2024年10月10日木曜日

未来都市のエクレシア


従来型のチャーチプランティング

70〜80年代の関東での福音自由教会の開拓が典型的だろう。人口が増えつつあった京浜東北線沿線に開拓伝道していった。ある場合は、その地域に、若い夫婦が増えるのを予測して先取りして教会を建てて宣教した。これが功を奏して、どんどんと教会が増えていった。地域の若い夫婦や高校生などが教会に集っていた。

 

このように、地域に根ざし、地域に住んでいる人たちと知り合いになり、彼らに伝道し、教会につなげていった。これが従来型チャーチプランティングの「王道」だった。これは今でも郊外の市町村においては有効だろう。

 

様々な変化の中で・・

しかし、状況はいつまでも同じではない。かつては都心の周りに住宅地が広がった。いわゆる「ドーナツ化現象」である。多摩ニュータウンなどがその例だ。時代は一周りして、かつての若い夫婦は老夫婦(あるいは独居老人)となり、その子供達は、都心に出てゆき、都心に住み始める。「逆ドーナッツ化現象」が起こった。かつての大集合住宅は建物も住んでいる人も老朽化してきている。戦後の若い家族のニーズに応えた新宿区の巨大アパート群の戸山団地なども、建物自体の老朽化と共に、今は独居老人が多く、限界集落化している。

 

今日、都心で一人暮らししている30代、40代が増えている。独身層が増えている中で、少子高齢化はどんどん進む。これらの年代はインターネット世代で、テレビや固定電話を持たない人も多い。多種多様な職業とライフスタイルを持っている。そういう中で、「日曜の朝10時」の礼拝しか選択肢がない教会は、多くの都市型の人々を排除してしまう結果になる。

 

ここ数年のコロナの状況下で、「教会生活」も大きくチャレンジされ、変化した。インターネット世代はインターネットでの礼拝(他教会の礼拝メッセージを聞くことも含め)を体験してしまった。ある意味、パンドラの箱を開けてしまった訳で、もう一昔前に戻ることはできない。次のステージに前進してゆくしかない。

 

そもそもエクレシアとは・・

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのも ので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

大事なのは、「本来、教会とは何なのか?」を聖書的に確認することだ。教会と訳される「エクレシア」というギリシア語が建物に言及している箇所はない。また、エクレシアは「教える会」でもない。上記の御言葉が語る通り、エクレシアは「キリストのからだ」、すなわち生きた有機体(オーガニック)なのであり、かつ、「キリストの充満」なのである。・・・日本語訳では「・・・ところ」となっているが英語では単にFullness of Christなのであり、本来「充満」と訳すべきなのだ。つまり、エクレシアは「建物」にも「場所」にもこだわらない。

また、エクレシアは「聖徒として召された人々」のことであると書かれている。(コリント1:2)

 

ところが会堂が建てられ、人数が増え、大きくなると組織となり、制度化されていく。管理が必要となり、資金が必要となり、この世の組織のようになってゆく。80〜90年代には「大きいことはいいとだ」とばかりにメガチャーチブームとなった。メガチャーチの牧師はスーパーヒーローになりもてはやされた。中東ではブドウの木は地面を這って横に広がっていく。本来、エクレシア(キリストの体)は、そのように水平に広がる。しかし、「大きく」「高く」と上を目指す巨大化した「教会」は、その本質を失っていく。命を失い「宗教」となって制度化されていく。ビジネス的手法や、成功主義や覇権主義が入り込む。カリスマ牧師たちのスキャンダルも暴露されるようになる。そんな中で、組織的教会に疑問を持つ人々が、本来のエクレシアを求め、オーガニックチャーチを推進するようになった。

 

未来都市のエクレシア

日本の福音派は80年代、90年代にピークを迎えた。80年代にはJEA(日本福音同盟)から「羽ばたく日本の福音派」という本まで出た。「あの頃に戻りたい」と願っても、時代は遡れない。前述したように「状況」が変わってしまっている。そして、今日、東京基督教大学が出したデータで、日本の福音派は「停滞」ではなく「衰退」期に入っていると評価された。

 

戻れないなら、前を向く話をしよう。日本では東京一極化ということが言われて久しい。世界的も急速に都市化が進んでいる。2025年に、世界人口は81.9億人となり、都市人口は58.3%となる。2050年には都市人口は97.7億人となり、都市人口は68.4%となる。都市化、デジタル化、キャッシュレス化は避けられないだろう。日本でもスマートシティが実験段階に入っており、都市の一括電化、デジタル管理化が実現する。都心のライフスタイルは多種多様。都心で働く人を一箇所に一定時間拘束する形での「教会」のあり方が有効的だろうか?巨額の資金を投入して土地を購入し会堂を建てるやり方が有効だろうか?特に注目すべきは中東で、近未来都市が出現している。いつまで教会は、三角屋根に十字架をやるんだろうか?

 

 

世界が都市化する中で、都心でのエクレシアのあり方を考えることが未来につながる。TMCエクレシアは都心でキリストの体が、どう表現されるのかを模索してきた。コロナ前、丸の内、池袋、秋葉原、青山、赤坂で「顔を合わせて」スモールグループで集まっていた。コロナとなり、一度、すべてがzoomに移行した。しかし、そのお陰でメンバーを失わず継続できた。コロナ後、池袋と青山、秋葉原は対面に戻り、あとはzoomのまま残っている。実はメンバーの他県への移動など、いろいろな事情で現地集合が難しくなってしまったグループもあるが、zoomのお陰で継続できている。もちろん、実際に顔を合わせるメリットはあるのだが、自宅にいながら参加できるzoomのメリットも、忙しい現代人には大いにメリットがある。

 

興味深いのは、TMCエクレシアは、以前から「建物」にこだわらないスタイルだったが、今度は「場所」にもこだわらないで継続している。「赤坂エクレシア」と以前の名前は付いているものの、メンバーの一人は軽井沢からzoomで参加している。他のメンバーは2拠点生活になり、仙台から参加することもあった。つまり、もう「赤坂」でさえない。しかし、エクレシアは続いている。青山で集まっていたエクレシアは、メンバーの都合によりお茶の水だったり、東所沢であったり、時にメンバーの自宅であったり変形自在だ。すでにコミュニティがあるので、「場所」はある意味、どこでもいい。そこにキリストがご臨在される限り、そこで、み言葉が分かち合われ、お互いに祈り合う関係がある限り、エクレシアはそこに「存在」している。メンバーは義務ではなく、そこでの祝福を楽しみにして自主的に参加している。

 

都市化は進む。東京湾岸にはどんどんと高層マンションが建築されている。その周辺には教会堂を建てるような「空き地」は存在しない。タワーマンションはオートロックでトラクトのポスティングもできない。どうやって宣教するのか、どうやってリーチできるのか頭が痛い。どう考えてもインターネットとスモールグループのコンビネーションに行き当たる。TMCのあり方が1つの方向性を示しているのではないか。エクレシアは時代に合わせて、その生命を維持しつつ、形は変わっていかねばならないのだろう。21世紀の後半を生き抜くために・・・。

 

聖書ではエクレシアとは何かが書かれている一方で、そのやり方、あり方については詳細には書かれていない。もちろん三角屋根の十字架の会堂についても、説教中心の礼拝についても、日曜10時半の時間指定も聖書には無い。実際、現在の教会で行われているプラクティスの多くは、2000年の歴史の中で、他文化から取り入れてきたものだ。とすれば、既存の教会のやり方にこだわらなくてもいい。聖書の原則さえ守っていれば、キリストにある「いのち」さえあれば、形(スタイル)は多様に変化できるという事だ。エクレシアは「キリストの体」なのであり、オーガニックな「生き物」なのだから。

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

0 件のコメント: