教会のような・・)。あるいは正反対の職場近くのカフェなどで持つ、スモールグループ的な方式かどちらかが有効と考えている。中途半端なサイズの既存教会は逆に難しくなるのではと予想している。いずれにしても最後は召しなので、どういう形で教会形成するのか、主に聞いていくしかない。私個人としては「エクレシアは小さくシンプルに、ミニストリーは多くの人を巻き込んで、大きく」をお勧めしたい。

 

都心での「キリストの体=エクレシア」の表現

バイオラの本を読んで思うのは、こうでなければならないと思っているキリスト教・教会の伝統のかなりの部分は聖書的根拠がないということ。いわば、新約の口伝律法。ならば、それらに捉われず、自由に変えられる「余地」があるということ。この点がバイオラの本が大きく貢献したところだろう。もっと自由で、柔軟で良いのだ。キリスト教への誤解を取り除き、教会のあり方を大胆に変えることで、この時代に切り込んでゆくことは可能なのではないかという希望さえ湧き上がってくる。教会が大組織となるより、「キリストの体」的表現、つまり、「人生と生活を分かち合うコミュニティ」を実践すること、神の国の祝福が教会の壁を越えて社会に流れ出す事、「日曜クリスチャン」から「365日の主」への転換(聖と俗の垣根を外すこと)が行われてゆくとするなら、エキサイティングな事である。日本の教会は衰退期に入っているという。しかし、神のエクレシアは生命体なので「死なない」のだ。組織、教団、しきたり、伝統は廃れるだろう。しかし、キリストの体=エクレシアは死なない。

 

私たちTMCとしては、都心で「キリストの体」がどう表せるのだろうということを模索してきている。多様なシティ・ライフスタイルの中で、日曜朝10時半のプログラムだけが選択肢であれば、都心のマジョリティを排除することになる。これで「すべての人を弟子とせよ」という大宣教命令を実現できるのだろうか?聖書的根拠のない「こうでなければならない」から解放されて、もっとオーディエンスにフォーカスし、オーディエンスに合わせたスタイルのフレキシブルな「キリストの体=エクレシア」の表現があってもいいのではないか?

 


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執筆者:栗原一芳

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