2011年9月24日土曜日

愛の神と悪の問題



「今回の東日本大震災で2万人以上の犠牲者が出ている。なぜあなたは愛の神なんか説けるの?」

テロなら人災だ。自然災害は解釈が難しい。クリスチャンの死はこの地上の使命が終わったという解釈ができる。行き先はこの世よりベターな天国だから文句は言えない。しかしだ、ノンクリスチャンの場合、どう解釈したらいいのか?裁き?じゃ、東北の人がより罪深かったというのか?それはありえない。

イエス様もシロアムの塔が倒れた時、あの人たちは特別罪深かったというのか、いや、悔い改めないならあなたがたも同じようになるとおっしゃった。(ルカ13:4−5)他の人への見せしめ?それにしても、すでに今回、2万人もの人が悔い改めのチャンスを奪われた。どう解釈しても釈然としない。すべては説明つかないのだ。神のやることにはかならずミステリー(謎)がつきまとう。まず、それを素直に認めよう。

まず、エモーション(情緒)的問題なのだ。誰もがフラストレートしている。やり場の無い怒りを抱えている。ある被災者は「天に文句言った。」と。それはある意味、自然な応答ではないだろうか。神はその文句さえ受け止められるのではないだろうか? 癒しの前に感情を吐き出すステージがあるだろう。

怒り、文句、批判、フラストレーションをぶちまける必要がある。まず、相手の感情を扱う必要があるのだ。そして、みんなが共有できる思いから入ってゆく。

1.人々が死んでほしくないよね。僕は死んでほしくないと思ってる。神は人が死んでほしいと思ってると思う?

「わたしは決して悪者の死を喜ばない。悪者がその態度を悔い改め、生きる事を喜ぶ」(エゼキエル33:11)「私が来たのは羊が命を得、それを豊に持つためです。」(ヨハネ10:10)「神はその一人子をお与えになるほどに世を愛された。それは御子(キリスト)を信じるものが一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」聖書の中で神が語ってることだ。これを読んでどう思う?

2.神は始めから世界をこのように苦難に満ちた場所として創造したと思う?

神の造った世界は良かったんだ。もし、神は始めからこのような世界を創造したなら、ボードレールがいうように「神が存在するなら、それは悪魔だ」ということになる。今ある世はアブノーマルなのだ。神の目から見ても。神は満足してない。手放しで喜んでる訳じゃない。この世界がこのままでいいと思っていない。神が悪や苦難の作者ではない。神もそれを憎んでいる。イエスはラザロの死に直面し、涙を流された。エデンの園には天災は無かった。聖書は人の罪ゆえに地が呪われたとある。神のせいじゃない。

3.でも、神は呪われたこの世界を指をくわえて見てるだけなのか?解決に向けて何かしないのか?愛の神なら人々を救うため何かすべきでしょう?

はい、その何かをもうすでに神はしたのです。一人子イエスを地上に送って呪いを全部引き受けて十字架で死なせたのです。イエスは十字架上で言いました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているかわからないのです。」イエスは十字架の上で苦しんだ。(十字架につくべき罪を何も犯してないのに。これは非合理的だ。不条理だ。)だから、今、苦しんでいる人の気持ちを理解することができる。イエスは、あなたの苦難に無関心ではないのだ。弱さに、痛みに同情できない方ではないのだ。
(ヘブル4:15)

4.神は苦難が永遠に続く事をお許しになると思いますか?

  いいえ。それを終わらせるためにイエスを送って購いの業を完成させたのです。神は新しい天と地がくる事を約束しています。実は苦難の問題には2つの神学的命題がつきまとう。神は苦難を止められないのか?止められないなら神は全能ではない。ならば、神は止められるけど止めないのか?ならば、神は愛ではない。もちろん、神は止められる。問題は、タイミングなのだ。止められるけど、今すぐではない。なぜ、すぐではないのか?伝統的に理由は2つ、1つは終わりを遅らせることで、一人でも多くの人が福音を聞き永遠の御国に入れるチャンスを与えるため。もう一つは救われた人々の魂の成長のため。もちろん、これで100%釈然とするわけではないが。

5.逆の立場からアプローチしてみよう。もし、本当に神がいないなら、どういう解釈になるのか。選択はこの大自然の為すがまま、つまり適者生存、弱肉強食となる。あるいは、利己的遺伝子に操られた乗り物としての人間がいるだけになる。怒りをぶつけられる相手は誰もいない。天災は、ただの自然現象であるにすぎない。雨が降り、風がふくように、地震も起こるべくして起こっているにすぎない。そこに居合わせた人は単に運が悪かったとしか言いようがない。しかし、多くの人はそれでは納得いかない何かを感じている。

つまり、神に対して怒りを持っている人は(そして、ある期間それが当然なのですが、苦難を受けたヨブもそうでした)、愛の神を信じたいけど、目の前の現実がそれに一致しないので、悩んでいる訳です。それはある意味での信仰告白なのです。信じるとは質問すること。不信仰とは無関心。無視して通りすぎること。神にからむのは神が気になるから。もう一つ、知らなければならないのは、死は1つではないということ。(ルカ12:4−5)肉体の死だけではなく、永遠の死(神との永遠の離別これを地獄という)があると聖書は明言している。神が新天新地を送らせている理由は一人でも多くの人が永遠の死を免れるよう、福音を聞けるようチャンスを与えるためである。

何度も言うように、ミステリーは残る。説明しきれない何かが。それはそれとして認めよう。素直にノンクリスチャンにも、「わからないよ」ということも必要だろう。議論に勝っても、相手が心を閉ざしてしまったら何にもならない。

Apologetics(キリスト教弁証論)の目的は自分の正しさを証明し議論に勝つことではなく、相手の魂が救われる事にある。

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2011年9月17日土曜日

キリスト教は排他的?


「キリストだけというキリスト教は排他的なのではないですか?」

古今東西、面白い恋愛映画やドラマは三角関係の話なのだ。その根底には「あなたはわたしのもの、わたしはあなたのもの」という男女1対1のExclusive(排他的)でなければ本物でないという考えが有るのだ。だから三角関係になると嫉妬や裏切りで苦しみが生まれる。(それでドラマとしては面白くなるのだが)誰でもいいのではない。

若い女性に聞いてほしい。結婚相手は誰でもいいですかと?誰でもいいはずが無い。自分が人生をコミットするのに誰でもいいはずは無いのだ。自分が信頼できる人。自分のすべてを与えられる人だから、「この人」となるのだ。自分のすべてを与える信仰も同じだ。どの神でもいいのではない。やたらめったらに見知らぬ他人誰にでも電話して悩みを打ち分ける人はいない。どの神にでも「祈ればいい」とはいかない。信頼できる神にしか話せないのだ。クリスチャンは「イエスの御名によって」祈る。

ついでにポストモダンの相対主義について話そう。絶対を失った現代人は過去の伝統も「脱構築」し、中心をずらして解釈する。太い幹はもはや無い、細胞のようにフラットに増殖するもののみ。そうするとすべては並列化され、相対化される。世界の文化しかり、世界の宗教しかりである。しかし、この考えを進めると自分の言っている事も脱構築され、テキストをどのようにでも読み替え可能となってしまい、自分の考えを生活に他人に伝えられなくなる。ポストモダンのメッセージでさえ、脱構築されてしまう。

「キリスト教は、あなたにはいいけど、私に押し付けないで。各自、いいと思ったものを選択すればいいんじゃない」そうは言ってもやはり、自殺クラブは勧められない。何でもいいわけではない。そして、寛容が売り物の相対主義の人は、意外と絶対主義の人同様、排他的で相対主義でないものは許さないのだ。

「私はクリスチャンでイエスだけを神として信じてます。」と言うと、「そういうのは不寛容なんじゃない?」と言って許さない。相対主義という1つの信念、世界観になっており、それ以外の世界観を許さなくなってしまう罠にはまっていることになる。


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2011年9月10日土曜日

「宗教と寛容性の問題」



1993年、世界宗教会議でダライ・ラマはこう述べている。「各宗教はそれぞれの哲学を持っている。多々有る伝統の中であるものは似ているし、違いもある。大事なことは、何がその人に合っているかである。我々は形而上学や神学の抽象的詳細にこだわるのではなく、宗教の基本的な目的に注意を払うべきだ。

すべての宗教は人類の幸福、向上を一番の関心事とすべきだ。それぞれの違う宗教を他の人に対する良き心(愛と尊敬)や真のコミュニティを形成する手段と考えれば、その共通していることのゆえにお互いを認め合えるのだ。おのおのが自分に合った宗教の形を選べばいい。自分には仏教が一番フィットすると感じている。しかし、それは仏教がすべての人にとってベストだとう訳ではない。」

これにはかなり、共感する人がいるだろう。まとめてみると、彼のポイントはこうだ。

1.寛容:自分には仏教が合っているが、だから仏教がすべての人にとってベストという訳ではない。他の宗教を批判しない。

2.宗教は人間の社会的、肉体的ニーズを満たすために存在している。すべての宗教は人間の幸福、向上のために存在している。

3.すべての道は同じところに到達するという前提。

4.宗教の形や教義にこだわらない。


宗教の目的が人間の幸福の手段なら、宗教は人がつくったものである。パウロは人の歓心を買おうとしているのではない。(ガラテヤ1:10)と宣言しているが宗教が人間のために作くられた手段ならダライ・ラマの考えが正しいだろう。しかし、パウロがいうように福音が神から直接与えられたものなら、人間のかってな解釈ではなく、神に聞かなければならない。

本当にすべての宗教の目的は同じですか?オウム真理教は、自分たちの教団の秘密をあばこうとした坂本弁護士をポア(殺人)することを正しいと考えた。自分たちの目的遂行のため邪魔するものを抹殺してもいいとキリストは教えなかった。(あなたの敵を愛しなさい。)その人にフィットすれば、どんな宗教でもいいのだろうか?


やはり、間違っている事は間違っているのではないだろうか? 宗教は良い心を目指すという。しかし、何を持って「良い」とするのか。その基準もそれぞれの宗教によって違う。ユダヤ教では「隣人を愛し、敵を憎め」と教えた。キリストは「敵をも愛せよ」と教えた。ある宗教では善も悪もなく、究極のリアリティは1つだと教える。では、いかにして「良い心」と「悪い心」を区別するのか。

宗教の中には仏教のように神を考えない、無神論的なものもある。そこで、人間の尊厳をどう定義するのか。生命が等しく尊いなら台所のゴキブリを殺してもいいが、なぜ人間を殺すと犯罪になるのか。正、間違っているを区別する「真理」があるはずではないか?もし、「真理」があれば、「真理」でないものは「間違っている」のだ。ある宗教は「悪」は幻想だと教える。通り魔に小さな娘が刺されても、それは幻想ですというのか。それを「悪」と呼ばなくていいのか?それでも宗教はみな同じというのか。「善も悪も、この世界も幻想」と教える宗教にとって、「良い心」にむかって努力する営みはむなしくないか。我々はリアリティが必要なのだ。善悪の基準が必要なのだ。聖書では愛の神がご自分の荷姿に人をつくったとある。ここに人間尊厳のリアリティがある。道徳のベースがある。善悪のベースがある。
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2011年9月3日土曜日

科学の時代に宗教なんて



「科学の時代に宗教なんて時代遅れ。科学は客観的で信頼できる。宗教(信仰は主観的で非合理、だから信用できない。」

この科学神話は18世紀の啓蒙主義までに作られた。科学がすべてを解決する、だから、神はいらないと。しかしながら、ガリレオやニュートンなど近代科学の基礎を作った人たちは神を信じる人々であった。神がつくった世界という本を読み解くことが科学であったので矛盾はなかったのだ。

今日でも多くの科学者が自分の信仰と自分の仕事に矛盾を感じていない。宇宙創始のファインチューニング(英国の数理学者ロジャー・ペンローズによると、宇宙が今の宇宙である確率は10の128乗分の1であるという。)、美、自然の秩序はむしろ神を指差してはいなか? 科学の前提は時代とともに変わってゆく。アインシュタインの頃までは宇宙は宇宙定数で保たれる永遠に一定の不変のものと考えられていた。しかし、今日、スティーブン・ホーキングら、宇宙科学者は宇宙のはじめは特異点という質量ゼロ、エネルギー無限大という点から、始まった(時間、空間さえも)とする。それは創世記の神の世界創造をむしろサポートする考えではないか?相対性原理では時間と空間は歪む。2本の平行線は交わらないというユークリッド幾何学が通用しない世界があることがわかってきた。(ブラックホールの中など)電子は1個2個と数えられる物質だが、電子銃で2つ穴のあいた板に電子を打つと、何と2つの穴を通ってしまう。これが有名な電子のスリッド実験である。電子は個体であり、同時にウエーブでありうる。常識さえもどんどん塗り替えられている。奇跡はありえないと断言できるのか?

あなたは宇宙をどれほどわかっていますか?何パーセントわかってますか?科学者が知っている宇宙物質は4%にすぎず、未だに96%は未知のダークエネルギーとダークマターなのだ。つまり、ほとんどわかっていない。それでも、あなたは神はいないと断言できるんでしょうか?あなの頭脳は137億光年の宇宙をまんべんなく見渡せるのでしょうか?

もう一つ、なぜ、神はいないと言ってながら多くの人はあたかも神がいるように生活するのでしょうか?人間の尊厳なんていうこと言うのでしょうか?なぜ、命が大事なのでしょうか?なぜ、いじめたり、騙したり、盗んだりするのはいけないと学校で教えるのでしょうか?なぜマザーテレサのように犠牲をはらって苦しんでいる人を助ける姿をみて感動するのでしょうか? 愛、希望、自由、信じることなど、目に見えないものに価値を置くのでしょうか? 人間は利己的遺伝子に乗っ取られた乗り物と言われて、なぜ、違和感を感じるのでしょうか?

サイエンスライターの竹内薫の本「99%は仮説」にもあるように、科学は仮説をたて、それを「信じて」証拠を見つけてゆく。「信じる」ことは人間のノーマルな認知の仕方の1つなのだ。ただ、信仰には「盲信」と「信頼するに価する対象を信じる」信仰と2種類ある。キリスト教はイエスの十字架と復活という歴史的事実に基づいており、多くの証人の証言からも信じるに価することを知る事が出来る。

なお、関心ある人は栗原のブログ
「科学が聖書に近づいた?」 http://blog.livedoor.jp/digjinsei-science/
「時代はスピリチュアル」 http://blog.livedoor.jp/digjinsei-spiritual/
もご覧下さい。
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2011年8月26日金曜日

キリスト教は環境破壊の原因?



「キリスト教は人間至上主義で、自然搾取、環境破壊の原因になってるんじゃないですか?いわゆる先進国のあり方はそうでしょう。」

「聖書は人間が世界を支配せよと言っている。人間のために自然がある。だから、人間は自由に自然を望むがままに搾取していい。どうもキリスト教を土台とした西洋の文化にはそういうところがある。一神教より、汎神論のほうが平和的で、自然にやさしい。」よくある意見じゃないでしょうか。

では、この質問に答えてください。

1.はじめに神が創造した理想の園、エデンの園では人間と動物、あらゆる自然がバランス良く生活してたのではないですか? 神はそれを見て、「良し」とされたのではないですか?(創1:31)

2.なぜ、ノアの箱船には動物が乗っていたのでしょうか?神が動物も救うように命じました。神は動物をケアしないのでしょうか?(創6:19)

3.もし、神が英知を注ぎ込んで、この物質的な世界も造られたなら、(実際、この世界はすばらしくよく出来ています。)創造の主である神はご自分の創造した世界をケアしたいと思いませんか?(箴言8:30−31)

4.ローマ書、8章21−22節には、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子供達の栄光の自由のなかに入れられます。被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあります。人間の罪によって呪いの下に置かれている被造物すべてが解放の時を待っているというのです。神の購いのご計画は人間のみならず、神が造られた世界全体を含んでいるのです。これは神が造られた世界を大事に思っておられるからではないですか?

宗教改革の神学者、カルビンはこう述べています。「人間を扱うと同様に動物に対しても正しく扱わなければならない。」

人間のために自然があるという解釈は聖書ではなく、アリストテレスの哲学から来ているのです。自然資源の搾取は、むしろ、ダーウインから発生した優性主義、社会進化論、適者生存などの思想から推進されるようになったのです。聖書が教えているのは人間が地上を占領するのではなく、責任もって統治するということです。(創世記1:28の正しい意味)イエスも焼いた魚を召し上がった。適切な食物連鎖は神の定めた自然界の秩序であるとも言えます。ただし、聖書は、人間のどん欲を戒めています。限りない欲望は人間を滅ぼします。

ちなみに、汎神論的な日本人がキリシタン迫害で、島原では20万人が雲仙の熱湯に入れて殺したといいます。汎神論者が平和主義とは限らないのです。また、一神教を否定する、無神論の共産主義も中国の文化大革命で多くの犠牲者を産み、キリスト教国でない、カンボジアのポルポト政権の下、大虐殺が起こりました。アジア的汎神論や多神教のほうが寛容で、平和でいいとは一概には言えません。

厳密にいうとキリスト教は1神教ではないのです。イスラムの神と同じではありません。あえて言えば三位一体教です。父、御子、御霊の3つのパーソナリティがあるから、関係があり、愛がありうるのです。その愛が被造物(人間を含め)に溢れ流れているのです。その神は搾取の神ではなく、その一人子さえ、お与えになる(ヨハネ3:16)惜しみなく与える神なのです。真にイエスに従えば、搾取より、与える者になるのではないでしょうか。
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2011年8月14日日曜日

「あなたはら何て答える?キリスト教の難問」



さまざまな難問にクリスチャンとしてどう答えるのか。これを、キリスト教弁証論、英語ではApologeticsといいます。現代のインテリ都会人に伝道するのに、避けて通れないことでしょう。また、キリスト教、聖書に関して多くの誤解もあります。それを解いてゆくことも伝道の大きなステップでしょう。しばらく連載で、このテーマを扱ってみましょう。まず、第一問。


「聖書って現実離れした精神主義の世界でしょ。キリスト教は禁欲主義だから、オレなんかはついていけないな。」


答え:
キリスト教は精神主義ではありません!

えっ、そうなの? まず、旧約聖書を土台とするユダヤ教は精神主義ではないし、禁欲主義でもありません。旧約に登場する人々は、生身の人間で、非常に人間臭いのです。雅歌はソロモンが書いたといわれるラブソング集ですが、ホットな性的な関係を描いています。神が世界(目に見える物質世界)を創造された時、すべては良かったと言われました。神の姿に造られた人間は肉体を持つ者として、創造されたのです。そこに矛盾はありません。神は土から人間の肉体を作り、ご自身の荷姿(内面)を造られたのです。


キリスト教は、精神主義や禁欲主義ではありませんが、ギリシア哲学(とくにプラトン主義)の影響を受けた神学者たちが、ずれた解釈を始めたのです。目に見えぬ神がイエスとして、肉体をとってこの世にこられた。これが聖書のメッセージです。かえって、異端のグノーシス主義が、神は悪しき肉体をもって人間になることはありえない。イエスは仮に肉体として現れたのだと主張しました。これを仮現説と言います。しかし、これは聖書の主張ではないのです。


もう一度言いましょう。神は人間を男と女に、肉体を持ったものとして造られたのです。そして、造られた後で「良かった。」と言われたのです。これは肉体の肯定です。否定ではありません。雅歌では男女の愛、それも肉体的な愛の表現を肯定しているのです。もちろん、奔放な性は慎むべきですが、夫婦間のセックスはむしろ勧められているのです。神は「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」と命令までされているのですから。

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2011年8月8日月曜日

「なぜ神はいなくならないのか? 新無神論にどう対処する」



まず、最近出版された本を紹介しよう。英語のタイトルはWhy God won’t go away SPCK出版)でキリスト教界では広く支持されている英国の神学者 アリスター マクグラスが著者である。

事の発端は利己的遺伝子の提唱者のリチャード・ドーキンス博士が書いた「God Delusion」(和訳あり)での攻撃的なまでの無神論提唱にある。しかし、ドーキンス博士はなぜ今更、そこまで攻撃的に1昔前に型のついた無神論を蒸し返すのだろうか。それは裏をかえせば、ニーチェが「神は死んだ」と宣言して以来、今日まで神は死ぬどころか、居なくなりもしていないということではないか。

本書ではドーキンス博士の他、この新無神論の提唱者としてThe End of Faithの著者、Sam Harris, Breaking the spellDaniel Bennett, そして、新無神論のネットワークである“Edge” のJohn Brockmanを取り上げている。

ドーキンス博士の主張は「神は証明できず、したがって宗教は、非合理で非科学的である」とするもの。何ら一昔前の無神論と違わないように思えるが、9・11からのパラダイムではモノを言う。つまり、


「証明できない神を信じる宗教は非合理で非科学的。それどころか非道徳的でさえあり、放置しておくと9・11のように破壊的活動に出る可能性がある。従って、世から神と宗教を抹殺することが世界の平和につながる。」


要はそういう論理で、単なる哲学以上に実践的、政治的色合いの濃いのが特徴である。思想とそれを語っている人間をも区別せずいやみは攻撃をしてくるようだ。(彼らが自負するほど理性的、道徳的とは思えないが)

生物学者のドーキンス博士の論理はユニークである。Memeという神を信じさせる遺伝子がビールスのように人間の頭脳に伝染しているという。一見、科学者らしい論理に見えるのだが、実はなんら証拠がない。それこそイリュージョンなのではないかと言いたくなる。マクグラスが指摘するように、それが遺伝子の働きなら、無神論を信じるのも遺伝子の働きとなるはずだ。科学と人間理性を、ことさらに賛美する新(新しくもないが)無神論はポストモダン哲学からは「遅れている」ということにならないか。新無神論者は18Cの啓蒙主義こそ帰る場所だとするが、ポストモダン哲学者達は、とっくに理性の限界を認識して、理性を信じていない。彼らに言わせれば時代錯誤もはなはだしいとなるだろう。また、彼らの言う科学認識もアマチュア的で、科学が何でも解決する的なナイーブなものだ。実際は、科学の「仮説」もどんどん変わっている。また、真の科学は第三者的批判に公平に耳を貸す。ところが、宗教の偏狭性を指摘する新無神論者は、人の話に耳を傾けない、自らが偏狭なファンダメンタリストとなってしまっている。

真の問題はここだ。それが宗教であれ、政治であれ、何であってもファンダメンタリストにはそれなりの律法や儀式、主義、ヒーローが存在する。彼ら自らも他を攻撃するアブナイ存在になってゆくのだ。ブログでの中傷はエスカレートし、仲間うちで内ゲバ闘争のようになっていく。マクグラスが指摘するように、要は宗教の問題というより、宗教であっても政治であっても哲学であっても、白黒をつけ、自分以外を異端とする「fanaticism - 熱狂主義」に問題がある。本当に神がいないのなら、誰も人々にテロをやれと語るものもいない。つまり、自分たちの判断で動いているわけで、すべては人の側の問題となる。純粋な人災である。いない神を非難できないのだ。しかし、反対者たちにとっては罪をなすりつけられる神がいてくれたほうが便利なのではとまで思いたくなる論の展開だ。

神がいないなら、神を非難できない。すべては人間の問題となり、ボールは自分に戻ってくる。この新無神論運動も、結局、神を消し去ることはできないようだ。実際、神を信じる人々は増え続けている。世界のクリスチャンは増加している。世俗化の進むアメリカでもはっきり無神論を宣言する人は4%にとどまる。

どうやら、神はいなくならないようだ。自分の推測としては、純粋な無神論より、物理科学と融合したようなニューエイジ的スピリチュアリズム(多次元、集団無意識、宇宙意識など)がポピュラーになっていくのではないか?

それでは次回からは、実際に現代人がよくする質問にクリスチャンはどう答えるのかを見てゆこう。
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