教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)
ここから教会の本質を模索するため、制度的教会、組織的教会から離れて、いわゆるオーガニックチャーチを求める人達がいます。それは正しい方向性だと思いますが、何事でも極端に行き過ぎる事もあります。大事なことは聖書的であるという事です。
完全に「フラット」という訳ではない
米国のオーガニックチャーチの推進者、フランク・バイオラの著作を読むと、イエス・キリストだけが教会の頭であり、エクレシアメンバーは完全にフラットという印象を受けます。彼の著作には大変影響を受けましたが、同意できない点もあります。バイオラは、霊的に成熟した人が若いクリスチャンを助けるようなSpiritual Accountability (霊的にチェックし合う関係)を否定するし、賛美リーダーの存在すら否定するのです。しかし、聖書を読んでみると、長老、監督という教会のリーダーシップの役が明記されており、それらの役を任命するようにパウロは勧めているし、その資格についても書かれているのです。(Iテモテ3章、テトス1章)
「聖霊のみによって導かれる」は、聞こえはいいのですが、人の集まりにはリーダー的存在は必要です。ただ、そのリーダーはサーバントリーダー(仕える僕)でなければならないのは言うまでもありません。特に日本のコンテキストでは、世話人がいないと動かないようです。
第一世紀の教会が理想という訳でもない
確かに、313年のミラノ勅令でキリスト教が公認宗教になって以来、(特にコンスタンチン皇帝によって)純粋な信仰形態が変質されていったことは事実です。しかし、パウロの時代の教会でも、コリントの教会のように「問題のデパート」というような教会もあったのは事実です。黙示録2章—3章の7つの教会を見ても、主キリストから「お褒めの言葉」と共に「お叱りの言葉」も頂いていますね。単純に第1世紀の教会だからいいという訳ではないのです。聖霊に導かれつつ進んではいましたが、信徒たちは罪を犯すし、教会運営も試行錯誤でした。実際、使徒6章のような問題も生じていたのです。初代教会に学ぶべきところは大きいです。しかし、初代教会といえども、完全な教会ではなかったのです。
初代教会をマネしなければならない訳ではない
教会はペンテコステ(使徒2章)の日に始まったと言われます。誕生したのはエルサレムであり、最初の信徒たちは12弟子を含め、基本、ユダヤ人でした。
当時の問題はユダヤ教(律法主義)との葛藤であり、迫害はまずユダヤ人から始まったのです。このような状況と今の日本とは当然、環境が違います。また使徒2章に見られる「原始共産主義=私物を持たない」的な生活を現代に適応することもできません。聖書に書いてあるからといって「聖なる口づけをもって挨拶」(Iコリント16:20)を実践している教会は無いでしょう。また礼拝に参加する女性が被り物をしている(Iコリント11:6)教会も少ないでしょう。慎重に当時の文化的なものと聖書的命令とを見極める必要があります。
名前を変えればいい訳ではない
いくら牧師を「牧仕」に言い換えても、「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28)というキリストのマインドセットがないなら意味がないのは当然です。場所を家に移しても牧師のメッセージ中心の集会なら「ハウスチャーチ」ではなく伝統的な「家庭集会」と何ら変わらないでしょう。オーガニックチャーチと名付ければいい訳ではなく、「本質」があるかどうかなのです。会堂で集まっていても限りなくオーガニックに近い教会もあります。新約で言う「お互いに」を実践するスタイルがあるかどうかが1つの重要な鍵です。牧師のワンマンショーではいけません。
以前も書きましたが、特に牧師、宣教師の方々がオーガニックチャーチを始めるときに大事なのは「いかに喋らないか」と言うことです。メッセージする事に慣れているので黙っているのは難しいのです。しかし、「お互いに」教会で大事なことは、いかにメンバーが自主的に積極的に参加するかなのです。これには忍耐と知恵と決意が必要です。ある時、婦人たちがオーガニックチャーチを始めたいというので助けに行ったことがあります。いつものスタイル(分かち合い形式)でバイブルスタディをやろうとしてのですが、その婦人たちはあまりにも「先生」からメッセージを聞くことに慣れていて、自分から喋ってくれませんでした。わたしも新参者でまだ信頼関係が築けてなかったこともあるでしょう。意味ある人間関係を築くには忍耐と時間がかかります。
義務感はいらないが、献身は必要
オーガニックチャーチでカフェやレストランで会っているとなると、「気楽で気軽な」イメージがあるでしょう。そして、「行きたい時に行けばいいや」的な気持ちになりがちです。しかし、コミットして参加することはメンバーに対しての「愛」なのです。義務感は必要ないですが、キリストの弟子となるにはキリストへの、そしてキリストの体であるエクレシアへの献身は必要です。英語では「コミットメント」と言いますね。メンバーが常に出入りしていたら、そこにコミュニティを築くことは難しいでしょう。TMCエクエシアでは「意味ある人間関係と祈りで深まり、広がるキリスト中心のコミュニティ」を掲げています。意味ある人間関係を築くには、コミットメントを持った関わりが必要になってきます。愛とはコミットメントとも言えます。
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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