通常、クリスチャンのイメージは日曜日三角屋根に十字架のついた教会堂で行われる礼拝に毎週、通っている人だろう。しかし、欧米では教会に行かないクリスチャンが激増している。2018年2月5日、御茶ノ水で行われた第五回、東日本大震災、国際神学シンポジウムに参加した。そこで、フラー神学大学院異文化間研究学部准教授、ライアン・K・ボルガー博士の講演を聞いた。クリスチャンは地の塩、世の光として生きることが期待されているのに、この世へのインパクトを失ってしまっていると言うのだ。問題は私たちクリスチャンが過去に生きている。つまり今日、私たちが身に付いている行動様式が時代遅れで、この世で普通に生活しているノンクリスチャンの隣人たちに意味のないものになってしまっていると指摘している。
「ノンズ」と言われる人達
ボルガー博士によると、アメリカの教会出席者総数は60年代の半分に減り、宗教と関わりを持たない人の割合もかつては5%だったのが、最近は30%と急増。ヨーロッパでは、人口の80%が霊的事柄に関心があるのに、教会に行く人は2%。また、積極的な意味で教会に行かないクリスチャン、「ノンズ」と言われる人たちが現れ、今日的な霊性の実践を生み出しているといいます。この「ノンズ」に見られる特徴は
1. コミュニティを大事にする。他者への奉仕を中心とした深い関係性に価値を置き、そのような関係性を生み出しています。
2. 個人的な変革を大切にする。自分自身の体、心、そして精神を成長させるために、意識的に懸命に努力します。
3. 第3に、社会の変革を大切にする。善のためのネットワークの創造を通して、世における正義と美を求めます。
4. 第4に、目的を追求する。人生における個人的な使命を明確化し、行動に移します。
5. 第5に創造的。時間と場所を創造的な行動のために使い、遊ぶこともする。
6. 第6に、責任感がある。決められた目的に向かって、自分自身と他者と働くことができるように促します。
7. 第7、存在の根源。最も大切なものへの探求。
これらの「ノンズ」は小さなコミュニティに関心を持ち、大衆的説教より個人的メンターの存在に必要性を感じている。ボルガー博士は、教会がその本質を取り戻すために、必要なことは西洋的形式主義を取り除くことだと断言している。多くの欧米人は文化的に教会に「通っている」意味を失いつつある。むしろ、教会の外でキリストへの信仰を表現することに関心を持ち出している。日本も他人事では無い。一気にそういう流れにならないとも限らない。しかし、それは絶望より、希望と言えるのではないか?教会が博物館のようになってゆく中で、「教会」という形を守ることが大切なのか?それとも現代社会に意味ある信仰生活を生きることが大事なのか?その質問が突きつけられている。
すでに2007年に地引網出版で翻訳出版されたジョージ・バナーの「レボリューション」に霊的な体験と信仰の表現の主な場所が教会外へ推移してゆくということが書かれている。
信仰の表現の場は外に向かう
バナーは面白い指摘をしている。2025年までにアメリカの霊的環境は大きく変わるというのだ。アメリカ人が信仰を体験し、信仰を表明する「場所」として、3分の1は教会、3分の1はキリスト教ではない信仰の共同体を、そして3分の1はマスコミや芸術、カルチャーセンターなどを選ぶと予測されるというのだ。これは2000年には霊的な体験と信仰の表現の場として教会が70%であったのに対して、教会と教会以外の場が同等になってゆくことを示している。また信仰の表現の場も教会堂の中だけでなく、マスコミや芸術が3分の1となるというのだ。これは社会への影響という視野からは好ましい傾向ともいえる。
さらにボルガー博士の言う「ノンズ」の存在は10数年前すでに存在を始めていた。「レボリューション」の中にミニ・ムーブメントを起こす人達として取り上げられている。「教会」を去ったクリスチャンたちは日常の現場で霊的コミュニティ作りを始めていたのだ。
ミニ・ムーブメントの特徴は・・・
1.神に対するまっすぐな信仰
2.個人的な関係を重視
3.人生の変革 トランスフォーメーション
4.明確なグループ目標=霊的成長
5.個人の人生にかかわる
このムーブメントは職業的牧師や宣教師に頼らないという特徴がある。彼らが生活の場で与えられたポジションのまま、神がご臨在を顕してゆく。信徒/宣教師という枠も超えてゆく。バナーは職業的な牧師は減ってゆくと予測している。
現代人が価値を置くもの
現代のアメリカはポストモダンであり、若い人を中心に以下のような考えになってきている。人生で最も大切なのは人間関係。結果より過程。効果的に社会に影響を与えるのは、人との会話。一方的にしゃべりまくって信仰を押し付けても、人々は耳を傾けない。パフォーマンスやプログラムより純粋な「愛」、個人的な「信頼性」が大事。原則や命令より、個人的な証や体験を重視。ただ聞くより「参加」や「体験」を重んじる。これは現代日本のヤングアダルトも同じだろう。
このような考え方は当然ミニストリーにも影響を及ぼしてくる。ノンクリスチャンの友人を大きな伝道集会に連れてゆくより、個人的な会話をしたいという気持ちが強まっているという。そういう傾向自体が悪い訳ではない。そして、そういう型に合わせられる柔軟性を聖書は持っている。たとえば、集会で一方的に話すより、参加型スモールグループでお互い、聖書の箇所を通して語られたことを分かち合うこともできる。この型だと全員参加できるし、お互いからも学べる。そのために顔を向けて話し合える物理的な環境も大事だ。礼拝堂が固定した長椅子の場合、「お互い」を実践するのが難しくなる。
「刷新」ではなくあえて「革命」
ジョージ・バナーは教会の「刷新」ではなくあえて「革命」と言った。
「もっと端的に言うなら、革命とは私達が教会に『行く』ために召されているのではないことを認識することである。私達一人一人が教会に『なる』ために召されているのである。(p46)
革命のためには、どうしても教会と礼拝(儀式としての)のことに触れなければならない。
「しかし、聖書には、今日私達が知っているような教会の姿は描写されていないし、勧められてもいないことにお気づきだろうか。現在のような『教会』は
何世紀も前に、宗教指導者たちが人々をよりよいキリスト教徒にするために作り出したものである。しかし、多くの人たちが重要と思っている教会—礼拝、職務、行事、建物、儀式—は聖書的でも非聖書的でもない。教会は無聖書的なのだ。すなわち教会組織は聖書には書かれていないのだ。・・教会は健康的で私達の助けになりこそすれ、神聖にして犯すべからずという性質のものではない。」
(p.44 *これに関しては、ジョージ・バナーとフランク・バイオラの共著、「異教まみれのキリスト教?」に詳しく説明されている。)
教会組織は聖書に書かれていないのであれば、変革するスペースがあるという事でもある。私達の頭の中に日曜朝10時半の礼拝は「神聖にして犯すべからずもの」という固定観念がないだろうか?これを変えることは罪であるという思いが在る。しかし、聖書を読んでみると、実は確固たる論拠はない。アメリカの農民達が集まり易い時間帯だったという説もある。「礼拝厳守!」と若い頃言われた事がある。「礼拝を守る」とも言う。その「礼拝」とは何を指しているのだろうか?もちろん神を礼拝することは当然であり、大切なことだ。聖書を読むと、礼拝はまず、儀式というより「霊的なもの」であることが分かる。
「神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)
極端な事を言えば、立派な会堂で4000名集まる有名な牧師の聖書的なメッセージが語られる礼拝に出席していても、ランチメニューを思いめぐらしているようでは、真の礼拝とは言えない。3−4名でリビングルームに集まっていても、真剣に神を求めていたら、そっちのほうが真の礼拝ということもあり得る。
もちろん、家の教会にすれば解決するといったシンプルな話ではない。重要な事は真の弟子が育っているかどうかである。ただ、真の礼拝が会堂の大きさや、その教会の有名度や、人数の多さに関係ないことは明白だろう。そもそも礼拝とは、その人の「生き方」であって、礼拝という「行事」に参加することではない。
「あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
ボルガー博士の結論
ボルガー博士の講演の結論をここにお分かちしよう。
「教会は、私たちの時代においてキリスト教を自由にするために形式主義を取り除かなければなりません。塩となり、光となるよう私たちを自由にするために。」
ボルガー博士は、「ノンズ」をただ批判しているだけなら、その人たちはさらに漂流して他宗教へ行ってしまうこともありうると警告している。この流れを止めるよりも、励まし、正しく導いていく霊的指導者(個人的なメンター)が必要なのではないだろうか? 彼らが励まされて生き生きとした信仰を保てるなら、現代社会において、彼らの生きる現場で、「地の塩」、「世の光」となっていける可能性は大きいのだから。
「教会」は「行くところ」ではない。私たちが「教会=聖霊を宿した神の宮」、礼拝は参加する儀式ではなく、「生き方」とするならば、信仰の表現を日常のアリーナへ戻し、イベントとしてではなく、日常生活のどこかで定期的に「集まり」、主を礼拝し、信仰を励ましあうことができる方向へ動いてゆくことができるのではないか?
レボリューション〜今、教会に起りつつある革命
ジョージ・バーナ著
地引き網出版 1600円
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com (ブログ執筆者 栗原)
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